ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

3月30日、421回目の「火曜日行動」です。

2021-03-30 16:22:00 | 火曜日
あたたかくてコートも着ずにそのまま府庁前に向かいました。









今日のレポーターハルモニ会の陶山さん。






写真撮影は松尾さん、今日も心合わせて発信してまいります。




















マイクが届かずしばらくアピールができませんでしたが、臨機応変に宣伝カーのマイクをお借りしてアピール開始です。









長崎さんの第一声です。

長崎さん

 ご通行中の皆さま、府庁でお勤めの皆さま、こんにちは。今日は5月上旬のような温かな陽気になりました。大阪城の桜も満開になって、たくさんの方々が、お花見を楽しんでおられます。

 今回で421回目となります。子どもたちの笑顔と夢を奪わないでほしい、朝鮮学校で学ぶ子どもたちが、夢と希望をもって大きくなってほしい、補助金を1日も早く復活してほしい、そんな思いで、2012年4月17日にこの府庁前に立ちました。それからもう8年が過ぎ、周りの風景も大きく変わりました。この大阪国際がんセンターは当然8年前にはありませんでした。風景は変わるけども、変わらないのは子どもたちに対して続けているこの差別です。

 もう卒業式も終わり4月はいよいよ入学式のシーズンです。入学し、それぞれの夢をかなえていくために学びの場に立つのに、その子どもたちに対して、子どもたち自身が責任をとることができない政治的な理由をかぶせて、子どもたちの学ぶ権利を奪い続けていること、特に大阪府は全国で最も多くの在日韓国朝鮮の人たちが暮らしている街です。私は生野在日朝鮮人の方々が多く住んでいるところで、コリアンタウンは、こんなに密でいいのかと思うくらい、たくさんの人が来ています。その町からやってきました。今日もいろんな立場から思いを届けていきたいと思います。マイクを渡していきます。





















南大阪地域の1%の底力の田村さんがアピールの先頭です。

田村さん

 私は1%の底力で朝鮮学校の民族教育を支える会の田村です。私も田舎から大阪に出てきて、50年くらいたつのですが、差別のことを学習したり、日朝友好のことなど行ってきたのですけど、未だにかつての軍国主義が、中国や朝鮮に侵略したこと、軍隊は引き揚げたけど、それが誤りだったという反省が全く感じられません。今また同じようなことが、あえて存在しないのに、ウソをでっち上げて作り上げるということが、やられようとしています。特に日本のマスコミはひどいと思います。

朝鮮学校のラグビーが全国で3位なんですけど、大阪で暮らす私たちにとって誉のあることなのに、かつての侵略戦争を反省しないで未だに、差別の考えを府民とかに植え付けて、ちゃんと民族教育や日本の歴史、日本のことも教えている朝鮮学校に対して、無償化から朝鮮学校だけ排除しています。こんなこと、ほんとにおかしいと思います。

日本は国際都市だとか、大阪は国際都市とか言っていますけど、ものすごく後進国だと思います。日本は単一民族国家ではなくて多民族国家として認めるべきで、朝鮮学校に対しても初級学校に補助金も出すべきです。そして、幼児教育もちゃんとやってはる学校にも、補助金を出すべきだと思います。口では民主主義とか言っているけど、実際には反対のことを行っています。私たち大阪府民・市民として税金を納めていますけど、他国へ侵略するため、もしくは差別をするためにお金を払っているわけではありません。

このままずっとこのような差別を続けていくなら、日本はどんどん後進国になっていきます。大阪府大阪市は朝鮮学校への補助金を支給すべきです。又日本政府は朝鮮高級学校授業料無償化を、排除しないで実現すべきだと思います。日朝友好バンザイ。













泉南市の元市議 小山さんがマイクを持たれました。

 一番許せないのは、人を差別することですよね。なんで平等に人を見ないのでしょうかね。差別する館ですか、この大阪府庁というのは。そういうことであれば私たちの府庁でないので、これはなくなってもらわないと困りますよね。そして私たちの想いと同じような中身の大阪府庁に代わってほしいと思います。

吉村さん、朝鮮学校に平等に対応しないのはなぜなのですか。歴史を振り返るまでもなく、朝鮮の方々を日本国民として、名前まで変えさせて、ある意味平等にしたのですよね、日本人と同じように。世界中の人々が同じようにするのだったらわかりますよ。都合のいい時は同じだと言って、都合が悪くなったら違うのだと。こういう考え方は大阪維新の考え方ですか。そんなのでは天下も取ることはできないし、政治をやることも不適格ですよね。本当に一日も早くあなたの意思で朝鮮学校にも、日本の学校と同じようにちゃんと対応する。日本の学校以上に手厚くするというのが中身からすれば平等なのではないですか。

本当に差別をするような社会に私たちは生かされている。私たちは差別したくない、誰もが平等に暮らしていけるようにしていただきたいと思います。それには異存ないでしょう。吉村さん、異存があるならここに来て言ってください。大阪府の職員、いろんな人がいるけど、この大阪府が差別の館であったら困りますよね。ぜひ一人ひとりが声をあげて、朝鮮学校の皆さんにも日本の学校以上に手厚いもてなしをするというのが当たり前なのではないでしょうか。

 私は3月27日に高浜の原発に行ってきました。帰りに友達の家に愛車のバイクを取りに行って、家の近くまで帰ってきたら、気が付いたら救急車の中でした。臨空総合医療センターに運ばれて1週間入院しました。肋骨が折れていて幸いにも膀胱癌が見つかりました。自覚症状がなく見つけにくいがんらしいです。

自分の生き方からすれば、取りたくもないし放射線も当てたくないし、何もしたくない。何の治療もしないと思ったら元気が出てきて心はハイになっています。朝鮮学校の問題も問題をとればいいという発想ではだめです。問題の中にこそ私たちを生かしていく、生き生きした問題があるということを訴えます。80才になりました。一緒にがんばりましょう。










































高校生時代も良く来てくれた朝大生の宋さんのアピールです。

朝大生

 私が高3の時に、高校無償化の裁判が棄却されて裁判が終わってしまい、次にまた幼・保無償化の問題が出てきました。幼・保無償化というのは、全国に55000か所ある幼稚園の中から0.16%となる89か所の幼稚園が無償化の対象外となった問題です。

この理念がすべての子どもが健やかに成長するためにと言っているのに、0.16%の幼稚園を排除するのは不当なことと言えますし、日本国憲法の14条などに反しています。私たち在日朝鮮人は歴史性から見ても、必ず保障されなければならない存在だと思います。私在日朝鮮人というのは植民地によって、この地に学び生活する人として、日本政府が必ず私たちのことを保障しなければならないし、だから、学校にも無償化・補助金の支給もしなければいけないと思います。

外国人として保障しなければならないのはもちろん、その中でも、特別である朝鮮人に必ず保障しなければならないと思います。これまでの在日朝鮮人の歴史から見ても、JR定期券や大学受験の時も闘って獲得した部分もあるので、私も朝鮮大学校へ通って、権利を獲得するために勉強するものとして、その歴史をたくさん学んでいきたいと思います。高校無償化、幼・保無償化、補助金獲得するまであきらめないで闘っていきたいと思います。皆さん頑張りましょう。


































