田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

人間もどきの終焉5 麻屋与志夫

2019-10-28 06:51:17 | 純文学
13 黒衣をきて窓辺に佇むのはだれか

 ――お母さん。いまお父さんが、病室からでたでしょう。
 詰問されて、母はうろたえる。激しく否定する。なにいってるの、お父さんは、起きあがることもできないのよ。おまえが、一番よくしっているじゃない。わたしが信じられないのなら、自分の目で確かめたらどうなんだい。
 もういいよ。ぼくが悪かった。でも……お母さん、ぼくの部屋でエンピツがなくなっているんだ。これはどう解釈したらいいのですか? 
 ――ネズミだよ。ネズミが曳いていった。この家には残飯がいっぱいあるからね。それで、ネズミがワルサをするんだよ。ネズミが集ってきて、天井裏を一晩中かけまわっているじゃないか。
 母には食事は出し惜しみするが、ぼくらはすてるほど飽食している。皮肉をいっている。ヒガンデいる。やはり肉を食べられなかったことをうらんでいる。桃代をつきとばしたことなどまったく意に介していない。
 父の病室はひっそりとしていた。人気がない。
 ――ともかくミチコも一生懸命やっているんだから、わかってやってください。話がそれてしまった。
 ――わからないね。肉屋が五の日は休みなのは、いまさら始まったことじゃないんだからね。忘れたというのは、口実さ。わたしを、飢えさせる魂胆なんだよ。
 ぼくと向かいあっていたのに、よろめきながら座りこむ。肥っているので後ろに倒れそうだ。ぼくらの部屋を母は、うらみがましい(あるいは獲物をうかがうような)眼差しで睨む。
 ――わたしは、ヒモジインダヨ。肉がたべたいのだよ。
 呪術の文句のようにひびく。わたしはひもじいんだよ。その言葉をきくと、呪縛にかけられたようにぼくはその場にたちすくむ。
 母として機能とこころは、とうに失っていた。動物として生命をもちこたえる本能。いかにして肉体を維持するか、必死なのだ。
 かつては母であったひとへの情愛から、家のなかにハメコマレ、むなしく過ごしてきた無気力さに腹が立った。ミチコを弁護すると母はイジノ悪い姑として、嫁を嫉み、妬み、ののし。
どうしてこんなふうに変わってしまったのか。
 母の肝臓と胆のう炎は宿痾となっていた。
――病気だから、栄養をとるように医者にいわれているのだよ。いくら食べても、栄養をたくわえておいて、吸収することができないのだからね。だから、毎日肉を食べなければ。一日だって肉を食べるのを止めてはいられない。こころにつもる不満をいっきに吐きだした。語気には哀調があった。哀れさがただよっていた。
 そうした母の言葉をきいていると、ぼくはこころのバランスを失いワメキチラシたくなった。ぼくらがどんなに苦労しているか、ミチコが姉たちにヒドイことをいわれてもじっとがまんしていのかわからないのですか。病気の親をかかえているのに、赤ちゃんを産むなんて〈チクショウ腹だ〉なんていわれた。畜生ですよ。栃木の姉なんか、一日だって看病にきてくれないでしょう。見舞にだってきましたか。
 かつては慈愛にみちていた母のヒトミは憎しみ照射だけをぼくに向ける。
 ふいに、夜の雷がなった。こわがりの桃代が目をさまして泣きだしたら……部屋にもどろうとした。明かりが消えた。停電だ。ぼくはある決意をもって一歩踏み出した。絶えてひさしく入ったことのない父の病室のドアのノブ探した。さぐりあてた。押した。
 突然ついた明かり。母がいた。ぼくの目前に母がいた。すでにぼくの行為を予期していた。そうにちがいない。古仏像のような、見つめる対象を哀れむような顔をしている。おまえのことはわたしが一番よくしつてるのだよ。
 巨大な体で立ちはだかっていた。
 その重厚な肉の壁にさえぎられた。父の所在はわからなかった。
 ぼくはせっぱつまった感情を察知された。いちはやく、母が、夫を防御するために、そこにいたのではないかと、ぼくは思った。めくるめく、恐怖。おののき。ぼくは、吐き気をおさえることができなかった。だが、ぼくの胃には吐きだすほどのものは、なにものこっていなかった。
 苦い胃液が喉元で、不吉な花を開いた。口いっぱいに開いた胃液の花を呑みこむこともできず、ぼくは呆然と立ちつくしていた。
 ぼくは不遜な感情の自己謝罪をかねて立ちつくし、母のくいこんでくるような凝視に耐えた。

