田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

人間もどきの終焉2  麻屋与志夫

2019-10-25 08:11:47 | 純文学
4 言葉なんか、覚えなければよかった

 遥かかなたの言葉。ぼくのものとなっていない、言葉を所有して、自由に使いこなしてシナリオか小説を書く生活からは、隔絶されてしまった現在のこの日常を呪詛する。いつになったら、いつになったらこの苦役から解放されるのだろう。世界の終焉までこの北関東のさいはての地での労役は終わらないのだろうか?
 ああ早く小説を書きたい。小説を書くことさえできれば、この苦しみからぬけだせるはずだ。

 糸の重圧に耐えられず上半身が不安定にゆがみ、きしむ。あまり長いこと歩き過ぎた。膝が、ふくらはぎがしびれた。
 膝関節炎が再発しなければいいのだが。激しく痛む。硬直したように膝の関節がつっぱる。痛む。曲げると激痛が走る。それでも、歩きつづけなければならない。痛みに耐え、疲れた体で歩き、ただひたすら前に進む。一回でもおおく糸を引く作業をつづけなければ、製品を作り上げなければ月末の病院への支払がとどこおることになる。そうなれば、即刻父の治療はうちきられてしまう。
 これでは、また、夜になってからも、両足はありもしない大地を踏みしめ……前に進もうとしてつっぱるだろう。現実化しない生活を夢見て涙をながす。起きてからも、ながした涙は枕をぬらしたまま乾くことはない。

 ぼくはだれにも泣きごとをいうわけにはいかない。沈黙。……そしてただひたすら、単調な労働に励む。世界の無関心さに耐えること。忍ぶこと。
 耐え忍び、一日も早くこの日常からぬけだしたい。いまはこの環境を甘んじて受けいれることだ。この家から動くことは出来ない――。
 例え膝の軟骨がすり減って、歩けなくなる日があるとわかっていても、いまは歩きつづけなければならないのだ。倒れて死んでしまうと告げられても、今日の糧をあがなうためにも、歩けるうちは歩きつづけなければならない。父の医療費は平均的なサラリーマンの収入の四倍にもなっていた。なんとしても、稼ぎつづけなければいけないのだ。
 ともすれば、後ろに引きもどされそうになる。33本の撚糸の張力と重量に逆らいながら、一歩二歩三歩、13メートルの距離を往復する。背後に引きもどそうとする力とぼくは争って、反り身になる。
 上半身を左右によじるようにしながら、いつもの動作、おなじ糸引きの作業をくりかえす。暗い意識に黒い光が一瞬なだれる。
〈どうしてこんなことになってしまったのだろうか〉ぼくら家族が望んだわけではない。ふいにおそいかかってきた。それでいて、拒むことも、それから逃げだすこともゆるされない。ぼくの父をおそった病魔は陰険に腰を据え、ぼくらを蝕む。父の直腸は青い炎をあげて燃えあがっていた。病名は直腸がん。手の施しようがなく、脇腹に人工肛門を穿つ(ウガツ)手術をしただけだった。長姉が言うので、父には病名も手術の経緯もしらせなかった。
〈どうして、こんな、ことに……〉疲労のはてにやってくるこの疑問……だれに訴えればいいのかわからないこの空言にたいする回答はどこにも用意されていない。
 板塀はびっしょりと濡れてふくらんだ糸の重圧にたえきれず、ゆがみ……傾き、大谷石の底石との接合部がきしみ、がさつな音をたてている。
 
この板塀は父の全盛期に建てたものだった。いまは白アリに浸蝕されている……。それも外部からみると、まだ、堅牢にみえるだけに一層不気味だ。
はた目には健在な家族なのに内側から崩れかけているわが家の危うさとどこか似ている。