シュプレヒコールが始まりました。

オモニ 歌 「声よ集まれ 歌となれ」

    シュプレヒコール 
     
・子どもたちの学ぶ権利を保障せよ

・朝鮮学校の子どもたちを差別するな

・朝鮮学校に高校無償化を適用せよ

・朝鮮幼稚園に幼・保無償化を適用せよ

・朝鮮学校に補助金を復活せよ

・行政が差別するな


































最後の歌は「勝利のその日まで」‼️


























駐輪場での申し送りです。









時の人ー高校全国卓球大会にて堂々の3位を獲得し、全国の同胞たちに希望と喜びを運んでくれた大阪中高チソンイ選手のお兄さんが参加者の皆さんに応援に対する感謝を述べました。
















高校時代からよく来てくれた宋さんと金さんが紹介されました。















あまりに桜が綺麗だったので有志で大阪城公園内を通って帰路につきました。少し桜をアップしますね。良いですか?







































































週末は雨が降るようなので散ってしまうかも知れませんね。本当に春らしい陽気でした。来週も頑張れそうです。







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鎮魂歌 「十五年の時が流れて」

2021-03-28 23:53:18 | 詩・コラム
また3月29日がやってきました。
ちょうど25年前の今日、1996年3月29日に末息子のチャンフニが帰らぬ人となりました。
いつもはバタバタしているせいか夢に出てくることはめったにないのに、春休みになると何年経っても彼が夢枕に立ちます。
この鎮魂歌はちょうど10年前に書きました。長いので申し訳ありませんが、今日だけ時間限定でアップさせてくださいね。
この世にこんな少年がいたことを忘れないでください。

鎮魂歌

  「十五年の時が流れて」
           

1. チャンフニの誕生


1980年1月19日
私の4番目の子 チャンフニが生まれた
家族全員大喜び
男の子がもう一人いればと
事あるごとにつぶやいていた義父母の願い
最後のつもりで頑張って生んだ

3430グラム 50.5cm
生まれたばかりなのに しっかりした顔つき
やっと2人目の男の子を産んだ安堵感で
後産の痛みも楽に乗り越えられそう
いつも私たちを大事に見守ってくれている
義父母に恩返しが出来たようでとても嬉しい

3番目に女の子が生まれたときは
病院に誰も来なかったのに
毎日誰かがお見舞いに来てくれる
よっぽど喜んでくれているんだなぁ
こ踊りしたいような気分

兄と夫が同じ時間帯にお見舞いに来た
看護婦さんがチャンフニを抱いて見せた
兄に向かって彼女が言った
《お父さん、ほぉら パパそっくりですよ。》
この言葉に大笑い 夫も苦笑い
悦びの中でチャンフニはぐんぐん大きくなった


2. 5月5日子供の日


今日は子供の日
空は良く晴れて青々している
チャンフニは初めての遠出
子供4人と夫と私 そして義父母と8人で
あやめ池遊園地に出かけた

ブルーの繋ぎ着にベージュの帽子
ニコニコ笑顔にとてもよく似合う
首も腰もちゃんと据わってる
ベビーカーに乗せられ 気分は上々
道行く人がみんな声を掛けてくれる
《可愛いですね。何ヶ月ですか?》



母乳ばっかりでミルクは飲まないけれど
リンゴジュースは大好きだ
良く飲む 哺乳瓶も自分で持てる
兄弟の中で一番しっかりしてる感じ
親ばかはわかっているけど
何しろ可愛い あくびさえ 可愛い




3.熱が下がらない


6月7日
すぐ上の姉が麻疹にかかった
6月13日金曜日
チャンフニが初めて熱を出した
37度8分
かかりつけの医者はただの風邪だと言った

6月15日 レントゲンを撮る
軽い気管支炎だから心配無いと言う
6月17日から 39度の熱が下がらない
毎日近くの医院に通う
姉の麻疹がうつったので仕方が無いと言う

6月20日夜 寝入りばなに
おっぱいを全部吐いてしまった
飲んだ薬も一緒に吐いた可能性はあるが
抗生物質なので2度飲みは出来ない

夜中の1時半 ひきつけが起こる
どの子もひきつけた経験が無いので驚く
チャンフニが少し落ち着いて寝たあと
子供用の医学書を取り出し夫と読む
母乳で6ヶ月までの子は免疫があるので
麻疹もうつらないし ひきつけも起きない
起こったときは髄膜炎などを疑うべし
もしくは先天性の癲癇を疑うべしとある
不安のため眠れない 
夜が明けるのがあまりにも遅すぎる


4.救急車に乗って


21日土曜日朝一番に先生を訪ねる
昨日の夜のことを全て話した
先生は特に心配ないと言うが
レントゲンなどと紹介状を要求し
生まれた愛染橋病院にいくことを告げる

診察の結果 気管支肺炎にかかっていると言う
髄膜炎の可能性も大と言われる
ベッドは万床 谷内小児科で引き受けてくれる
けたたましいサイレンを鳴らしながら
救急車が走る 走る 走る
突然チャンフニがひきつけを起こす
何度も何度も起こす 止まらない
どうしょう どうしょう 誰か助けて

入り口で先生方が待ち受けていた
診察室に運ばれる チャンフニ
診察中 又 ひきつけが起きる
脊髄から注射器で液をとられる
やはり やはり 髄膜炎だった
でも 発見が早かったので助かると言う


5.意識不明に


ほっとしたのも つかのま
夜9時過ぎから 発作が止まらない
首をかしげる先生 どうしてだろう
くまなく 体を調べる 先生
何ということだ 信じられないことが
足に刺していた点滴の針が 抜けていたのだ

《チャン君は太ってて血管が細くてね 
暴れた拍子にはずれたんでしょう》

その間 肺炎はどんどん進み
菌は途切れることなく増え続けた
呼吸困難 
喉奥にチューブを挿し込み
痰をとり続ける先生方
絶食 意識不明 三日も続く


6.今夜が山です


《脳炎に進行してしまいました。
赤ちゃんは予測できないのですよ…》
今から酸素テントに入るという
面会謝絶の厳しい札

《残念ながら
脳炎と肺炎の治療を
同時にはできません》
幼すぎるからという 
まずは命を助けるという

26日午後7時 
家族を全員呼べという
今夜が山だと 
覚悟を決めてという
三日以上まともに寝ていない
もうろうとしている頭に 
先生の言葉が こだまする
《今夜が山です。》

 *チャン君(息子 昌勲の愛称)


7.関西医科大付属病院へ


27日 熱があがったり さがったり
呼吸が止まらないように
吸引を続ける先生方 何回目だろう
もう数を数える 気力も無い

《関西医科大付属病院に移動します
あそこなら設備が整っているので
助かるかも知れません》
藁をもつかむ気持ちで救急車に乗る

6階605号室 面会謝絶の札
《お母さん お乳を搾ってください。
今日から母乳をチューブから入れます。》
《はい!》

祈ることしか すべが無かった私に
やっと 与えられた任務
又 おっぱいを飲ませることが出来る
パンパンに張ったおっぱいを絞る

搾乳機で 何回も 何回も
絞りすぎて あちこちに かすり傷が
でも構わない これが命の素になるのなら
こんな痛みなんて 何でもない


8.明け方 2時10分 祈り


私の命 チャンフニ
おまえなくして どう生きればよいのか
オンマを置いて どこに行くというのか

おまえが生まれた日
あまりにもの嬉しさに
陣痛の痛みも忘れ
《男の子です》の一言に
全身の力がすうっと抜けていくのを感じた

生まれて初めて おまえがおっぱいを吸った日
《2グラム飲みましたよ》の言葉に苦笑いし
どうしたら おっぱいがもっと出るだろうかと
マッサージに励んだ日々が 昨日のよう