14 中有にただよう父

 父の病室に入ることをためらった。
 だが、ぼくは母の言葉にすなおに従う行動にでたわけではなかった。
 なかば自己規制。親のいうことには従順にしたがうというながいあいだの習慣に従った。
 ぼくの入室を拒む母の言動には強制的なものがあった。
 そうなのだろうか。
 母にこの場から立ち退くように言われたからなのか。
 いや、ぼくがその場に立ち留まりドァを開け一歩父の病室に踏みこむことをためらったのは、その理由は、恐怖によるものだった。
 ドァの向こう側からとげとげしいというより、鋭利な槍衾を突きつけられたような恐怖がせまってきたからだ。
 すこし時間がたっと、これはおかしいとおもうようになった。
 父の看病のためにすべてをなげうって帰省してきた。
 もしなにか妖しいことがあったら、それを排除しなければいけないのだ。
 それが長男の役目だ。
 いくら父とのあいだには親密な関係は築けなかったからといっても、父の症状を週に一度くらいは確認しないではいられない。
 ベットに拘束されでもしたかのように父は仰向けに寝ていた。
 便のにおいが部屋には充満していた。
 父は微動だにしない。
 なにかオカシイ。ここではもう時間は止まってしまっている。
 これは――気づく。
 病室は『中有』闇にとざされ、死霊が満ちみちていた。
 はっきりと視認できるわけではない。
 そう感じた。
 死霊はとりつくものをもとめて禍々しく渦まいていた。
 いまならタスカル。
 いまならまだ父には死霊はとりついていない。
 一瞬おくれていたら、父は三途の川に誘われていた。
 父がぼくを呼んだのだ。
 ぼくは父に呼ばれたのだ。
 中有に父はいる。
 ぼくは必死で父の名をよび、幼いころ父に教え込まれた降魔の呪文をとなえ、胸に両手を重ね蘇生法を実施していた。
 少し時間がたった。
 これはおかしいぞ、助からないのかもしれない。
 父はすでに死神にとりつかれ三途の川にむかって歩きだしているのかもしれない。
 父は病床で身動き一つしない。
 貪るように父の顔を見た。
 そのときだ、ハッと息をはきだした。
 顔に赤みがさした。
「お父さん」
 ぼくは父に声をかけた。
 父の瞼ピクッと痙攣した。
 そして開いた。
 そして、父は見つめている。
 父の視線の先、窓の外は夕暮れだった。
 雨はあがっていた。
 作業場には斜陽がさしこんでいた。
 父はぼくが作業に励んでいるのを、芯縄の天日干しを広場を見まもっていたのだ。
 庭の木立をすかして、ぼくの働く姿をみていたのだ。
 父は毎日ぼくが働く姿をみていた。その父が苦しそうに口を開いた。
「おれは正一、おまえに帰ってくるようにとはいわなかった。それなのに帰って来た。うれしかった。これで江戸時代からつづいた麻屋のノレンをおろさなくてすむ。うれしかった」
 窓の外の事物の輪郭が闇にぬりつぶされようとしている。
 父は語った。なんども相場をはったが負けた。わが家は悪霊憑きの家系なのかもしれない。合成繊維で芯縄を作るくらいなら、おまえの代でアサヤのノレンをおろしてもいい。さきほどのよろこびのことばとは矛盾していた。おれの世話のために帰ってきてくれた。それだけで満足だ。うれしかった。父の言葉はとぎれとぎれだった。
「ダメ。出ていきなさい」
 母がさきほどの言葉をまたくりかえしている。