5 憩こいの水のほとり

 記憶の片隅で、宮大工の宇野さんの威勢のいい声がする。父が冗談をいいながら、できたてのヒノキの板塀をなでまわしている。なにか卑猥なことをいっていたのだが、ぼくには理解できなかった。
「白木はいいな、宇野さん。汚れやすいが木の色はかけがえがない」
 板塀をなでまわしながら、同じ冗談をくりかえしたが、卑猥な内容はこんどもわからなかった。
「素朴なのがいいですよ」
 宇野さんは肩をそびやかしている。
「板も一枚、いちまいカンナでけずる。木の姿がだんだんあらわれて、みえてきますから。電動カンナやノコを使う大工もいますが、わっしらは、もう老いさき短いから、楽しみながら仕事をやらせてもらいます」
 宮大工の誇りをこめた語調があらたまっていた。父は道楽ものだったが、家の生活はかなりらくだった。
 黄昏が濃くなるまで宇野さんの仕事ぶりを眺めては、父はおしゃべりを楽しんでいた。夜になってから麻の仲買いのところにでかけていった。
もっとも、仲買いは昼は農家をまわって麻を買いだして歩くわけだから、夜しか商談はできなかったのだろう。悠ゆうとした日常の生活をくりかえしていた。
それで家を増築する余裕があったのだから、麻業界そのものが朝鮮事変の後で好景気だったのだろう。
遠い記憶から、物置の屋上で芯縄の先に糊をつけている現実にもどる。頻繁にポヴール粘液がはねるため、父の自慢の白木の塀の木目をぬりこめて醜くしてしまった。――板塀にかかわる想いを思考の片隅におしこめる。
 もうこれ以上は動けない……歩けない……と決断する。ぼくは洗濯をしているはずの妻を呼ぶために声をだす。しかし、あまりながいこと黙もくと働いていて、それに喉も涸渇していたのか、プシュッと水道の蛇口から空気が漏れるような音だけがして……ぼくをひどくあわてさせる。何秒か呼吸をととのえた後で、ふたたび妻の明るい返事を期待して声をはりあげる。 
 ぬれた布と洗剤のにおいをたてて彼女はひそやかにやってきて……ひどく控えめに、あるいはオシダマッタママ階段を登っていく。暗い場所で洗濯をしていたので、父の汚物を洗っていたので、陽光の強烈な輝きに驚き、耐えられないのだろうと解釈する。それ以上声をかけることは止す。
 きらめく太陽のもとで、ひとまわりやせほそった……ますますやつれた彼女に……〈しかしそれを言葉にして彼女にいうわけにはいかない〉
 その印象をひとたび言葉にすると……刹那……彼女はひとにぎりの皮膚色の粉末となって、その場にくずれてしまうだろう。彼女の表情は凝固したままだ。これでいい。これでいいのだ。吹きあがり、奔騰する不満を内在させたまま、生への渇望をかきたてることになる。いつか……この苦役から解放されるときがくる。だから、苦労をくろうとして言葉によって外在させてしまったら、光の下に露呈させては、すべてが終末を向かえることになる。
 13メートルに切断した撚糸を99本ひとまとめにし、庭の両側に立っている鉄骨の柱と柱の間の干し場、鉄骨の――横のバ―の40の鉤爪に端から順番にかけていく。
 太陽にあてて、濡れている糸を乾燥させるためだ。投げあげた糸は陽光を浴び大麻色に、薄い狐色にきらめく弧を描きながら、直線状になり、屋上に上がっている妻が素早くその先端をつかむ。鉄の爪にかける。妻がかけ終わるまでに、ぼくは庭を走って反対側の階段を5段かけあがる。ほとんど同時に――彼女と同じ動作、糸のはしにつけた輪を鉤型につきでた爪にひっかける。
 一瞬……彼女とぼくを隔てた空間を、99本のパイレン撚糸の重量と13メートルの距離を越えて互いの体をむすびあわせたような連携の緊密な感覚がひびきあう。暗黙の励ましをうけたように……オアシスの水辺に伴われたように、目前に憩いの水飲み場があるといった安堵で疲労がやわらぐ。