おまえを胸に抱いて 家に帰った日
ハラボジ、ハルモニ、クノモニ、クナボジ
アッパ、ヌナ 二人に、ヒョンニム
家族にも 友にも 祝福され
オンマは空にも上りたい気持ちだったよ

我が家の不幸な過去を きれいに流し
喜びだけを運んでくれようと
おまえはこの世に生まれてきたんだね

この瞬間
泣いては負けだと分かっていても
泣いてしまった私を許しておくれ

何故一度も パジチョゴリを
着せてあげられなかったんだろう
何故おまえの好きだったオモチャを
持って来てあげられなかったんだろう

フニよ いかないで
オンマがついている 
アッパがついている
みんながついている

 *1980年6月27日 日記より
   
ハラボジ(祖父)ハルモニ(祖母)
クノモニ(大叔母)クナボジ(大叔父)
ヌナ(男子から見た姉)ヒョンニム(男子から見た兄)


9.オモニのお百度参り


朝から嫌な雨が降り続いている
熱はあがったりさがったり
お人形のように身動き一つせず
チャンフニは何日も寝たきりだ
窓越しに降り続ける雨をぼんやり見ていた

コンコン 突然 ノックの音
オモニがびしょ濡れでやってきた

《オモニ どないしたん?》
《もう大丈夫やで。チャン君きっと治る。》
《… … …》

《今 石切神社行って お百度参りしてきた》
《ええっ?…》 

言葉が出ない 
こんなに雨が降っているのに
お百度参りだなんて

《チャン君 治してください ゆうて
百回御願いしながら 回ってきたわ》

もう涙なんて出ないと思っていたのに
何故 涙がでるんだろう
オモニ あなたは いつも
子供のため孫のため 祈るのですね

朝から晩まで 傘作りの仕事をしながら
アボジの看病で たいへんなのに
この雨の中 石切まで行って下さったのですか
チャン君のために 祈ってくださったのですか

《チャン君が治ったら 又 オンニョも
好きな仕事が 出来るようになるね。》
《ええっ?》

ほほえみさえ浮かべ オモニは
もう治るものと 信じている
孫のことを祈りながら オモニは
娘の心配までして下さるのですか!

オモニ 
私は あなたの子供でよかった
あなたが 私のオモニでよかった


10.先生 足が!


動かない 目が見えていない
耳も聞こえていない 泣きもしない
あんなにニコニコ笑っていた子が…

6月29日 急に指しゃぶりをはじめる
入院後初めて 哺乳瓶で 母乳を飲む
45cc 45ccも

7月1日 嘘のように点滴を外してもらう
7月2日 オンマの指を握らすと
自分の口に持って行き 舐める

7月3日 ついに動いた 右足が

足 足 足が 動いた!
先生 先生 足が動きました
右足を 蹴っているんです
しゃっくりしていると思ったら
足が動いているんです
2週間ぶりです 
先生! チャン君の足が動きました!


11.泣いた! 笑った!


4日 右足に続き左足も動く
5日 鼻のチューブが気になり一日中首を振る
6日 ついに自分の手でチューブを抜く
夜 首振りと足の動きで 360度回転 
すごい力 皆がおどろく 奇跡だという
8日 入院後 初めて泣いた 声は小さい
9日 何回も何回も 泣いた!
苦い薬を飲むとき、お腹が減ったとき
12日 夜明け頃 光にかすかに反応する
13日 オンマの顔をじっと見て 初めて笑った
神様仏様 有難う御座います チャン君が笑った 
15日 一日中寝返りをうつ
17日 寝返りの後 顔をあげる
18日 ほとんど首がすわった
19日 月曜日に退院できるという知らせ
20日 耳がかすかに聞こえているよう
21日 ついに退院!

一生寝たきりかも知れないといわれ 1ヶ月
順調に行けば 機能が戻るかも知れないという
でも脳炎の後遺症が心配 どうなるか分からない
不安のまま 1ヶ月ぶりに 家に帰る


12.まさか?


1ヶ月ぶりに家に帰る
ヒョンニム、ヌナ達が大人びて見える
私がいない間おねしょが始まっていた次女
どんなに寂しかっただろう 胸が痛い 

久々の 家族そろっての 夕食
とめどもなく 競って喋り続ける兄弟たち
チャン君がキョロキョロしながら楽しそう
つかの間の やすらぎ

9月30日 またしても けいれんが
恐れていたことがついに起こった
脳炎の後遺症だ 点頭てんかんだという

発作が起きるたび 脳細胞が破壊される
発作が止まらない 薬を飲んでも注射しても
どんどん退行する動き 首もふにゃふにゃだ

関西医科大まで バスに乗り 毎日通院
横抱きしか出来なくなったチャンフニ
重い 重い でも助けなくては

50日目 やっと発作が 止まった
破壊され続けた 脳細胞
これからどうなるのだろう


13.再入院 済生会中津病院 


50日ぶりに発作は止まったものの
目の前は真っ暗だった
かすかすになってしまった頭の中
ステロイドは免疫までも奪ってしまった

通院中にうつった風邪は肺炎に移行した
12月6日 空いているベッドも無い
紹介された病院は 済生会中津病院
こんな偶然があろうか 私の実家の傍だ
高校3年生の夏 盲腸で入院した場所だ

後遺症の波は 快方に向かっていたフニを
生まれたての状態に戻してしまった
据わっていた首も腰もふにゃふにゃ
オンブすることも出来ない

同い年の従妹が オンマとお見舞いに来た
もう歩いている ヨチヨチと
見るのがつらい こんな時は誰も見たくない

暗い暗い 1年が暮れようとしていた


14.1981年 春


何事も無かったかのように
寒い冬が去り 桜舞い散る 春が来た

チャンフニをベビーカーに乗せ公園を歩く
雨上がりの道に桜の花びらが ひらひら
きれいだ チャン君も嬉しそう

抱っこしたまま ブランコにも乗る
膝の上に乗せ 滑り台だってすべるよ

お昼寝の間に 生れてはじめて内職をする
スカートのホック付けだ 一枚50円
一日何枚付けられるかな
チャン君が寝ている間しか仕事は出来ない

養護教育センターに週一回通いはじめ
教えていただいた体操、声がけを繰り返す
一歩一歩進むしかない これが現実ならば
ほかの子供のためにも 元気を出さなきゃ

夜だけ週2回 ハングル教室を始める
何もせずには生きていけない 
少しでも役に立ちたい 同胞達の


15.楽しい リトミック


「生野子供の家」に通い始めた
いろんな子供達が来ている
壁という壁には リスやウサギが描かれ
楽しい音楽が部屋いっぱいに広がっている

チャン君を抱っこしたまま 輪に入る
嫌がらない 歌が大好きなチャン君
音楽にあわせて 体を動かしている
楽しい チャン君が笑う 私も楽しい

リトミックは 素晴らしい治療
体の動きがどんどん良くなる
ハイハイだって もうできるよ

指導の先生がおっしゃった
《お子さんのために母子分離しましょう
明日からお母さんは帰ってください》

母子分離 考えたことも無かった
いつも一緒にいることが
子供の発達を妨げていたなんて
ショックだった でも 
何か始められそうな 予感がした


16.新たな出発


時の流れは水の如し
チャン君は2才になった
でも まだ歩けない 言葉もでない



母子分離を促され 週二日の午前中
<生野子供の家>で フニが過ごす間
中級学校で時間講師を務めるようになった

又 仕事が出来る日が来るなんて夢のよう
1年間 ハングル教室に通ってくれた方達が
涙を流しながら喜んでくれた

ノートの点検や授業の準備は
子供達が寝たあとだ でも 楽しい
仕事に戻れたことがこんなに嬉しいなんて
夜中の2時3時に寝てもへっちゃらだ

子供を持ちながらも仕事を続けていた事を
どこかで自負していた自分がいた
だが違う どんなに支えられて来た事か
家族の暖かさ 友の有難さが身に沁みる


17.チャン君が立った!


