田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

人間もどきの終焉3  麻屋与志夫

2019-10-26 07:50:51 | 純文学

7 肉が食べたい

 父は麻相場に賭けていた。ひと相場あてれば、10年はらくに暮らしていける。そんなことをウソブイテいた。よく座禅をくみ、あすの相場をみとおすのだといっていた。神がかりなことをいっていた。この期間、相場に賭けているときだけは、なぜか時計の針を合わせて、正午を告げる12番目の音が最後の一瞬において、同時に家じゅうにひびきわたらないと、不意に瞑想からさめて、獣のように吠えたてた。13番目の時鐘をきいたときには、それは一層凶暴なものとなった。……なぜだろうか?
 そうした奇癖がどこからやってくるのか……ぼくにはわからなかった。ぼくのやったことといえば、だから時計に油をさし修理するといった口実のもとにいまわしい機械を壊しまわることだった。
 母の部屋から食事を要求する合図の鈴が鳴る。その音でぼくとミチコとの口論、父の存在に対する認識のちがいはそれでうちきられることになる。話題はにわかに日常次元の生臭さをとりもどすことになる。
 ――困ったわ。きょう5の日だってこと忘れていたのよ。お肉屋さん……やすみなの。
 ――肉でなければ、ダメなのか?
 ――もちろんよ。血のしたたるようなビフテキが、お母さんのいちばん好きな肉料理。なにか不安なことがあると、食欲がスゴクでるみたい。
 血がながれている。母の口元からは生肉からしたたる血が、鮮やかな赤い粘糸がしたたりおちていた。咬筋をふるわせる。みだらな咀嚼音をたてる。一滴また一滴と、血はしたたり、ぬめぬめとしたみだらな口蓋音をいつまでもたてつづけている。
 ――おふくろは昔からだ。いまにはじまったことではない。あの異常な食欲は。だから、太ってるんだ。お金はある?
 ――もう、あまりないわ。どうしたらいいの。毎日、あの歳で、肉をはんぱじゃないほどたべつづけている。すこし異常だとおもわない。信じられない。とても、信じられないわ。〈母はミチコの倍くらいの肉体、体重をしている〉
 ――まるで怪物だな。
 ――そうよ。まるでモンスター。唇から血をしたたらせて上目づかいにみられると、ゾーッとするわ。
 金庫を開け、月末の手形決済のためにとっておいた札束から1000円だけぬきとって、妻にわたす。肉をあたえなかったら、片時も休みなく飢えつづける母、老いても貪婪な食欲をうしなわない哀れな母は、微笑をたたえながらいうだろう。
 ――おまえ、わたしは病気なんだよ。お腹が空いてたまらないのだよ。病気が肉をぜんぶたべてしまってわたしのほうには、まわってこないの。肝臓がわるいから、栄養を貯蔵しておくことができないのだよ。毎日、肉をたべないと死んでしまうからね。病気がたべさせるの。わたしを飢えさせないでおくれ。
――困ったわ。大谷お肉屋さん……おやすみなのよ。どうしょうかしら……。それに、桃代の明日のお弁当のおかずも買わなくては。
 ミチコは遠く離れたスーパーまででかけていった。
 母は廊下にでて、子どもが肉をたべさせてくれない。子どもがイジメル。と大声でどなっている。陰々とひびく母の声は大気のなかにひとまずとどこおって、やがて周囲にながれだす。叫び声は内容からすれば、切実な飢えの訴えときけるが、口調からすればいやがらせの害意がみえみえで、かなしかった。怒りさえ感じるあの声。――母はすっかりかわってしまった。
 あんな母ではなかった。命がけで、父に虐待されるぼくを守ってくれた母だったのに。ぼくとミチコが母と父を養うために命がけで働いているのが、まったくわかっていないようだった。ぼくは肥厚した母の背中をだまってみつめていた。ミチコの帰りが、やけに遅いようで気になった。妻はひとしれず、どこかで、泣いているのではないだろうか。

8 父への殺意

 夕暮れると風がでた。
 一日の労役のはてに、腕には接着剤のボンドがいたるところに付着して、固まり、肌は甲殻類のようにゴツゴツしている。流れおちる汗を不用意にその手でぬぐってしまった。爪でひっかかれたような幾条もの痛みが顔にはしる。手のひらは固まった接着剤で、荒いヤスリのようになっていた。
 ぼくのものとはおもえない、ゴツゴツした手に血がついている。顔はヒリヒリする。血は止まらない。桃代が帰ってきた。おどろいてぼくの顔をみつめる。青ざめた顔で門のなかにきえていく。玄関を開ける音がした。
 やがて……。濡れたタオルをもって、もどってきた。息をきらせている。タオルはよくしぼられていない。妻のわたしてよこしたものではないだろう。しぼりなおすと、シズクが大地に数珠となってしたたる。顔におしあてる。ひんやりとして、気持ちがいい。桃代はいない。ありがとうとお礼をいいたかったのに。もういちど顔におしあてようとした。タオルは赤く染まっていた。
 ――パパ。という声にふりかえる。妻と桃代が門のところに立ってこちらをみている。
 ――また、やってしまったのね。妻が桃代にオロナインのビンをわたしている。
 ――ショウノナイパパデスコト。桃代の大人びた言葉。お人形に呼びかけている。慈愛に満ちた声をだす。ぼくは桃代の背の高さまで屈む。ぼくの顔に桃代がオロナインをぬる。すりこむ。