「お父さん」
「ソンナ目で見るな。おれはまだ生きている」
 ――まだ生きている。ようやく虹彩をとりもどした父の眼が言っている。
「おれはまだいきている」
(ぼくはなんということを想像していたのだ)
 父の死をねがっていたのか。
「近寄らないで」
 母が絶叫した。ぼくをつきとばした。
 よろけながら、このとき、ぼくは見た。
 ふるえながら父の手が上掛けを払いのけた。
 下半身は裸だった。
 左の脇腹にうがたれたストーマ、人工肛門がいたいたしい。肉色のバラのようだ。花芯がうごめいている。いや、ナメクジのような軟体動物が穴からはいだそうとしている。肛門からでる便であるはずがない。臭いもなにもしない。タダ不気味にはいだしてきた。
「さがりなさい」
 母が邪険に叫ぶ。
 ぼくの腕をひく。どこにこんな力を母は温存させておいたのか。ぼくはよろけた。
 父のベットの向こう側に黒い影がよどんでいる。影はピョコンと父の胸のうえにとびのった。そんなバカな。ムンクの「死の床」に描かれていた。臨終の病人の体の上にのっている悪魔の姿に見えた。
「見えるんだね。正一。おまえにも、お父さんのように、わたしのように、悪魔が見えるようになったのだね」
「もういい。このままいかせてくれ。呼びもどさなくていい」
 父が苦しい声をしぼりだした。
 この部屋には父と母とぼくしか存在していないはずだ。
 だが、見える。
 黒い影。悪魔。
 あれが幻影であるわけがない。
「やめろ。父をどこにつれていこうというのだ」
「正一。ムダよ。あきらめなさい。それより、この部屋からはやく、でていきなさい」
 あわてふためく母とぼくを悪魔が見つめている。
「正一。逃げて」
 母の視線の先でナメクジがぬらぬらとこちらにはってくる。
「あれは癌のようなものよ。あれにはいりこまれたら、もう助からないの」
「だったら、母さんも逃げよう」
「わたしはお父さんから病気をとりのぞこうと、進んでアイツを受けいれたの。だからお腹がすくのよ」
「逃げよう。母さん」
 ぼくがこんどは母の手を引いた。85キロの母はびくとも動かない。
 悪魔が笑ったように感じた。あいつは幻影だ。そうあってくれ。
 光の屈折がつくりだした幻だ。
 蜃気楼だ。
 いや、あれは異界からこちら側に、この現世に迷いでてきた異形のものだ。
 こちら側に存在してはいけない。悪魔だ。
「おれは病気なんかじゃない」
 父が怨念をこめて低くつぶやいた。
「きさまらが。よってたかっておれを呼びにきた」
 悪魔に怨みの声をかけている。
 ――その非難はおかどちがいだな。悪魔から声にならない声がながれだしてきた。おれたちは分業なのだ。死の病を処方するものはそこにいるヤッの仕事だ。
 悪魔はナメクジを指さして哄笑している。
 父が直腸癌で倒れたので、家業を継ぐため、父と母の看病をするために帰省したのだ。
 父を助けるために帰ってきたのだ。
 ダメなのか、もうこれまでだ。助けることができない。
 なんてヒドイことをかんがえていたのだ。
 例えこのまま進めば、明日ぼくと妻と娘の家族が破滅するとしても、目前の父のサルべージが必要なのだ。
 例え、いちどでも父の死をねがった罪は許されない。
 生活の苦しさから、労働の辛さから父の死を望んだ。
 妻や娘を優先してかんがえた。
 全ての罪はわたしがひきうける。