1982年夏
<生野子供の家>主催のキャンプ
天ノ橋立だ 初級の頃 卒業旅行で来た所

松林が延々と続き 白い砂浜に良く映える
遠浅の海が 果てしなく広がっている
プールには良く行くが海は初めてのチャン君

海辺で砂をさわって遊んでいたら
小さな波が押し寄せたり引いたり
バシャバシャ音を立て 海水をたたく
お尻をずらしずらし どんどん海へ

その時大きな波が急に押し寄せた ザブーン
ビックリした チャン君
その場に立った チャン君が立った!

何回も何回も ずぶぬれになりながら
座っては立ち 座っては立ち
みんなの顔もクシャクシャ 凄い拍手
《チャン君が立ったぞー!》

歩くことも喋ることも無理だと言われても
決して諦めず今日まで来た
チャン君が立った チャン君が立った!
希望の光のように太陽が輝いていた


18.北中本保育所での思い出


1983年4月 満3才
身長102.1cm、体重17.2kg
1984年4月 満4才
身長108.5cm、体重19.0kg
1985年4月 満5才
身長113.6cm、体重21.5kg

3才から通った北中本保育所
初めて北中本に行ったとき
ヨチヨチ歩いていたチャン君が
1人でブランコに乗り 滑り台もすべり
歓声を上げながら走り回っています

チャン君の笑顔は100万ドル
いつもニコニコ 
つぶらな瞳を見ると抱きしめたくなると
みんなに可愛がられました

チャン君はピアノが好きだから
大きくなったら
ピアニストになったらいいなぁ~と
卒業文集にお友達が書いてくれました

3年間見守ってくださった明子先生は
「滑り台、三輪車、ボ-ル遊び、大好きな体操
メリーさんの羊のオルゴール時計を
一杯できるようになりましたね
一丁目の怪獣やむすんで開いて、ぞうさん等
大好きな手遊びもどんどんふえましたね
ウサギのハリーが大好きでよく撫でていたね
小学生になったら好き嫌いなくして頑張ってね」
と 長いお手紙くださいました

キンチャンフン君と呼ぶと「はぁい」とこたえ
「てんて、てんて」と呼んでくれたとき
とっても嬉しかったと言ってくださった瀬尾先生

ハルベが良くお迎えに行って下さいました
みんなが助けてくれました
だから私も教員生活続けることが出来ました


19.入学式とレッカー車


1986年4月 生野養護学校入学

どこの学校に入れるべきか迷いに迷った
脳炎の後遺症は多動性障害,知能障害と
二つも大きな置き土産を残してくれた

底抜けに明るいチャン君 でも
手を繫いでいないとどこにでも走って行く
誰かが付かなくては身の安全を守れない
近辺の小学校全て回った でも結論は無理

4月の一ヶ月は送迎バスが出ない
自主通学するには車しか方法が無い
仕事をやめるか 免許証をとるか
死に物狂いで取った運転免許証

入学式の日 初めてチャン君を車に乗せた
車をどこに止めていいのか検討も付かず
ガレージの閉まっていた工場の前に置いた

入学式が終わる寸前 緊急校内放送があった
「なにわOOOOOすぐ車を移動して下さい
工場の前にレッカー車がきています」
(ええ?私の車が?!レッカー車?)

走って飛び出すと人だかりができている
レッカー車に車を積み込む寸前だった
「すみません、私の車です。」

事情を話し何回頭を下げたことか
運良く見逃してはもらえたけど
震えが止まらない もう車に乗りたくない

何も知らないチャン君は
車に乗ってご機嫌だ 歌まで歌ってる
明日も無事乗れるだろうか…
こうしてチャン君の学生生活が始まった


20.じゃがいも学童保育所


生野区コリアンタウンのすぐそばに
じゃがいも学童保育所があった
放課後行き場の無いチャン君が
唯一行ける場所 「じゃがいも」

大人も子供もいる
日本人もコリアンもいる
健常児も障害児もいる
ここは何でもありの楽しいところ

みんなで支えあって生きている
就学前からここに通った
ここでもみんなに大事にされたチャン君

春休みは伊賀上野のキャンプ場
夏休みは親同伴のキャンプ
年中お出かけだ 電車に良く乗る
時には廃品回収にも出かける

ゲームの好きなチャン君は いつも
1人で飛び出しゲームセンターへ
いなくなれば必ずどこかのゲームセンター

ある日 学童から西成に出かけたチャン君が
帰ってこない 警察にまで通報して捜した
生きた心地がしない 胃がきりきり痛む

夜中の12時半 生野警察からやっと電話
みつかったので 至急来るようにとの連絡
飛んでいってみると けろっとしている
警察でもらったパンを食べているチャン君

どこをどうして帰ってきたのか
誰にも分からない 生野に1人で帰ってきた
靴がスリッパーに変わっていた
あいりん地区のホテル名のスリッパーだ

電車に乗ったのか バスに乗ったのか
まさか 歩いてきたのか
誰にも分からない 永遠のなぞだ


21.剣尾山に登り


1987年春 2年生になったチャン君
家族やボランティアの方々のお陰で
初めて学生たちのキャンプに付いて行った
初日の夜 大雨が降ったが
次の日の朝晴れ渡り 剣尾山に登った
その日の夜久しぶりに詩を書いた ハングルで
  

 【山つつじ】


ここちよい 山の気を
全身に 浴びながら
急斜面を あえぎ あえぎ 登りきて
ふと 山つつじ
花 いっぱいに 山つつじ

行けども 行けども 山つつじ
そよ風に そよぐ 可憐な 花びら
春雨にぬれて 清い
うす紫の おまえに
こみあげてくる 懐かしさに 心打つ

つつじよ おまえは
打ちつける 雨にも 負けず
空に 向かって 背をのばし
両手いっぱいに 花びらを ひろげた

おまえを 育てる 人も なく
おまえを 守る 人も なし
人知れず そっと 咲き
あたたかく迎えてくれた やさしい花よ

冬を うち勝った 山つつじよ
ただ ひたすらに 歩いていた 私は
ただ 心せわしく道を急いでいた 私は
すがすがしいおまえの姿に 心を打たれた

華やかじゃ なくとも
まこと 美しく 生きる事を
険しいけれど
一日を 力いっぱい 生きる事を

ああ 山つつじ
おまえを 胸にいだきて 生きたし
おまえの様に 生きたし

清い 花よ
澄んだ 心の鏡よ

    1987年 5月
      
    能勢青少年キャンプ場にて


22.顔を洗うたびに


1981年12月 故郷の土に埋めてと遺言を残し
長い闘病生活の果て アボジが亡くなった
1988年11月 子供と孫の幸せだけを願い
苦しい透析を7年も続けた オモニも逝った
チャン君の 将来を案じながら

