3 空の珊瑚
ふいにやってきた雷雨のため――北関東特有の雷は空のはてで光った一条の稲妻とともにおそってくるのだが、ぼくらの戦場行軍は最悪の事態に遭遇していた。
のぼりつめた山の尾根で暗雲をきりさく光をみたとき体操教師のHはぼくらを避難させるべきだった。山腹に穿たれた軍用物資隠蔽庫をかねた横穴壕にどうにか逃げこむことができたはずだ。
Hの髪はポマードでぎとぎとしていた。銀だし油付けているとぼくらはいっていた。そのべったりと頭皮にへばりついている髪を中央から櫛目がわかるほど丁寧にわけていた。
刃物でそぎおとしたようなほほと分厚い唇に一瞬あらわれて消えた加虐的な微笑をぼくは見逃すわけにはいかなかった。昼間の光の中にいるのに、覚醒した時なのに、ぼくは悪夢をみているような恐怖を感じた。あのことを目撃しているために、……ぼくはHから危害をくわえられるのではないかと怖れつづけている。
行軍の隊列は、はるか眼下に淡紅色の羊羹をならべたようにみえる校舎と、横穴壕との中間地帯にさしかかっていた。寒さと喉の渇きのためともすれば停滞する蛇行の群を叱咤する教師の声だけが雨の中にむなしくひびいていた。
さらさらに乾いて顆粒状をした土は、水をすいこんだ海綿のようにぼってりとし、茶褐色に変容する。素足の下で固まり、大地そのものが足下で岩壁にでもなってしまったような錯覚、あるいはタイムマシンで未知の領域にやってきたような……翼竜の時代に素足で地面を踏みしめた原始人のような感触を、その硬化した大地からうける。それは喜びをぼくらにあたえた。ぼくらはただもくもくと歩きつづけていた。
歩行者の踏みこむ重量をささえきれずくずれる土壌をぼくは、忌みきらった。粉末となり……ぼくらを脚もとからすいこむような土はいやだった。
大地は鋼鉄の硬度、けっして他者に侵されることのない強靭さをそなえているものと信頼しきっていたから、ぼくは乾いて侵されやすい黄土に足跡をのこすにはある種の嫌悪感と不安な予感をもってしまうのだった。
雨は強くなった。
雷鳴はとどろき、下界は色彩を喪失していた。罠から遁れる獣のようにただひたすらぼくは歩きつづける。懸命に歩いているのに、ぼくはかなり遅れていた。視野はせばまり雨音だけが聞こえた。雨によって隔絶されてはいたがかすかに友だちたちが前方を進む気配が感じられ、ぼくはそれをたよりに歩いた。ぼくはついに不安に耐えきれず彼らに声をかけた。山と丘陵を越え、雑木林をぬけ、河にかかった橋を渡って学校へもどるまでの四キロにあまる全行程において、ぼくらは沈黙をしいられていた。叫び声をあげた瞬間……Hが不正行為の審判者となってぼくの眼交に立っていた。それは、彼がまるで影のようにいままでぼくの背中にへばりついていたみたいな幻惑、悪魔の目で監視されていたのだといった恐怖をともなっての出現であった。
ほほにかなりはげしい衝撃があった。
Hの影を、きらめく巨大な珊瑚にも似た稲妻が照らした。黒々とうかびあがった彼の影はしかしぼくの視線のさきで消滅した。……ぼくはほほにうけた衝撃よりはるかに大きな……地割れのような、大地の揺れる感覚を全身の筋肉に採集したまま斜面を転落した。
ぼくはアメーバに還って海をただよっている。海というものをそれまでに眺めた記憶はなかったが、失神の瞬間に空に光った稲妻を巨大な珊瑚とおもったように、海は空が反転したようなものだとおもった。ただよいつづけていた。ぼくの体はなかった。鼓動だけがただよいつづけるぼくのものであるようだった。いやそれは、波濤が渚で崩れる音だ。海辺で叫んでいる声があり(Hの声らしかった)、ぼくは接岸を希求していたにもかかわらず、沖へと流されているようだった。水平線に、マネキン人形のように硬直して、しかし艶やかさをおびた音楽教師のYが海面から腕だけだし、その腕が淫靡なさそいこむような動きで、ぼくを招いているのだった。
伝声管をみみもとにおしとつけられているのだろうか。体操教師のHの冷酷な声が増幅されてひびく。その追いかけてくる声からも逃れなければならない。彼の声にはあきらかな殺意があり、その声が無数の鋭くきらめく短剣となってぼくに迫ってきたから。
