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ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

スファと藤を見に藤井寺へ行って来ました

2015-04-29 15:25:14 | お出かけ
今日はスファと一緒に藤を見に藤井寺へ行って来ました























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4月28日、146回目の「火曜日行動」です。

2015-04-28 14:51:09 | 火曜日
4月28日、146回目の「火曜日行動」です。






  4月28日11時半、70階段を上ります。













  府庁の正面玄関が見えてきました。







 12時5分前、到着です。





 12時きっかりに暖かくやさしい長崎さんの声がそよ風に乗って府庁前に響き渡りました。


 「長崎さんのアピールはいつもこころに沁みます。
   
  誰にも理解できる内容をやさしい言葉で語りかけながら、でも訴える力強さはびしびし伝わってきます。

 橋下市長がかって大阪朝高を訪問した時、自分も同じラガーマンだったからと、ラグビー部の学生にエールを送ったこと。初級学校を訪問して笑顔で子どもたちに接していたこと。しかしそのあと、彼のやったことは補助金の停止であった。

 彼はどうして子どもたちを平気で裏切れるのか。日ごろ「差別」に警鐘を鳴らしている行政が、どうしてこのことを差別と考えないのか。
長崎さんのアピール聞きながら胸に悔しさがふつふつと沸いてきました。


  ぜったいに負けられない、という気持ちがこみ上げてきました。」(横道さんのレポートです。)









  今日は若者二人が横断幕を持っています。二人とも可愛い教え子です。教え子をこの場所で見るのは本当に嬉しいです。







  長崎さん、井上さん、今日もお疲れ様です。





  「火曜バンド」今日は3人の様です。いつも元気を頂いています。







  館山さんの温か~い背中が今日は大きく見えます。





  梁オモニ!「春母会」の長老です。でも80を超えているなんて誰も思わないぐらいお元気です。今日も一番乗りでした。









  いつもの仲間を見ると自然に心が和みます。ついつい歌が出てきます。心の中で・・・


  ~火曜日の正午 そこにはきっと あなたが あなたが 待っている
  
   早くおいでと手をふりながら~





  ごめんなさい。お名前聞くの忘れました。
   










  伊藤さんのマイクアピールが始まりました。















  子供の日が近いからか府庁前の工事現場に「鯉のぼり」が掲げてありました。







  趙さんの力強いアピールです。





  キャンディおばさんのクッスンさんが魔法の飴をくばってくださいます。本当に不思議です。一口、口に含めばいっぺんに疲れが吹っ飛ぶのですよ。







  吉田さん有難うございます。「時々しか来れなくてごめんなさい」なんてとんでも無いです。有難うございます。









  大村さんご夫婦も続けてアピール下さいました。

  4月に府庁前に立てば1948年4月24日に行われた4・24教育闘争を思い出すと…

  犠牲になった金太一少年を思い出すと・・・


  今日は学生たちの詩を朗読する準備をしていましたが、時間が来てしまいみんなで2週間分の合唱をしました。

  来週は祭日なので府庁前には誰もいませんから…





  火曜バンドでいつも帽子をかぶり演奏されているので知りませんでした。こんなに可愛くリボンをつけていたなんて…木村さん!













藤棚が見事です。









  2週間空けばもうつつじは無いでしょう。次は紫陽花ですね。では・・・   

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春の花たち(4・28の散歩道で)初めてアイホンでの投稿

2015-04-28 10:44:26 | 花たち






















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日記 昨日の日記(4月24日)

2015-04-25 21:21:21 | 日記


  4・24という意味深い日に「無償化裁判」第11回口頭弁論を傍聴いたしました。





  100名を超える方々が傍聴いたしました。弁護団を代表して木下弁護士が意見陳述をしました。

  反論は私たち素人が聞いても理解ができる納得のいくものでした。

  「無償化を得たいなら一条校になれば良い」という被告側の主張がどれほど理不尽で、民族差別に満ちた欺瞞的なものかを論理整然と反論した弁護団に大きな拍手が送られました。






  「無償化連絡会」共同代表の藤永先生の意見書が大きな力になったようです。




   新しく弁護団に加わった鄭弁護士も紹介されました。




   長崎さんと大村さんもこれからの予定をお話されました。





   ますます元気の出る傍聴会でした。次回は7月15日です。




   傍聴を終えて「春母会」のみんなでいつもの洋食屋さんに行きました。今日はカボチャパスタの定食を頂きました。



   前菜です。



   食べ放題のパンです。




   メインのカボチャパスタです。





   食後のコーヒーです。これ全部で1000円です。美味しかったです。


   昼食後お店の前で別れて病院に向かいました。お見舞いに行くためです。手術をした時は1週間毎日行ったけど、術後は集中治療を日にちを開けてするので1週間に一度行くことにしています。













  昨日はつらい日だったらしいけど、2時間半ほどお喋りしたので元気になったようです。私はただじっとお話聞いただけだけど…




  その日の夜は教え子と逢いました。大分前にFBで繋がっていたのですが、カンボジアから帰ったと彼からメールがあり、会いたいので時間を作ってほしいと連絡があったのです。夕食の準備をダッシュですまし、約束場所に向かいました。

  行きつけの同胞の居酒屋に行き楽しい3時間を過ごしました。




  カンボジアには「金日成大元帥通り」が在るそうですが、主席がお亡くなりになって間もないころにこの通りの名前をこう命名したそうです。カンボジアとウリナラの友好関係を感じざるをえません。


  カンボジア帰りの教え子との15年ぶりの再会です。夢多き30歳!