チャン君を連れ 1週間に一度見舞い続けた
オモニとの思い出は 二つの詩に残った
【オモニの手】と【温泉石鹸】とに


  【温泉石鹸】


顔を洗うたび
全身に染み入る ほのかな石鹸の香り
顔を洗うたび
全身からあふれ出る オモニへの想い

かんかん照りの 暑い日
タラタラ 汗を流しながら 病室を訪ねると
ニコニコ笑いながら 私のオモニ
そっと 差し出した 一つの石鹸

仕事で出歩るき どんなに大変だろうと
この 石鹸で洗うならば
しみもそばかすも いっぺんに無くなるよと
笑顔で差し出された 温泉石鹸

歳月と共に 黒ずんだ 顔
石鹸で落ちるわけは無いけれど
オモニの真心が あまりにも有難くて
黙って受け取った 笑いをこらえながら 

使えば使うほど
石鹸は 泡となり 消えゆくけれど
使えば使うほど
より深く 染み入る オモニの愛

今日も 娘は 顔を 洗います
しみもそばかすも 全て無くなれと
けがれ無き心で もっと 綺麗になれと…
          
        1988年6月
    
          河内総合病院にて


23.初詩集出版の日に


1989年1月21日 親友のお店の二階で
私の初詩集出版を祝う会が行なわれた
文学部の仲間達が作ってくれた詩集

チャン君が1才になる前 後遺症の為
50日間 関西医科大病院に通っていた時
毎日のように付き添ってくれた 友の店だ

チャン君は他の兄弟と一緒に 家でお留守番
叔父叔母も付いててくれてる

暑い日も寒い日も ひたすら 家に来てくださり
私たちを見守ってくださったアボジ(義父)に
捧げる 感謝の詩を 朗読した


  【アボジ(義父)に】


「オホン…」
いつもの 咳ばらい
「ガラガラ」と開かれた 表戸

「フニは もう 起きたのかな?」
にこにこ 笑いながら
フニを しっかり 抱き上げる

アボジ
今日も 来て下さったのですね
痛い腰を さすりながら…

思えば フニを 自転車にのせて
アボジが 行き来された 道のりは
なんと 長かったことでしょう

雨が 降っても
風が 吹いても
アボジが 戸を開く音は
たしかな 一日の はじまりでした

忘れる事ができません アボジ
身動きすらできなくなった フニを抱え
涙さえ 枯れてしまった私に

生きてりゃ いい日もあると
家のことは心配しないで 外に出なさいと
背中を押してくださった あの手のぬくもり

忘れる事が できません
祖国訪問の吉報を得たとき
フニの事が気がかりで 迷っていた私に

祖国に 行ってくれば
力が 湧くもんだと
旅費まで 心配して下さった アボジ

ああ 忘れる事が できません
フニが生まれて初めて歩いた日
夢の様に 歩いた日

飲めない 祝盃を あげ
喜びいっぱいにおっしゃった言葉
「フニが 口をきける様になるまでは…」

フニの 成長と 共に
アボジの髪は 段々と白くなり
アボジのしわは増えるかりでした

今日も来て下さったのですね アボジ
私たちを 支え
民族を 想い
祖国に つながらんとする
それは アボジ
あなたの 信念

アボジの 愛に 支えられ
アボジの 熱い心と共に
今日も私は 教壇に 立つのです

    1988年11月10日ハングルで創作  


24.中学生になって(じゃがいも日誌より)


学校から帰ってきてから
すこぶる元気で口数の多いチャン君

いつもなら帰ってきてすぐピーピー堂(ゲーム屋)に。
今日はまずコーヒーを作ってコップにかぶりついている。

でもやっぱりしばらくすると、すーっと 靴をはいて
ピーピー堂に向かって出発OKの体制。

そこで小生の「今日廃品行くし、ゲーム行けへんわ」
との声に チャン君嫌な顔。まあ中学生のチャン君が
好きでもない廃品回収なんて勤労少年やなぁと
小生もあまりえ~気分になれないまま出発。

チャン君と廃品に行くのは初めて、どないなるんやろうと
思っていたがチャン君 よう働きますねん。これが…

廃品はリヤカーで行くが運転はチャン君。
回収先でもまじめに廃品を運ぶ。

ふだん、どなるか ひっぱるとかして
チャン君と行動することが多い中
おーチャン君と一緒に働いてるわーと うれしくなった。

でも行く前小生自身が勝手にチャン君ぜんぜん
やる気なしやろーな と 想像してたし
あんまりまじめにやると(やらされていると)
今度は小生がまじめにやるのが嫌になってきて
「ゲームでも行こか」ゆうてゲームに行ってしまった。

でもゲームは早いうち切り上げて又回収の仕事をした。
帰り道はチャン君 コーヒー片手に片手運転。
小生もタバコを一服。

仕事後の一服は最高やねぇという感じだったが
チャン君はどない感じてたんだろうか。
              
           文 指導員 君村 


25.チャン君の新しい靴


チャン君見てよ 
新しい靴買ったよ

《これ僕のだ! カッコいいなぁ》
とでもいう様に とても 嬉しそう
キュッキュッと何回も何回も指で押す

急に足が大きくなったね
もう23cmだね
あと0.5cmで オンマを越えるよ

これ以上大きくならなければいいなぁ
このごろ力が強すぎて オンマ負けそうだよ
このまんま 背丈も足も伸びなければいいのにね

ごめん チャン君 とんでもないこと云ったね
許してね このごろ少し疲れているのかなぁ
 
      1992.7.12の日記より


26.弘子先生からの 手紙


金昌勲クン

中学部 ご卒業 おめでとうございます

中校庭のラジカセを上手に操作して

いつも音楽に 聞き入ってる チャン君

楽しそうですね。

話かけると、首を ちょこっと 斜めにして

一生懸命 何か言ってくれる チャン君。

高等部に行ったら そういう機会が

少なくなるのが ちょっと 残念。

がんばって くださいね。 これからも!!
       
           1995年3月10日


27.嵐山 渡月橋にて


1996年3月 最後の日曜日
嵐山の渡月橋は 何回目だろう
今日も人 人 人の波だ

今思えば 
3人での最後のハイキングだった

アッパとオンマとチャン君で
あちこち 良く出かけたね

信州、南アルプス、白樺湖、駒ヶ根高原
蒜山高原、青山高原、東条湖,くろんど池…

東西南北 どこへでも出かけて 
思いっきり 走り回ったね

明日から 学童恒例の春のキャンプ
伊賀上野青少年野外センターに出かける
そこはもう 10回目だ

雨上がりのせいか 川の流れが速い
さわやかな春風が そよそよ吹いている
桜の木に蕾がいっぱい 花開く春が近い

高校生になり 背丈がぐーんと伸びた
オンマをとっくに追い越して
もう少しで アッパにも追いつきそうだ

春休みが終われば 高校2年生
進路を決めなければならない
作業所探しが もうすでに始まっていた


28.伊賀上野に出発の朝


朝 JR桃谷駅に集合だ
伊賀上野青少年キャンプ場は
小学校1年生から 毎年行っている

1年の間で 子供と離れて暮らすのは
三日間だけだ ボランティアさん達がいっぱい
パーマあてようかな?それともショッピング?