トラックの古タイヤが漂流していた。映像をともなわないHの、声だけの追跡からのがれるため、ぼくはタイヤにしがみつき、両腕に力をこめ……かきあがろうとする。タイヤの中央は勿論、円形の空洞になっていたが、ようやくのことではいあがったぼくが覗きこむと、その空洞はどうしたことか、海底まで通路のようにつづいていた。通路は遠近法を無視して、底にいくほどたしかな広がりをみせていた。その底辺に見覚えのある朝鮮人の青年が仰臥しているのだった。どうやらそれは、あのトラックを運転した男らしかったが、はっきりしなかった。彼は死者には似つかわしくない逞しい腕をぼくにむけだきしめようとするような招き方をしている。――だがぼくは恐怖の叫び声で現実の空間に横たわっている自分の体をとりもどすことができたのだった。
雨は降りつづいていた。ぼくが意識をとりもどすまでにどれほどの時間の経過があったというのか。雷雨のながりのごくまばらな降りかただった。群葉の先端からしたたる滴のような降りかただった。
ぼくは、木の茂みをわけ、級友たちのいる尾根に登るため、路のない路を探し、どうにか、Hの残忍な制裁をあまんじてうけいれなければならなかった地点にたちもどることができた。
しかし――矮小で臆病者のぼくを、尾根から突き落したHの率いる勇壮な少国民である級友たちの誇りある戦場行軍の列は乱れていた。肉体鍛練の領域はみるも無惨な死者たちのよこたわる黄泉の国となっていた。
うめく声。苦痛にゆがんだ顔。変色した皮膚。噛みつくような歯ぎしり。どうしたんだ。なにがあったのだ。空襲だ。きっと、鬼畜米英の空軍が爆弾を落としたのだ。しかし、飛行機の影もなく、しだいに空は明るくなる。ぼくが級友たちの方に近寄っていくと災禍をまぬがれたものたちが、茫然自失といった、まだ自分たちが焼け焦げることもなく生きているという恩恵にひたる喜びをしらぬげにたちつくしていた。渦を巻きながら遠ざかる雷雲を背景にして、彼らは、黒く朽ち果てた杭の羅列、あるいは倒木のようにみえた。
ぼくが、さらに対象をよりよく見定めようと前かがみになると、集団疎開の奥村が、鏡の中を覗きこむような眼差しでぼくを見つめてきた。
マグロ、おまえ、無事だったのか?
Hによってつけられたあだ名で呼びかけられ、ぼくは小石をたたきつけられたように、こころが砕けるのを感じた。しかしぼくは応じないわけにはいかない。
ああ、崖の下に落ちていたんだ。
それでたすかったんだ。落雷があった。おまえのいた後のほうのものはみんな雷に打たれた。いまHが学校へ急報するために走って行った。
奥村の指さす方角、はるか山裾の、ようやく陽のてりだした道を、まだ暗く陰っている部分にある校舎めざしてHがあやつり人形のようにぎくしゃくした動作で遠ざかっていくのがみえた。
あいつ、まるで逃げていくみたいだ。おれたちを置きざりにして逃げていくみたいだ。そういってしまうと、いままであれほど怖れていたHがけっしてぼくの死刑執行人ではなく、不潔で歪んだ欲望の権化、忌むべきただの男におもえてくるのだった。
それからぼくはもう動かなかった。友だちの顔をひとりひとり確かめ、五人の級友がこの世界に肉体はまだ留まっているのに、魂はどこかはるか彼方、たとえば雷雲の去った晴天の空間を飛翔して二度ともどっとこない彼岸へ去っていったのだと悟った。
だがしかし、ぼくは、彼らはけっして死ぬことはなく、ぼくがさきほど落ちこんだ海のような処を漂い、音樂教師のYや朝鮮人の青年と波にたわむれ、体をこすりあわせ、快楽の叫びをあげたりして生きつづけているのだ、という幻想にとらわれた。
現実世界にもどれたぼくは、……Hの指の跡があざやかな小さな珊瑚の色と形をともなってほほに残り、それがいつになっても消えないのではないかという不安と戦いながら生きつづけなければならなかった。
再録です。
