田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

4 ロープ 麻屋与志夫

2022-12-09 09:32:46 | 超短編小説
4  ロープ  
幼い知覚のなかでぼくらがそだてあげた幻影の群にあって、ひときわ神秘的で残酷な光景にいろどられている、木立の葉ごもりで朝鮮人部落のひとびとが屠殺する牛。
幻影におびやかされたあげく、ぼくらはそれを実在の空間でたしかめようとしていた。

――すでに犠牲となったものたちの白骨が累々とちらばっている森への冒険にでかけよう。
その信憑性を確認しようとしてN建設所有の材木置場にひそかにつくりあげた<そうくつ>に集合したその夜になって、部落のの若者が流言蜚語、ひとびとの戦争への確固たる勝利の信念をゆさぶるような攪乱的活動をして憲兵に射殺されたことが知らされた。

だが、彼は即死ではなかった。ぼくに医学の知識があれば、あるいは彼が傷ついていることをもっとはやく察知できていれば……彼は死ななくて済んだかもしれない。

その事件の後なので、ぼくらの夜の計画に対する意見は二つにわかれてしまった。

計画実施を固執するものと、さきに延ばそうというもの。
予期しなかった出来事のため、ぼくらが時間どおりに出発できなくなってしまったことは、否むすべもなかった。

それでも目前にちらつく巨大な牛であった白骨の造形する形状を想定する。
あるいは不断の崩壊へと転落していく瞬間の崖で――いままさに殺されようとする牛が月にむかってほえる絶叫が、ぼくの病む耳にひびきわたる。

戦争には負ける。
食糧がもうない。
テッちゃんの父ちゃんが玉砕した。
などという流言蜚語に病む耳をもつぼくは、どうしても出発しようと、延期には反対者としての位置をゆずろうとはしないものたちのなかにいた。

部落の若者が射殺されるような事件の突発したあとではたぶん、牛を殺す祭儀も、とりおこなわれることはないだろうというのが、出発を逡巡するものたちおおかたの意見だった。

強制立退をいいわたされた家々の柱なのだろうか、落書きがしてあつたり、刃物の上痕のある光沢をおびた古材の上に腰をおろしていたぼくらの〈上官〉が柄にもなく、互いに対立している言葉のゆがみの沼に鉛測を垂れ測定でもするような顔をしていたが、別個の考えを披瀝する。
彼が上官の地位を獲得することができたのは、ぼくらのなかにあつて、まさしく申し分のない円筒状の男根をもち、未開人のようになんの恥じらいもなくそれを勃起させる特技と、あまつさえ、白濁した精液を上空をいくB29にむかって発射させる勇気をもちあわせていたからだった。

国民学校に駐屯している兵士たちが夜になると二階の廊下に一列横隊に並ばされ、下士官がスリッパの裏側でなぐるという情報を彼は聞き込んできたのだ。

どうしてだ。
どうしてなんだ。

黒々と窓ガラスに映った兵士たちの上半身が強打をあびてゆらぐさまを、兵士の顔をよぎる怖れをすでに眼交にしている錯覚にとらわれてぼくは聞き返していた。

理由なんかあるもんか。
それはどうでもいいことなんだ。
あいつら、下級の兵士をしごくことが習慣になっているんだ。
要するに、夜ごとにスリッパの連打を彼らにあびせる。
軍人精神をたたきこむ。
それで充分すぎるくらいな理由になるんだ。

ただひとりの中学生である彼は教練の時間にでも学んだにちがいない指導者的観念について説明する。
ぼくらは上官にしたがうことを余儀なくされた。
ぼくらの予定は不意に変更されることになる。
中庭にある温室のかたわらの灌木類の茂みに潜んでぼくらは陰湿な遊戯のためにすでに甘酢っぱい唾液をなんども飲みこんでいた。
みんなが身体をひきしめているのが感じられる。
閉ざされた窓には、ときおり、黒く巨大な影があらわれる。
その大きさは、光の屈折のためとわかっていたが、ぼくらは怖れのために震えていた。

はじまるぜ。
いまにはじまるぜ。

実証主義者であるぼくらの上官は、彼のいったことが証明されるときを待つあいだも、そう独白しつづけた。
彼はぼくの脇にいた。
周囲はすでに暗くなっていた。
凝視しても彼の表情はよくはみえなかつた。
ぼくの胸のあたりにふれている彼の腕がかすかに律動していた。
怖くて震えているのだろうか?
ぼくのところからだと二階の窓は温室の屋根にさえぎられてよくみえなかた。
窓をみあげた姿勢で、あらゆる筋肉組織をひそやかにはたらかす。
目撃者としてすこしでも有利な場所へとぼくは移動した。
この移転でぼくは温室の扉――透明ガラスをとおしてそのなかを見ることになった。
内部には温度調節のための小さな裸電球が等間隔を置いて天井からさがっていた。
それらかずかずの光の陰影の片隅になにかうごめくものがあった。
ぼくらがひそむ暗がりでは上官と友だちが、やがてはじまるはずのスリッパの一撃をうける兵士を彼らの内部に思い描いていた。
血だらけの兵士の頬を想像してさらに彼らは前進した。
しかしこのとき、温室でかすかにひとの気配がした。
そこでぼくは貪欲な好奇心にかられて地面を匍匐した。
ぼくはすでに窓をみあげてはいなかった。