同じような子供を抱えたお母さん方は
貴重な三日間をどう過ごそうかと
楽しい思案で弾けている 私も同じ

さぁ 出発の時間だ

「いってらっしゃい!」
「ずーっと 行っててもええよー」
みんな勝手なこと言って楽しんでる

大きなリュックをしょったチャン君も
「バイバイ」して 元気に出かけた
改札口の中から もう一度 手を振った
それが 最後の別れになるなんて…


29.電話が鳴った


夕食の片付けも終り ほっと一息ついた時
けたたましい 電話のベルが鳴った
こんな時間に誰だろう

「もしもし… えぇ?!…」
学童の指導員からの電話だった
チャン君がお昼過ぎからいないという

何で今頃電話するのかと ただしたら
いつものように帰って来ると思ったそうだ
今日は遅いから朝一番に来てくれという

どうして朝まで待つことが出来ようか
夫と一緒にすぐ車で伊賀上野に向かった
真っ暗な道をひたすら走り続けた

真夜中の伊賀上野はお化け屋敷のよう
所々ちいさな電球は見えるものの
山道はとてもこわかった

野外センターに着くと
人 人 人で ごった返していた
指導員達は顔面蒼白だ

「いつもの様にふらりと帰って来ると思って
夕食のカレーを 子供達と作っていたんです
すみません。こんな事になるなんて」

警察、村の人々、消防隊、ボランティアと
大勢の人が山の中から続々と帰ってきた
その時新しい情報の電話が入る

服装は違うがチャン君らしき青年が
隣の村をうろうろしていたという
もしやと思いきや すぐ又 訂正の電話

深刻なのは服を着ていないという事だ
勝手に服をぬいで1人で湯船に入った後
裸のまま山の中にはいってしまったのだ

春といえど山の中は寒い
おまけに雨まで降ってきた
神様 チャン君を助けてください
知らぬ間に夜が明けていた


30.10年間通った学校の前で


丸三日間 全力で捜索は続けられた
ヘリコブター、宣伝カーまで動員して
テレビ、新聞、ラジオ、数百人が動員された

警察官、消防隊員、ボランティア協会の人々
朝鮮の団体からも大勢の方々が来て下さった
文学部の仲間、親友達、同僚の先生方…

一日中宣伝カーに乗って声を出し続けた
「チャンくーん。どこですかぁー、
オンマやでぇ 返事してー」

31日の昼 警察から通達があった
これだけ捜しても見つからなかったので
捜索打ち切り 後は池の水を抜く方法だけだと

その時だった
「見つかったぞぉー」
山のほうから大きな声が響き渡った

「おかあさん。安らかな表情でした。」
通報してくださった方がわざわざ来て下さった

体育館にチャン君は連れてこられた
裸のまま 毛布に包まれていた
泥だらけの体をきれいに拭き服を着せた

冷たくなった体を抱き 頬に頬をくっつけると
私の体温で 頬がピンク色になってきた
「チャン君助かるのと違う?」
狂った様に何回も頬をくっつけ体をさすり続けた

死後三日という 寒い山の中で倒れていた
一日でも薬を飲み忘れれば発作が起こるのに
三日間も飲まず食わずで倒れていた
誰を恨めば良いのか 誰を恨めとゆうのか

黒い車に乗せられ 大阪に帰ることになった
何時間乗ったろう 長吉出口が見えたとき
運転手さんに頼んだ 学校の前に行ってくれと

10年間通った学校 思い出がいっぱいだ
運動会、学芸会、クリスマス会、お餅つき
毎朝の体操、朝礼、歌の時間、お当番…

「チャン君、良くみてね。
チャン君の好きだった学校やで。」

運転手さんが学校の周りをゆっくりゆっくり
一周してくださった ありがとうございます


31.最終章


南中本公園に着いた
本部委員長はじめ 多くの人が
葬儀場の入り口付近で 迎えてくれた

クノモニ(大叔母)が
ブルーのパジチョゴリ(朝鮮の服)を
準備してくれていた

入退院の繰り返しで 1才の誕生日に
着せてやることが出来なかった パジチョゴリ
こんな日に 初めて着るなんて

お腹がすかない様にと 米粒を口に含ませた
寂しがらないようにと 朝鮮人形を抱かせた

一晩中誰かが 代わる代わる一緒にいてくれた
葬儀の日には 500人を超える弔問客が
チャン君のために 泣いてくれた

みんなが口々に 慰めの言葉を下さるのに
どうしたことだろう 耳が聞こえない
飛行機の中にいるように詰まってしまった

アボジの言葉だけが頭の中をぐるぐる回った

「昨日 チャン君の 夢を見たよ。
 走ってきて お金下さいと いった。
 何するねと聞いたら 旅費にするゆうてた。
 チャン君はきっと いいとこ行ったから
 もう泣かんとき 大丈夫やで…」

責められても返す言葉も無かったのに
こんなにも優しい言葉を掛けられた
目に入れても痛くないと チャン君を愛し
大事に大事に面倒を見てくださったアボジ

出棺のとき 無意識に 私は
口にしてはいけない事を 叫んでしまった
「チャン君をかえしてぇー」

誰も恨んではいけない 誰も恨んではいない
親が傍に付いてても迷子になった事さえある
危ないからと 鍵を掛け閉じ込めていたなら
チャン君の人生は どんなに虚しかったろう

勿論楽しい事ばかりではなかった
シャツもパンツも剥ぎ取られ
コートだけを引っ掛けて帰ってきた日もあった
頭からジュースをかけられて戻った日もあった

だけど私は 後悔しては いない
とじ込める権利は 親にも無いから
チャン君は 自由に羽ばたきたかったから
チャン君にも 楽しむ権利があるから

焼肉が大好きだった チャン君
わかめのスープが 鳥のから揚げが
コーヒーが 大好きだった チャン君

「アルプスの少女ハイジ」の ビデオが
テープを聞きながら 一緒に歌うのが
ゲームしに行くのが 大好きだった チャン君

あれほど可愛がってくれた アボジも
同じ年の6月 追うように旅立たれた
脳梗塞で入院中だった オモニも
同じ年の10月に 旅立たれた

みんなが云った
チャン君が淋しくないように
ハルベ、ハンメが付いててくれてるんだと

チャン君は私に 優しさを教えてくれた
チャン君は私に 思いやりの心を教えてくれた
チャン君は私に 一日の大切さを教えてくれた
チャン君は私に 諦めないこころを教えてくれた

今も目をつぶれば はっきりと浮かぶ
生れて初めて家族みんなであやめ池に行った日
ブルーの繫ぎ着 ベージュの帽子をかぶった
可愛い可愛い みんなのチャン君が!