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ふいにやってきた雷雨のため――北関東特有の雷は空のはてで光った一条の稲妻とともにおそってくるのだが、ぼくらの戦場行軍は最悪の事態に遭遇していた。
のぼりつめた山の尾根で暗雲をきりさく光をみたとき体操教師のHはぼくらを避難させるべきだった。山腹に穿たれた軍用物資隠蔽庫をかねた横穴壕にどうにか逃げこむことができたはずだ。
Hの髪はポマードでぎとぎとしていた。銀だし油付けているとぼくらはいっていた。そのべったりと頭皮にへばりついている髪を中央から櫛目がわかるほど丁寧にわけていた。
刃物でそぎおとしたようなほほと分厚い唇に一瞬あらわれて消えた加虐的な微笑をぼくは見逃すわけにはいかなかった。昼間の光の中にいるのに、覚醒した時なのに、ぼくは悪夢をみているような恐怖を感じた。あのことを目撃しているために、……ぼくはHから危害をくわえられるのではないかと怖れつづけている。
行軍の隊列は、はるか眼下に淡紅色の羊羹をならべたようにみえる校舎と、横穴壕との中間地帯にさしかかっていた。寒さと喉の渇きのためともすれば停滞する蛇行の群を叱咤する教師の声だけが雨の中にむなしくひびいていた。
さらさらに乾いて顆粒状をした土は、水をすいこんだ海綿のようにぼってりとし、茶褐色に変容する。素足の下で固まり、大地そのものが足下で岩壁にでもなってしまったような錯覚、あるいはタイムマシンで未知の領域にやってきたような……翼竜の時代に素足で地面を踏みしめた原始人のような感触を、その硬化した大地からうける。それは喜びをぼくらにあたえた。ぼくらはただもくもくと歩きつづけていた。
歩行者の踏みこむ重量をささえきれずくずれる土壌をぼくは、忌みきらった。粉末となり……ぼくらを脚もとからすいこむような土はいやだった。
大地は鋼鉄の硬度、けっして他者に侵されることのない強靭さをそなえているものと信頼しきっていたから、ぼくは乾いて侵されやすい黄土に足跡をのこすにはある種の嫌悪感と不安な予感をもってしまうのだった。
雨は強くなった。
雷鳴はとどろき、下界は色彩を喪失していた。罠から遁れる獣のようにただひたすらぼくは歩きつづける。懸命に歩いているのに、ぼくはかなり遅れていた。視野はせばまり雨音だけが聞こえた。雨によって隔絶されてはいたがかすかに友だちたちが前方を進む気配が感じられ、ぼくはそれをたよりに歩いた。ぼくはついに不安に耐えきれず彼らに声をかけた。山と丘陵を越え、雑木林をぬけ、河にかかった橋を渡って学校へもどるまでの四キロにあまる全行程において、ぼくらは沈黙をしいられていた。叫び声をあげた瞬間……Hが不正行為の審判者となってぼくの眼交に立っていた。それは、彼がまるで影のようにいままでぼくの背中にへばりついていたみたいな幻惑、悪魔の目で監視されていたのだといった恐怖をともなっての出現であった。
ほほにかなりはげしい衝撃があった。
Hの影を、きらめく巨大な珊瑚にも似た稲妻が照らした。黒々とうかびあがった彼の影はしかしぼくの視線のさきで消滅した。……ぼくはほほにうけた衝撃よりはるかに大きな……地割れのような、大地の揺れる感覚を全身の筋肉に採集したまま斜面を転落した。
ぼくはアメーバに還って海をただよっている。海というものをそれまでに眺めた記憶はなかったが、失神の瞬間に空に光った稲妻を巨大な珊瑚とおもったように、海は空が反転したようなものだとおもった。ただよいつづけていた。ぼくの体はなかった。鼓動だけがただよいつづけるぼくのものであるようだった。いやそれは、波濤が渚で崩れる音だ。海辺で叫んでいる声があり(Hの声らしかった)、ぼくは接岸を希求していたにもかかわらず、沖へと流されているようだった。水平線に、マネキン人形のように硬直して、しかし艶やかさをおびた音楽教師のYが海面から腕だけだし、その腕が淫靡なさそいこむような動きで、ぼくを招いているのだった。
伝声管をみみもとにおしとつけられているのだろうか。体操教師のHの冷酷な声が増幅されてひびく。その追いかけてくる声からも逃れなければならない。彼の声にはあきらかな殺意があり、その声が無数の鋭くきらめく短剣となってぼくに迫ってきたから。
