今日はまた、新しい視点からの氏の「日本論」です。
「日本の政治を実際に左右しているのは、自民党の最高実力者、一等官庁の特等官僚、経済界の最高層の人たちと言ったところであろう。」
「しかしその近代的な外貌を剥ぐと、日本の社会はなお、色濃く氏族、部族社会の心理と、遺構を残している。」
「これは何も、遅れているといった事態ではなく、もとより善悪、優劣の問題ではない。」
「たまたま日本人が、大陸の人口中心から離れて、長期間孤立した列島内に籠もってきた歴史的結果で、人口が増し、異人種間の融合が始まると、部氏族社会的な特徴が、消滅してしまったということに過ぎない。」
こういう見方もあるのかと読んでいますと、いつもの「馬野節(ぶし)」が現れます。
「世に識者と呼ばれる不識者は、このような日本社会の成り行きを西洋眼鏡で眺め、日本は遅れていてダメだとか、西洋流、アメリカ流に変えなければと、活発に喋って回るが、そういう人たちはおよそ頭の悪い困り者である。」
「日本社会の有り様の方が、本来の人間社会の性(さが)であって、長い目で見た着実な発展は日本社会の方にこそある。」
日本を軽視する学者が多い中で、こんな意見を聞かされますと、心が引かされます。
「日本社会は、いろいろな氏 (うじ) の上 (かみ)、部族長の下に、家族的集団が積み上がってできている。政党、その他の派閥、企業、子会社、孫会社などなど、いずれも同様な、原理、構造を持つ。」
「日本国全体が、天皇を全ての氏の上とする巨大氏族とみて良いだろう。」
なるほどこういう意見になるのかと、納得させられます。反日・左翼の人間なら、頭から否定するでしょうが、私はそうでないのだ、広い心で耳を傾けます。
「日本では、重要な決定は、それぞれの族内で広く検討され、時間をかけてコンセンサスが探され、合意が得られた時、氏の上の裁可を得て、氏族全員一致協力して突貫する。」
「かくて何によらず、日本での事業は素晴らしく成功する。あるいは、すべてを失う失敗もする。」
ほとんど成功するが、全てを失う時もあるとは、大東亜戦争の敗北を言っているのでしょうか。一方的な日本賛美でなく、一種の「両論併記」と思えば、納得できます。
「欧米社会はその歴史からして、部氏族はほとんど完全に解体され、一様な社会の中に、孤独な個人が露出する格好になっている。従って、極めて優れた指導者が追従者を周辺に集めて、一時的な集団を作り、それによって目的を達成する形をとる。
「各人は強制によって働くので、自発性は少ない。」
ずいぶん乱暴な意見だという気もしますが、次の言葉で補っています。
「然るがゆえに、典型的な欧米社会の形態は奴隷制度である。ギリシア・ローマは、その典型的なものだ。日本には、家の子・郎党は発生したが、奴隷は現れなかった。日本と西洋の、本質的な違いである。」
奴隷制度の有無は、日本と欧米を際立たせる本質的な違いなので、やはり納得させられます。
「山本七平氏は、日本社会には独特の空気なるものがあり、誰もがその空気を呼吸し、その空気を吸わない者は窒息すると述べている。」「言い得て妙で、誠にその通りだが、日本社会が空気支配になる原因は、部氏族的状態にある。」
「家が、社会・国家構成の根底である日本では、家が潰れると何もかも潰れてしまう。かくして一面では、空気は日本存立の条件なのだ。」「西洋では、空気支配はない。それが進歩であると考える者は、非日分子であり、反日分子である。」
言葉は乱暴ですが、日本社会の本質を語っています。ハンチントン氏が語る「孤立した日本の文明」の萌芽があります。
「日本は古来から、親子、兄弟的 " 情 " の通う世界で、それは今も変わらない。一方、民族と階層が衝突・抗争する西洋(シナ、インドも同じ) では、情は消え、理の世界となる。ここでは情に訴えても通用せず、理と力で押さなければ事は進まない。」
若かった頃の私は、日本の「義理と人情」を嫌悪していました。道理を曖昧にし、うやむやのうちに解決する日本的思考が、胡散臭くてなりませんでした。70代になった今は、氏の意見に納得しますが、息子たちには通用しない気がします。
氏族の長としての天皇を敬う気持ちがあり、日本を大切に思っていますが、基本に家があるという考えは薄れています。私にあるのは、「家」でなく、「家族」です。
「私と妻と子で構成する家族」、「父や母とともに、子供として暮らした時の家族」、「祖父母とともに暮らした時の家族」が、私の中にあります。神様に毎日手を合わせる時、短い祈りの中でこれらの家族が一つになり、ご先祖様につながります。
理論的に言いますと、自分のご先祖の一番最後に神代の天皇があると・・こういう話になります。会社で転勤ばかりしてきた私には、故郷と言える特定の場所がなく、現在住んでいる場所に、わずかな土地と家があるだけです。息子たちには、核家族の経験しかなく、祖父母や親類縁者とのことは、旅行先での思い出のひとつという程度です。
情も家も、氏の言われる意味でなら、それは、息子たちの世代には伝わらない思考でないかと、そんな気がしています。その代わり私が信じているのは、「日本人の中にあるDNA」です。
「日本の社会はなお、色濃く氏族、部族社会の心理と、遺構を残している。」と氏が述べる時、この内容がDNAとして伝わっていると、そのように理解しています。日本人の本質が変わらないという意味で、「情と家」を氏が語っているのなら、私と同じとも言えます。違う意味であれば、氏と私と、いずれの意見が妥当なのか分りません。
私がいなくなった後で、子供たちが「ねこ庭の独り言」を読む時、どう受け止めるかで決まるのでないかと、そんな気がします。尻切れトンボのブログとなりましたので、「ねこ庭」を訪れた方には申し訳なく思います。
自分の家族や家庭と比較し、どうかそれぞれでお考えください。