日記 「姉の70歳のお誕生日祝賀会」
今日午後5時から兄の家で、姉の生誕70周年を祝うお誕生会をした。お祝いムード一色に包まれた。
食事の前に書く家庭ごとの写真撮影、まずは兄弟で
次は兄の子供たちと私の子供たち
孫たちから、みんなのお誕生日プレゼント贈呈 「按摩器」だ。
おいしい食事をいただきながら昔話に花が咲いた。
いよいよケーキカットだ!子供たちの目がらんらんと輝き始めた。
みんなで「センイルチュカハムニダ センイルチュカハムニダ サランハヌン 大正ハンメ センイルチュカはムニダ」を合唱した。
待ちに待ったケーキ!子供たちがうれしそうに食べてる。この時だけ静かだった。後は走り回って汗びっしょり!まるで運動会だった。
少し遅れてムンスギが仕事を終えやってきた。
ユファがちやっかりやってきた。
兄弟の中で一番苦労したのは姉だと思う。その昔、あまりにも家が貧しかったので、姉は優秀だったのに高校に行けず家業を手伝った。それでも勉強がしたかった姉は結婚後、桃谷高校の夜間部に通い高校卒業の学力と卒業証書を手に入れた頑張り屋さんだ。今も週1回の絵画教室に通っている。
幼いころから病弱だった姉はあまり社会生活の経験がなく、仕事も家の中での仕事なので他の人と接触する機会はあまりなかったが、昔から勤勉で本を読むのが何よりの趣味だったし、絵を書いたり、短い文をつけて自分で漫画を書いたりしていた。
姉は誰よりも親孝行だったし、兄弟思いで自分の服を一枚買う時でも、必ず兄弟のものを先に買うような人だった。私の持っているまともな服は、ほとんど姉が買ってくれたものだといっても過言ではない。私もずっと働いてきたから自分のものを買うぐらいの小遣いを持っているといっても、姉は時間さえあれば、何かほしいものはないかと私に聞いた。少し体が弱った時には真っ先に薬を購入して家にもって来るような人だ。
同じ兄弟でも私は自分勝手に気ままに青春時代を過ごしたが姉は長女であったばっかりにある意味、家庭の犠牲になったのかも知れない。
私が姉にしてあげられることは、ただじっと姉の話や愚痴を聞いてあげることぐらいだ。それでも姉はいつも私の心配ばかりしていた。姉が還暦を迎えた時も兄弟でお誕生会をしたが、その時は孫が一人もいないときだったのでお店の一部屋を借りて誕生会をした。
私はその時、生まれて初めて、姉に対する感謝の気持ちを歌った詩を作り朗読した。今回は私も老人になったので詩を朗読するのも不自然だと思い、今まで残しておいたデータを引っ張り出し色紙7枚に姉の写真と今まで写してきた花をしっかり載せてお祝いの色紙アルバムを作って姉にプレゼントした。とても喜んでくれた。特に中大阪の民族教育資料室に飾ってあった中学3年生の時の写真にはとても感動したようだ。
自然な形でみんなで持ち寄り行った、ささやかなお誕生会だったが、姉が喜んでくれたのが何よりもうれしい。プライバシーなので余分なことは書かないが、たとえ一日であっても姉が安らいでくれたなら本当に幸せだ。いつまでも元気で、また80歳90歳のお誕生会ができれば良いなぁと夢のような話をした。本当の気持ちだ。
今日午後5時から兄の家で、姉の生誕70周年を祝うお誕生会をした。お祝いムード一色に包まれた。
食事の前に書く家庭ごとの写真撮影、まずは兄弟で
次は兄の子供たちと私の子供たち
孫たちから、みんなのお誕生日プレゼント贈呈 「按摩器」だ。
おいしい食事をいただきながら昔話に花が咲いた。
いよいよケーキカットだ!子供たちの目がらんらんと輝き始めた。
みんなで「センイルチュカハムニダ センイルチュカハムニダ サランハヌン 大正ハンメ センイルチュカはムニダ」を合唱した。
待ちに待ったケーキ!子供たちがうれしそうに食べてる。この時だけ静かだった。後は走り回って汗びっしょり!まるで運動会だった。
少し遅れてムンスギが仕事を終えやってきた。
ユファがちやっかりやってきた。
兄弟の中で一番苦労したのは姉だと思う。その昔、あまりにも家が貧しかったので、姉は優秀だったのに高校に行けず家業を手伝った。それでも勉強がしたかった姉は結婚後、桃谷高校の夜間部に通い高校卒業の学力と卒業証書を手に入れた頑張り屋さんだ。今も週1回の絵画教室に通っている。
幼いころから病弱だった姉はあまり社会生活の経験がなく、仕事も家の中での仕事なので他の人と接触する機会はあまりなかったが、昔から勤勉で本を読むのが何よりの趣味だったし、絵を書いたり、短い文をつけて自分で漫画を書いたりしていた。
姉は誰よりも親孝行だったし、兄弟思いで自分の服を一枚買う時でも、必ず兄弟のものを先に買うような人だった。私の持っているまともな服は、ほとんど姉が買ってくれたものだといっても過言ではない。私もずっと働いてきたから自分のものを買うぐらいの小遣いを持っているといっても、姉は時間さえあれば、何かほしいものはないかと私に聞いた。少し体が弱った時には真っ先に薬を購入して家にもって来るような人だ。
同じ兄弟でも私は自分勝手に気ままに青春時代を過ごしたが姉は長女であったばっかりにある意味、家庭の犠牲になったのかも知れない。
私が姉にしてあげられることは、ただじっと姉の話や愚痴を聞いてあげることぐらいだ。それでも姉はいつも私の心配ばかりしていた。姉が還暦を迎えた時も兄弟でお誕生会をしたが、その時は孫が一人もいないときだったのでお店の一部屋を借りて誕生会をした。
私はその時、生まれて初めて、姉に対する感謝の気持ちを歌った詩を作り朗読した。今回は私も老人になったので詩を朗読するのも不自然だと思い、今まで残しておいたデータを引っ張り出し色紙7枚に姉の写真と今まで写してきた花をしっかり載せてお祝いの色紙アルバムを作って姉にプレゼントした。とても喜んでくれた。特に中大阪の民族教育資料室に飾ってあった中学3年生の時の写真にはとても感動したようだ。
自然な形でみんなで持ち寄り行った、ささやかなお誕生会だったが、姉が喜んでくれたのが何よりもうれしい。プライバシーなので余分なことは書かないが、たとえ一日であっても姉が安らいでくれたなら本当に幸せだ。いつまでも元気で、また80歳90歳のお誕生会ができれば良いなぁと夢のような話をした。本当の気持ちだ。