  大きな抱負を胸に帰ってきました。話しを聞きながら今とても幸せな気分に浸りました。


  彼を担任したのは中2の1年だけでしたが、こうして忘れずに訪ねてきてくれたことがあまりにも嬉しくて、昨日は2杯も酎ハイ飲んでしまいました。


  偶然近くのテーブルには東京公演から帰ってきた「一人芝居のキム・キガンさん」達がやってきました。


   偶然とはいえ2重の喜びです。


   10時過ぎに次の再会を約束して別れました。

   
   あの時代、頑張っても頑張っても想いが届かず、何回もつぶれそうになったけど、15年以上たってあのころの教え子が自分を訪ねてくれたおかげで、胸のつっかえがすっと取れたようで感無量でした。


   「4・24」の日に、午前は民族教育を守るために裁判の傍聴に行き、夜は教え子との再会と、本当に意義深い1日になりました。





   家の玄関のアーモンドの花が散ってすべて実になりました。良い日です。











 

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コラム 「4・24の歌」を聴くたびに

2015-04-23 09:09:10 | 詩・コラム


「4・24の歌」を聴くたびに


 明日は「4・24」の日から67年目の日です。
 「4・24の歌」を聴くたび思い出すのは初級部時代です。初級部時代にこの歌を初めて習いました。

 「4・24」教育闘争が行われたその年に、青森の片田舎で生まれた私は、北海道、東京、京都、大阪と転々と引っ越しを繰り返したため、幼いころの楽しかった思い出がほとんどありません。

 大阪に引っ越した年に学齢期に達した私は、兄や姉と一緒に家から一番近かった尼崎市立園田小学校分校(のちの園田朝鮮初級学校)に1955年4月に入学いたしました。

 園田朝鮮初級学校は1945年9月小中島国語講習所から出発し、その翌年の2月8日に園田初等学院に改名、阪神教育闘争が行われた翌年の1949年10月には強制的に閉鎖させられましたが、1953年に復校いたしました。

 その2年後に私は園田のウリハッキョに足を踏み入れたのですが、名の通り日本の小学校の分校だったので、先生も日本の先生と朝鮮の先生が半々で、担任の先生もお二人でしたが、ウリハッキョでの思い出は楽しいものばかりです。

 園田のウリハッキョはとても穏やかな場所にありました。阪急園田の駅から15分ほど歩いて行くのですが、住宅の立ち並ぶ道を通り過ぎると土手が現れます。遠くには六甲山が見え、藻川が悠々と流れています。

鉄橋を渡り左に曲がると神崎川に向かう土手道に繋がりますが、私の学校は土手の下にありました。土手で寝転んだり、スイスイという雑草を口にしたり、ヨモギを採って家に持ち帰ったりもしました。学校の周りには朝鮮があり、いつもキムチの匂いが漂い、同胞たちの笑い声や喧嘩している声などが聞こえていました。

 運動場が狭くて、運動会は近くのお寺の大きなグランドをお借りして行っていました。学芸会は本校の講堂を借りて行っていました。
 雨が降れば教室のあちこちにバケツを置きます。でも学校が楽しくて楽しくて、嫌な思い出なんて一つもありません。先生方も優しくてウリマルがとても上手で、野生の猿のように天真爛漫な初級時代をこの地で過ごしました。

 3年生の時に祖国から初めて教育援助費が送られてきました。5年生の夏、キャンプが行われた阪神初級近くの香枦園の海で泳いでいるとき、祖国への帰国のための調印がジャカルタで行われたというニュースが入り、浜に上がって一晩中キャンプファイヤーを灯し歌い踊り明かしたことなど、感動したお話は数えきれません。

いつだったかは覚えていませんが「4・24」のお話を初めて聞いたのも「4・24の歌」を習ったのも園田でした。その日の衝撃はこの歳になってもしっかりと胸に刻まれています。金太一という少年の名と共に!

 私の母校―園田は、1966年、私が高級部2年生になった年に自主学校にやっとなりましたが、それから20年後、立花初級と統合され尼崎東初級になり、2008年にはその学校も尼崎朝鮮初中級学校に統合され園田という名前は消えてしまいましたが、園田のウリハッキョで培った民族愛は心の柱となり今日まで私を支えてくれました。ウリハッキョはまさに心のふるさとになりました。

 「4・24」を迎えながらいろんなことを考えています。今の時代がなんと67年前のあの頃と似ているだろうかと。

 毎週,大阪府庁前で「民族教育の権利」を守り、無償化実現のため、助成金の交付再開のため要請行動を行っていますが、なんら進展されたものはありません、

しかしこの運動の中で日朝の連帯は深まり、ウリハッキョを守るため命を懸けた先達たちの魂が自分の心にも乗り移っていることをひしひしと感じています。諦めは敗北です。民族教育は生命のように大事な宝物です。



 
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