6 ねじ巻き

 ――食事にしましょうか?
 目が痛む。染色するまえの純白のパイレン撚糸。『へそ巻き』の33個の玉から引きだされる極細のロープを強烈な日射しのもとで注視していたからだろう。
桃代も聖母幼稚園から帰ってくる時間だ。
 すでに午後2時近い。離れでは母が後睡についている時刻だ。だがぼくには憩いはおとずれない。死霊にとりつかれた父の顔が頭のなかでゆれ動いている。苦悶にゆがんだ顔がぼくをさいなむ。今朝あんなひどいことをいわなければよかった。
 ――ねえ、柱時計のネジまいてください。12時に鳴らなかったでしょう。だから、昼食の準備が遅れてしまったのよ。
 食事がすむとミチコが待っていたようにいった。
 ――どうして、自分でやらない。おまえ、ぼくと一緒になってから、一度も時計のネジをまいたことないじゃないか。
 妻は食後の食器を洗い場に置いている。蛇口をひねった。水は音をたてて奔流し、シンクを満たす。かすかに水道水のカルキのにおいがキッチンに漂ってきた。 
 ――トドカナイノヨ。
 こちらに背中をみせ、黒いシルエットとなって食器を洗いはじめた彼女の向こうで、飛沫がおびただしい宝石のかけらのように、きらめいている。
 ――とどかない?
 ――高すぎて……。
 薄暗がりのなかで、ひとまわり小さくみえる妻の背中にはなしつづける。いらいらしている声はぼくのものだ。
 ――踏み台をすればいい。ぼくだって、踏み台にのってまく……しっているだろう?
 ぼくの椅子のしたで、とつぜん床に勾配ができたような不安におそわれる。体がゆらいでいる。平衡感覚を失い、床に倒れそうになるのを必死で立て直す。
 ――ネジがかたすぎるわ。
 食卓のふちにつかまる。体がふるえつづけている。この感覚のふるえが、どこからやってくるのか、発生の源流はどこなのかつきつめていくが、解答にはいたらない。両腕をテーブルにかけたまま、倒れこむのを防ぎながら妻の背中からの声をきくことになる。
 ――ためしたことないくせに。
――踏み台にのっても、たぶんとどかないわ。
 軽くかわされてしまう。彼女の背中は会話を楽しむというより、会話を壊そうとしている。さらに背中に話しかける。
 ――そんなことあるものか。と、ぼくはむきになる。背中は動かない。食器はすでに洗い終わっているはずだ。
――お父さんは踏み台にのらなくても、ネジをまけたって、お母さんがいっていた。
――ほんとうなの?
――時計の好きなオヤジだった。なにものかに怯えるように素直にみとめる。
――過去形でいうなんて、ヒドイわ。まだケッコウげんきなのに。
妻の認識にぼくは、おどろいて、あらあらしい声となる。そんなバカな。そんなことがあるものか。ぼくはいつの間にか、椅子に座っている。彼女は挑発的な音声で、会話のテンポを速めていく。ぼくは妻の話題についていけない。会話はさらに加速する。
 ――元気なものか。オヤジはもう死んでいる。〈まるでこの場にいない、目にはみえない病床の父が、このキッチンに現存しているみたいで、ぼくはイライラしている〉
 あの部屋には死臭が満ちみちている。どうして父のことになると、こうもむきになるのだろう。話が父のこととなると、ただそれだけで、それと気づかぬうちに、憎しみの歯をむきだしてしまう。抑えきれず、ののしることになる。
 ――わたしにはやさしいお父さんよ。〈父が部屋ごとに、柱時計をそなえつけ、正午になると一斉に鳴りひびく金属音を……つぎつぎに継起する時鐘を恍惚とした表情でききいっていたのが不可解だった。時計は微妙にすこしずつ時間がすらしてあったので、猛禽類の鳴き声のような音はなかなか途絶えなかった。
 時針が12時を指すころになると、ぼくは耳栓をすることにしていた。
 ――ほらまたそんなことをいう。怖いひとよ。あなたは。あなたのこころのなかでは、お父さんは、もう、生きていないんだわ。
 父の奇行、骨董品を集めたり芸者遊びをして母を嘆かせたり、飲んで卓袱台をひっくりかえしたり――かずかずの行動は、死の床に……彼がよこたわっているいまでも、いやこれからでさえ、ぼくは理解することはないだろう。めまいがする。〈人間が人間を理解するなんてことができるのだろうか〉
 父を理解しようとしたことが、そもそもの軋轢の生じた原因ではなかったのか?
 正午になると鳴りひびく金属音をきらって、猛獣におそわれる小動物のように家のなかを逃げ回ったものだった。そのころは、まだそれほど広くはないわが家にはぼくの逃げこむ、やさしく隠蔽してくれる場所などありはしなかった。頭上かふってくる金属音はすぐに止む。すぐに止むからと耳をふさいでいても、余韻がいつまでもコダマとなってぼくの脳細胞につきささった。


麻屋与志夫の小説は下記のカクヨムのサイトで読むことができます。どうぞご訪問ください。

カクヨムサイトはこちら

  今日も遊びに来てくれてありがとうございます。
 お帰りに下のバナーを押してくださると…活力になります。
 皆さんの応援でがんばっています。