天の橋立の海で 初めて立った日が
一歩二歩 初めて歩いた 感激の日の事が
ドライブ楽しみながらコーヒーを飲んでいた姿が
遠足で いくつもいくつもお握り食べていた姿が

運動会、学芸会で友達に引っ張ってもらってた姿が
廃品回収に出かけ リヤカーを引っ張ってた姿が
「牛乳ちょうだい」と差し出してた両手が
みんなみんな 浮かぶ 

短かった人生だったけれど チャン君は
おもいっきり楽しんでくれたと信じたい
親に 兄弟に 友達に みんなに 可愛がられた
チャン君は 今も 心の中に 生きている 

    2011年3月29日     


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3月23日420回目の「火曜日行動」です。

2021-03-23 19:40:00 | 火曜日

すごく晴れて過ごしやすいお昼です。420回目の「火曜日行動」が行われました。
















今日のレポーターはハルモニ会の木村さん、写真撮影は松尾さんです、今日も心一つに発信して参りますね。








長崎さんの第一声始まりました。

☆長崎さん

 今日は雨が降った後の晴天で、大阪城公園の桜も満開に近付いてきました。

 かつて日本で一番在日外国人の多い都道府県として、全国に先駆けて朝鮮学校に補助金を支給していた大阪府が、それを打ち切ったことで、私たちは、2012年4月17日から毎日火曜日に集まり、大人が子どもを差別しないという当たり前のことを訴えてきました。

 3月は卒業式の季節です。生野区の大阪第四朝鮮初級学校でも卒業式がありました。

そこで10名の卒業生が、親や教師、自分たちを支えてくれた人々への感謝の言葉、在庫旺盛への思いのこもった言葉を述べました。朝鮮学校へのバッシングが激しさを増す中でも、自分たちは誇りを持って生きていくのだと堂々と述べる子どもたちがまぶしく見えます。

コロナ感染防止のため、今月いっぱいは30分と、時間も短くしていますが、コロナ禍の中でも私たちは心をつないできました。

 朝鮮学校を支えるため、保護者の方々にはダブルワーク、トリプルワークを行っている方もおられます。火曜日行動に参加すればその分収入も減るわけですが、それを押してでも参加し当事者として語るオモニの言葉が心に響きます。

 この火曜日行動には様々な方が参加しておられます。「諦めない」を合い言葉に、いろいろな人からアピールをいただきましょう。











火曜バンドは不滅です‼️

























大野さんがマイクを持たれました。

☆大野さん

 吉村知事、コロナ対策ではがんばっていると評価しますが、朝鮮人に対する差別的取り扱いについては理解できません。朝鮮学校に対する補助金は打ち切られたままです。台風21号で学校の屋根が吹き飛んでも何の支援もありませんでした。生野区で重大犯罪が起こった時、他の学校には知らせが行ったのに、朝鮮学校はほったらかしです。

 1948年には朝鮮学校を潰そうとする行政に対して阪神教育闘争が起こりました。歴史は繰り返されます。朝鮮人差別は戦争につながると心配しています。

 日本中の幼稚園と保育所では無償化が実現しているのに、朝鮮学校の幼稚園は排除されています。 その幼保無償化制度の実現に向け430万筆の署名を集め、設立に大いに貢献したという全日本私立幼稚園連合会が、2017年から現在まで4億円を使い込んでいることが明らかになりました。連合会からは毎年多額の政治献金がおこなわれています。とんでもない金権体質です。

 コロナ対応で政府はオリンピックを控え、やけくそ的に宣言を解除しました。5月には1000万人に広がると言われているのに、そんなものは無視です。何を考えているかわからない管政権には怒りを感じるばかりです。

 吉村知事、補助金の再開、高校無償化、幼保無償化について冷静に判断してください。































大村さんもマイクを持たれました。

☆大村さん

 今日で420回目になります。

 先日は城北朝鮮初級学校の卒業式がありました。14人の卒業生に、校長先生が6年間の思い出、希望を話していました。今年はコロナ感染予防のため、地域の人々の参列はありませんでしたが、保護者に見守られながら、子どもたち一人一人が中学校に進学するにあたっての決意を述べました。すべてウリマル、自分たちの言葉で語られた、厳かながら和やかな式でした。

 その前の週には支える会で給食作りをし、11人が参加しました。この給食作りは2014年から開始し、今回で18回目になります。
 私が給食作りの企画を思いついたのは、朝鮮学校の見学に来てと誘ってもなかなか来ない人も、給食作りの手伝いなら来る人がいるのではないかと思ったからです。

朝鮮学校には給食がないという話をするとみんなびっくりします。しかし、朝鮮学校にないのは給食だけではありません。高校無償化、補助金、幼保無償化、すべて剥奪されています。朝鮮大学の前では毎年のようにヘイトスピーチ、ヘイトクライムが行われています。安心して教育を受けられる権利そのものがないのです。

 この給食作りに、先日若い女性が初めて参加しました。彼女は、初めて朝鮮学校を訪れ、子どもたちと出会いました。これまでマスコミが流していたマイナスイメージが全く覆されたと語り、次も来たいとのことでした。

 これからもよろしくお願いします。




























中大阪地域のオモニたちのアピールとシュプレヒコールと合唱「声よ集まれ 歌となれ」です。

☆オモニたち

 3人の子どもを朝鮮学校に通わせている母親です。私自身も朝鮮学校に通っていました。私の時は大人達がJR定期差別反対のために闘っていました。母親として学校に戻ってまた闘うことになったのは残念に思います。

 私たちはみんな納税してます。子どももやがて納税することになります。子どもたちが育つ場所なのに差別をするなんて止めてほしい。

 優遇してほしいと言っているのではありません。当たり前のことを言っているだけなのにどうしてこんな行動をしなければならないのかと思います。

 日本人には感謝もしているけれど、自分の子どもがせっかく日本で生まれ育ったのに、差別されるとは思いませんでした。

☆歌とシュプレヒコール
『声よ集まれ 歌となれ』

・子どもたちの学ぶ権利を保障せよ!

・行政が差別するな!

・朝鮮高校に高校無償化を適用せよ!

・朝鮮学校に補助金支給を復活せよ!

・朝鮮学校の子どもたちを差別するな!



































































最後は歌舞団のカンさんの音頭で「勝利のその日まで」の合唱です‼️



























駐輪場での申し送りです。























帰り道某地下鉄の駅の入り口付近にコンクリートをかき分けてタンポポの花が元気に咲いていました。心をうたれました。私たちもタンポポのようにどんな逆境の中でも最後までたたかわなけれは‼️









来週も頑張ります。^_^
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当分の間、お弁当アップはお休みします。3学期のグルメ

2021-03-18 11:33:00 | グルメ
凝りもせず飽きもせず長い間、上手でも無いお弁当を掲載してきましたが、今日を持って当分の間、中止致します。長い間お付き合いくださってありがとうございました。

































































































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3月16日、419回目の「火曜日行動」です。

2021-03-16 16:16:00 | 火曜日
不安定な空模様でしたが、無事火曜日行動終えることができました。



今日のレポーターはハルモニ会の平田さん、写真撮影は松尾さんです。今日も心一つに発信してまいりますね。



長崎さんの第一声です。

長崎さん

毎週火曜日、朝鮮学校に通う子どもたちの夢と希望を奪わないでと訴えています。大阪府が長年出してきた補助金を打ち切って8年を超えました。私達は400回を超えて立ち続けています。保護者の方、オモニの方々、自身の問題ととらえる日本人の方々、学校を支えるソンセンニムの方々が集まって今日の行動を始めます。

3月も半ばを超え、卒業のシーズンになりました。私の支える会のある第4初級では20日に卒業式があります。毎年、卒園、卒業式で子どもたちは、”朝鮮学校に送ってくれてありがとう”と言います。毎年毎年、朝鮮学校におくるための保護者の負担がどれだけ大きくなってきているか。8年以上立ちづづけても、コロナ禍で大変ななかでも差別が続いています。