トラックの古タイヤが漂流していた。映像をともなわないHの、声だけの追跡からのがれるため、ぼくはタイヤにしがみつき、両腕に力をこめ……かきあがろうとする。タイヤの中央は勿論、円形の空洞になっていたが、ようやくのことではいあがったぼくが覗きこむと、その空洞はどうしたことか、海底まで通路のようにつづいていた。通路は遠近法を無視して、底にいくほどたしかな広がりをみせていた。その底辺に見覚えのある朝鮮人の青年が仰臥しているのだった。どうやらそれは、あのトラックを運転した男らしかったが、はっきりしなかった。彼は死者には似つかわしくない逞しい腕をぼくにむけだきしめようとするような招き方をしている。――だがぼくは恐怖の叫び声で現実の空間に横たわっている自分の体をとりもどすことができたのだった。
雨は降りつづいていた。ぼくが意識をとりもどすまでにどれほどの時間の経過があったというのか。雷雨のながりのごくまばらな降りかただった。群葉の先端からしたたる滴のような降りかただった。
ぼくは、木の茂みをわけ、級友たちのいる尾根に登るため、路のない路を探し、どうにか、Hの残忍な制裁をあまんじてうけいれなければならなかった地点にたちもどることができた。
しかし――矮小で臆病者のぼくを、尾根から突き落したHの率いる勇壮な少国民である級友たちの誇りある戦場行軍の列は乱れていた。肉体鍛練の領域はみるも無惨な死者たちのよこたわる黄泉の国となっていた。
うめく声。苦痛にゆがんだ顔。変色した皮膚。噛みつくような歯ぎしり。どうしたんだ。なにがあったのだ。空襲だ。きっと、鬼畜米英の空軍が爆弾を落としたのだ。しかし、飛行機の影もなく、しだいに空は明るくなる。ぼくが級友たちの方に近寄っていくと災禍をまぬがれたものたちが、茫然自失といった、まだ自分たちが焼け焦げることもなく生きているという恩恵にひたる喜びをしらぬげにたちつくしていた。渦を巻きながら遠ざかる雷雲を背景にして、彼らは、黒く朽ち果てた杭の羅列、あるいは倒木のようにみえた。
ぼくが、さらに対象をよりよく見定めようと前かがみになると、集団疎開の奥村が、鏡の中を覗きこむような眼差しでぼくを見つめてきた。
マグロ、おまえ、無事だったのか?
Hによってつけられたあだ名で呼びかけられ、ぼくは小石をたたきつけられたように、こころが砕けるのを感じた。しかしぼくは応じないわけにはいかない。
ああ、崖の下に落ちていたんだ。
それでたすかったんだ。落雷があった。おまえのいた後のほうのものはみんな雷に打たれた。いまHが学校へ急報するために走って行った。
奥村の指さす方角、はるか山裾の、ようやく陽のてりだした道を、まだ暗く陰っている部分にある校舎めざしてHがあやつり人形のようにぎくしゃくした動作で遠ざかっていくのがみえた。
あいつ、まるで逃げていくみたいだ。おれたちを置きざりにして逃げていくみたいだ。そういってしまうと、いままであれほど怖れていたHがけっしてぼくの死刑執行人ではなく、不潔で歪んだ欲望の権化、忌むべきただの男におもえてくるのだった。
それからぼくはもう動かなかった。友だちの顔をひとりひとり確かめ、五人の級友がこの世界に肉体はまだ留まっているのに、魂はどこかはるか彼方、たとえば雷雲の去った晴天の空間を飛翔して二度ともどっとこない彼岸へ去っていったのだと悟った。
だがしかし、ぼくは、彼らはけっして死ぬことはなく、ぼくがさきほど落ちこんだ海のような処を漂い、音樂教師のYや朝鮮人の青年と波にたわむれ、体をこすりあわせ、快楽の叫びをあげたりして生きつづけているのだ、という幻想にとらわれた。
現実世界にもどれたぼくは、……Hの指の跡があざやかな小さな珊瑚の色と形をともなってほほに残り、それがいつになっても消えないのではないかという不安と戦いながら生きつづけなければならなかった。
再録です。
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