9 この庭はだれのものか

 暮れゆく光のなかの塀沿いの狭い場所。
 ボヴールの濃液が垂れたので、ガバガバに硬化してしまった路面にも微風がふきわたる。
 液体のたまったくぼみに落ちた昆虫はすでに動いていない。
 いつの間に、落ちたのだろう。昆虫を誘いこむにおいがするのだろうか? 
 ボンドの溶液のなかに落ちた昆虫。
 もがいているうちに、動きがとれなくなって、死んでいく。
 甘ったるいにおいに魅かれて、花の香りと錯覚したのだろう。
 粘りつき、いちど捕捉されたら、どんなことがあっても、どうもがき脱けだそうとしても――粘着性の強い血族関係に捕りこまれてしまうと、脱けだすことは不可能なのだ。
 ぼくが妻を道連れにしてオチイッテしまった陥穽がこれだ。
 ぼくらはここからは、脱出ができない。
 肉親という血のつながりのヨドミのなかで、身動きすることのできないぼくらを――暗示しているようだ。もがけばもがくほど、イライラしてしまう。
 
 粘着する現実はぼくを捕りこむ。
 拒むことも逃げたすことも――もう遅い。
 できなくなってしまっている。
 
 この路地にこれほど早く暮色がおとずれるのは、西に丘陵があるからで、丘のいただきに並列する樹木の上部でいまこの日の終わりの光が消えていく。
 硬直する体。疲労のため、ぼくの知覚はマヒし〈いまこの瞬間大地に横になって深く呼吸をすることができたら……〉などとバカゲタことをおもう。ぼくの視線は死に瀕した、いや、もう死んでいるのかもしれない昆虫をみてしまう。接着剤に捕らえられた昆虫に視線がクギ付けとなる。ぼくは絶えず、休みなく労役に励んでいなければいけないのだ。動きの静止したとき、それは生死を別ける危険がある。おそらく、死を意味している。
 夕風が湿っぽく感じられる。どこかで雷雨があったのだろう。初夏のこの地方には、関東平野の最北にあり背後は日光山系に阻まれた舟形盆地にある地形のためか、雷が多発する。湿った気層に花々の芳香がとけこんでいる。夏の花のニオイがする。妻が苦しい家計のなかからなんとか工面して買った、一鉢のバラのニオイもする。花の種類がわからないので、妻は「リルケのバラ」と名付けた。「バラの名前は、リルケのバラ」なんども口ずさんでは、寂しくほほえんでいる。リルケがバラのトゲで死んだというのは、本当のことなのだろうか?
 この限られ空間で、大地を踏み固め、なんの変哲もない一日の労働をきりあげようとするとき。ぼくはこうした、香りと風と消えていく光のなかに在って、自然のやさしい情感のおすそわけにあずかったのだが……。ふいに、老いた母の声がひびきわたる。
 ――ミチコがたべさせてくれない。ミチコが肉たべさせてくれない。わかいものが、たべものをたべさせてくれない。わたしを飢えさせる気だよ。
 バラ色のつややかな肌をした母が、二階のベランダで叫んでいる。周囲の家からはなんの反応もない。窓の陰できき耳をたてているにちがいな。ベランダの柵に両手をかけて母は巨体を支えている。着物のスソを乱してわめいている。ぼくと妻はなすすべもない。庭に立って母の狂乱ぶりをみあげているだけだ。
 母は周囲がなんの反応もしめさず、相手にしてくれないとわかると、柵をゆすって憎しみの声を、空に向かって張り上げる。怒声と柵のギシギシゆがむ音がやっと一日の労働から解放されようとしていたぼくらを苛む。〈どうしょうもない。どうしょうもないのだよ。ミチコ〉ぼくは祈るように手をあわせた。母の叫び声が一刻も早く止むことだけを念じていた。
 桃代がベランダにあらわれた。母の袖を引いている。母は孫の手を邪険にはらいのけた。
 叫ぶ。
 ――わたしを飢えさせる。お腹すいたよ!!!
 ミチコは恐怖におののく顔をぼく向ける。
 茜色の空にカラスが群れはじめた。
 どこからともなく、夕暮れどきになると、この黒い鳥、カラスがネグラに帰ってくる。墓地の西側は『鍵山』という地膨れ山になっている。
カラスが群棲している。でも、きょうに限ってわが家の上空でけたたましく鳴き騒ぎ、群舞している。母の叫び声と呼応している。カラスの不吉な声と母の叫び。
 桃代が母の手をよけそこねた。まさかバァチャンが邪険に手を振るとはおもわなかった。ベランダに桃代は転んでしまった。
 ミチコが叫んだ。桃代は泣いている。
 母の声と桃代の泣き声がまざりあった。
 黒い鳥が上空で騒いでいる。
 黄昏が迫る。空が薄墨色にかわっていく。
 黄昏が濃くなる。
 ベランダに駆けあがろうとする妻をぼくはおし止めた。
 妻は小柄な体で、激しく逆らった。
 いま妻が母と桃代が、3人の女がベランダに立てば、なにが起こるかわからない。予想
もできない。――だが、不吉な前兆を感じて、いやがる妻を引寄せた。
 段ボール箱の陰につれこんだ。背中をさすってやる。おちつけ。堪えてくれ。布地越し
に背中をさすっておちつかせようとする。
 ぼくの手はザラザラしているので、獣が爪をたててこすっているようだ。不気味な音がした。彼女はベランダにいこうとして、桃代を助け起こそうと、ぼくの胸を叩いて抵抗した。(どんな罪をぼくらが犯したというのか。妻とぼくはこのような環境のなかに幽閉され、労役に励みつづけなければならないのか。解き放されることはないのか。どんなことがあっても、両親が死ぬまで面倒をみなければならないのか)



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