なぜ朝鮮学校に通い続けるのか、ありのままの自分が認められること、堂々と生き、言葉や歴史を知り、差別をしている行政やそれに対して闘う人達の思いも受け止めながらそだっているのです。

卒業式では、後輩達にこんな悲しい思いはさせたくないと話します。

しかし、残念ながら、補助金は打ち切られたまま、高校無償化は実現せず、幼保無償化からも外されています。コロナ禍での大学生への支援も対象外にされています。この現状を皆さんに知っていただきたいとマイクをもっています。

今日もオモニの方が沢山参加してくださっています。なぜ困難な中でも子どもたちをハッキョに送っているのか、子どもたちがどんなふうに学び育っているかという話は、いつも私達の胸を打ちます。

ブログ発信を見て、全国からも、この場に来れないけれど心は繋がっているとエールが届いています。差別に対し私達の声が届くときが来るとそんな思いでいます。1日も早く子ども達が笑顔で学んでいけるよう、世論に訴え声を上げていきたいと思います。



河住さんがアピールのトップバッターです。

河住さん

私達は朝鮮学校の子ども達への補助金復活を求めて声を上げ続けています。私はこの問題に関わるようになって初めて朝鮮学校を訪れました。子ども達が一生懸命に学ぶ姿、お母さんたちが先生と同じ方向を向いて支援している姿をみました。

母親である私の友人は、朝鮮学校には日本の学校にはない暖かさがあるといいました。その人は日本の学校の制度的なことも含め改善にとりくんでおられます。朝鮮学校が自分たちの力でやってきたことに頭が下がります。日本の学校はそのことを受け止めて学んでいく必要があると思います。

大阪府の職員のみなさん、特に教育に携わっている皆さん、教育とは何なのか、どういうふうに子ども達を育てていけばいいのか、そのことを真剣に考えたとき、朝鮮学校の補助金を切るなどということはあり得ないんです。

そして、外国籍の子ども達、外国籍の人達が今、どんな状況におかれているのか、そのことを考えるとき、コロナ禍で補助金を打ち切られ生活も苦しくなっており、何の支援も行わないということはありえません。大阪府には外国籍の方、困っている方が沢山おられます。グローバル社会、開かれた大阪をめざすのであれば、さけて通れません。

どうか補助金の復活をお願いします。



河島さんがマイクを持たれました。

河島さん

ごくろうさまです

朝鮮学校への差別はいつまで続くんでしょうか。日本と朝鮮の関係でいうと・・関東大震災時の虐殺、戦争中の強制連行、トンネルなどの工事に連れてこられて沢山の人が死んだんです。

我々はこうした歴史を知らない。朝鮮学校のことを考え、この歴史を知る必要があると思います。これが差別の実態だというのを肌で感じてもらわないといけない。今、朝鮮学校へ行ったらわかります。言葉は悪いけど、校舎はボロボロです。プールはありません。運動場はないか、あっても狭いです。日本の学校ではありえない、これは差別です。

朝鮮語を学び、民族教育を行う、それを同じ条件でやっていくのが当り前なんです。

私達は日本人として差別をいつまでも続けることはできません。これからも補助金の復活、高校無償化を勝ち取るまで闘います。やっぱり差別はあきません!みなさん、差別をなくしましょう!



大野さんもマイクを持たれました。

大野さん

ごくろうさんです。
日朝市民連帯の大野です。南北の統一、日朝の国交が1日も早く回復してほしいと思っています。

この間の国会中継を見ていますと、総務官僚が次から次へと辞任していきます。武田法務大臣はNTTの会長と会食をしたことはありませんか?と言われ、個別の事案には答えられないと菅首相と同じことを繰り返しています。

コロナ禍で大変ですが、何も対策せず解除する方向で、リバウンドが起こるのは必至という意見もあります。我々は調査もできませんが、菅政権のやり方に信頼はおけません。市民が声を上げコロナ禍に臨んでいかなければなりません。

政府は幼保無償化について旗振りをしようとしています。大阪府・市は僅かな資金であり、差別をするんではないということを示してもらいたいと思います。




大村さんもアピールです。

大村さん

419回目となりました。朝鮮学校への補助金停止、高校無償化排除、幼保無償化排除、大学生への緊急支援金からの除外という状況があるなか、国会中継で学生への支援金の問題が取り上げられていました。問う方にも答える方にも、朝鮮学校のことが頭にないんじゃないかともどかしかったです。政府の差別をはね返していかないと行けないと思いました。朝鮮学校はそれまでもですが、コロナ禍でますます厳しい状況になっています。

絶対につぶすことはできない、日本人の課題であります。植民地政策の責任、戦後責任を取らないということになります。

朝鮮学校にはないものが多いです。給食もありません。アボジ達が仕事を休んで年に一回、給食会をします。後の子ども達のあいさつや歌には、困難な中で学校へ送ってくれる保護者への感謝の気持ちがあらわれています。

明日は日本人の支える会で給食会をします。初めて訪れる人も少しづつ増えて、日本人としての責任を感じてくれています。



あ!空が晴れてきましたよ^_^



府庁内ロビー活動に行ってらしたオモニが帰ってこられたのでもう一度記念撮影です^_^



オモニたちのシュプレヒコールと合唱です。

オモニ

東大阪朝鮮学校の父兄です。私達の子ども達が日本の子ども達と何ら変わりなく、安心して学校に通えるよう何度も何度もこの場に立って声をあげています。

子ども達を見てください。私達の大切な子ども達の学ぶ権利を奪わないでください。子ども達の様子を見に来ていただいて、朝鮮学校のことを知って、どうか力を貸してください。私達の声にどうか耳を傾けてください。

私達は日本に住む在日外国人ですが、納税の義務を果たしています。法律に沿って義務を果たしています。なぜ私達の権利は守られないんでしょうか。私達の声に耳を傾けてください。

「声よ集まれ、歌となれ」を歌います。

シュプレヒコール

子ども達の学ぶ権利を保障せよ!

朝鮮学校の子ども達を差別するな!

朝鮮学校に高校無償化を適用せよ!

朝鮮学校に補助金を復活せよ!

行政が差別するな!



最後に宋さんがアピールをされます。

オモニ

一言アピールさせてください
3月に入り、7日、14日、高級部と中級部の卒業式がありました。今週は初級部の卒業式、幼稚園部の卒園式があります。7日に高級部の卒業式がありましたが、無償化も補助金復活もないまま送り出さないといけませんでした。

卒園式もありますが、幼稚園児まで排除されています。高校生は自分で状況を理解し闘っていますが、幼稚園児は理解するなどありえないことです。なのになぜ、大人たちがこんなことをしているのか。幼稚園児に何か問題があるというのでしょうか。

オモニも言っていましたが、納税の義務はしっかりはたしています。なぜ、権利は行使できないのでしょうか。悲しくやるせない思いです。3月の卒業シーズン、4月の入学シーズンを迎えることになります。私達はここにいる皆さんとともにこういう問題を正面から訴えていきます。聞こえていたらよろしくお願いします。



最後の歌は歌舞団の徐さんの音頭で「勝利のその日まで」‼️




駐輪場での申し送りです。



ロビー活動から帰られた方々から、



嬉しい元気の出る報告がありましたが、妨害が入るとダメなのでここでは内緒です。いつかご報告できると思います。来週も頑張ります^_^

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