「父をたすけてくれ。父をつれていかないでくれ。父を助けてくれ。わたしの寿命をちぢめてもいい。父にあたえてくれ」
 ここで諦めて部屋から退散することなんかできない。
 わたしはまずナメクジを踏み殺そうとした。
 あざける悪魔を無視した。
 さっと足をもちあげた。
「やめて!!」
 母が絶叫した。
 ナメクジが天井に跳ねた。天井をはってぼくの頭上に移動してくる。
 母がわたしを突きとばした。おちてくるナメクジを口でうけのみこんでしまった。

 ぼくは悪魔に挑んだ。かかえあげた。父の胸の上から引きずりおろそうとした。
 引き離そうとした。青白いスパーク。この閃光はテレキネスだ。悟った瞬間、父のベッドの反対側にハジキとばされた。頭蓋骨に直接ひびいてくる嘲笑。
「おまえも、一緒にいくか」
 
 一緒にいくか? 悪魔が嘲りながら誘っている。
 黒い悪魔の体のなかで、そこだけ青白く光っている双眸。
 青い炎がふきだしているようだ。
 あるいは、おどかしている。こんなヤツとはどう戦えばいいのだ。
 母は白眼をむいて倒れたままだ。

15 荒廃した家

 ぼくは父のとなりに座っていた。身近に父を感じていた。夏。そう、やはり夏だった。
 まばゆい夏の光のなかでぼくらは病室の窓から庭をみていた。
 花壇には鮮烈なダリヤが咲いていた。手術をきらって、病院にいくのはいやだという父を中庭の片隅においつめて、やっと病室につれてきたところだった。
――手術はいやだ。そんなことを、したら、死んでしまう。医者にころされてしまうぞ。どうして手術をするんだ。どこがわるというのだ。
 家族で説得して宇都宮のK病院に入院させた。やはり、なぜか赤いダリヤが花壇で風にゆらいでいた。ぼくは父がながすであろう、血の色をイメージし不吉な思いにかられた。白衣の看護婦が水をやっていた。白衣が風にはためいていた。
 父らしくない弱々しい声だった。入院費のこともさすが商人、気にかけていた。手術費は確かにぼくらの一年分の生活費ほどかかった。老人医療がない時代だった。それでも父の命が助かるのだったら、高利貸に借金しても、なんとか金は工面する。どういっても親子なのだから。ぼくは決意していした。
 
――おれは病気ではない。病気なんかじゃない。おれを病気だといったのは、おまえのお母さんだ。おれはどこもわるくはないぞ。手術なんかするものか。手術なんかいやだ。
 
 泣きだしていた。父が泣くのを初めてみた。泣きながら話す。訴えるよう泣きながら話しつづけることで、手術の不安からり逃れようとしていた。
 青白い衰弱した顔……皺々のあつまりのなかでクボンダ目。虹彩。なぜかその窪みがぼくには父の肛門のように見えた。一滴の血液がトイレの便座に付着していた。その発見は母によってなされた。平穏であった家族の安泰がおびやかされた。
 
 暗闇にわが家がつきおとされたのは、あの赤い一個の球状のしたたりによるものだった。
 
――医者が診断したのだから。お酒の飲みすぎだよ。お尻にイボができてるんだって。それをちょっと、とるだけだよ。
 平凡な会話しかできないことが、つらかった。
 あの日も夏の午後だった。ぼくのこころは、闇にとざされていた。ぼくがおそいくる闇を感じた、初めて害意ある闇にトリカコマレテいると意識した日だった。
 病院。噴水のある中庭。天使が舞っているような、噴水の周りの塑像。実際に羽の生えている像がかなりあった。
 どうしても病室にもどろうとしない父と肩をならべてベンチに座り水音をきいていた。
けっしてここは天国の庭なんかではない。むしろ地獄だ。それを実感できるのはもっとあとになってからだった。
 なにか重大な過失をおかしているようで不安にった。父の入院する病院も、手術の予定日も、医者にさえぼくは会っていなかった。すべて長姉の富子が采配を振るっていた。あまり父がまだ元気に病であることを否定するので、ぼくまで懐疑的になってしまった。ほんとうに病気でなかったら、誤診だったら……父を場に追いこむようなものではないか。
 ぼくを平気で殴るくせに、痛みにたいしては過敏なほど弱い父だった。もし顔を傷つけたらと髭を剃るのにカミソリも使えない。肌が敏感でクリームもぬれない。その父に直腸癌の手術をうけさせるのは――。
明るくきらめく噴水をみつめていた。父は黙ってしまった。
 ぼくは花壇に咲き乱れる夏の花の香りをすいこんだ。
 だまって父の手をにぎった。
 父の手は震えていた。
 なぜか、いままでぼくに鉄拳をあたえてきた手がなつかしいものに思えた。
 ぼくはさらにつよく握るために手に力をくわえていた。



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