だれかがいる。
だれであるかはわからないが、ガラスで密閉された温室にだれかいる。
観葉植物の時代ではなかった。
温室ではトマトゃキュウリといった野菜が栽培されていた。
棚の下に藁が敷いてあり、ぼくはその藁のなかにみた。
人間の腹部らしいものを。
それはなめらかで明かりのためか淡青色にみえた。
人間としてはみることはできなかった。
淡くなんめりとした腹部に多毛な腕がのびて、なでまわす。
下腹部。
胸の隆起。
腰。
背中。
うなじ。
人間狩だ。
だれかが人間を獲物にして狩猟をしいてるのだ。
このときになって、ぼくはからみあう二個の物体をはっきりとみとめることができた。
男は体操教師のHで、彼の肩ごしに顔をゆがめ、髪をふりみだして狂女のようにうごめいているのは集団疎開につきそってきた音楽を教えるYだった。
あんなことをしている。
あんなことをしている。
目前で公開された、はじめてみる性交のうごめき。
もっとも人間臭い儀式にぼくは立ち会わされて眩暈をおぼえた。
音楽の女教師が矮小で醜いYにおさえつけられている。
彼女の両手は彼の背を両側からささえていた。
両腕は櫂のひとかきでもするかのように動いていた。
でも、ぼくにはその動きは彼を拒んでいるように感じらけれた。
ぼくは動けなくなってしまった。
びしっという音が頭上でした。
ぼくのところからは死角になって窓はみることができない。
音はくりかえしてきこえた。
スリッパで兵士がたたかれているのだ。
上官がいつのまにか、ぼくのかたわらにいた。
彼も温室のなかの異常に気づいていたのだ。
窓をみあげていたもののなかで、怖れの叫びをあげたものがいた。
逃げろ。
上官がぼくの耳もとで囁いた。
逃げるんだ。
温室の明かりが消えた。
怖い。
怖い。
まただれか叫んでいる。
灌木の茂みに沿って、校舎のつくった影の領域をきらめく閃光のすばやさで逃亡した。
校舎の角を曲がるとき、ぼくはふりかえった。
二階の窓が開かれ兵士たちがぼくらに叫びかけていた。

夢をみた。
夢のなかでは音楽教師のYは人魚になってあらわれた。
ぬめぬめした彼女にまといつかれるのをさけるためぼくは家畜がされ白骨が散乱している森へ逃げ込んだ。
いくら人を呼んでもだれもたすけにはきてれなかった。
ぼくは人魚に殺されるはずはなかった。
彼女はぼくを恨めしそうな目でみつめた。
二つの目は海藻色をして深い情感をたたえていた。
彼女に導かれていく空間は、未知の愉楽の海につきでた岩の上、そこに横たわるのが怖かった。
彼女はYに犯されていたのだ。
それを助けようとしなかったぼくらを恨んでいる。
ぼくは岩の上で人魚に殺されると思った。

目覚めたときそうした夢のため、汗をかいていた。
ながした汗は夢のなかでのおののきのためであったが、現実性をおびた恐怖はおもいがけない方角からやってきた。
学生服につけた名札がないのだ。
昨夜、灌木の茂みを逃げるとき、もぎれたにちがいない。
道におとしたのならいいのだが。
名札のとれたあとの布地の空白が恐ろしかった。
どうしたらいいのだ。
体操教師のあいつにでもひろわれたらどうしょう。
Hに体刑をくわえられている光景を想像する。
殺されるかもしれない。
いやきっと殺される。

いつであったか、奉安殿に礼拝するのを忘れた朝、ふいにあらわれた彼は(まるでそれまでぼくの背中にへばりついてぼくを監視していたみたいだった)ぼくのほほをなぐりつけた。
やけた鉄板をおしつけられたような痛みがあった。
彼の手形をおされたようなみみずばれとなった。
三週間もひかなかった。
あいつは獣に対する調教師のようにぼくらをなぐる。
そのなぐりかたがあまりに苛烈なのですくみあがってしまう。
竹の笞で生徒をなぐりつけているうちに、笞が茶筅のように細く割れてしまったことがあった。
家に帰ってからそのことをぼくらは話すことができない。
そのことが、彼に知られるといっそう強暴な体刑がまちうけているからだ。
彼はぼくらを<しごく>ことに快楽をみいだしている。
笞をふりあげるときの彼の顔は愉楽にみちている。

あるとき、ぼくらは校庭の西の隅にある便所の掃除をしていた。
女の子たちは真剣にやっていた。
敵国の言葉は勉強する必要がないので不要となった英和辞典の薄くて上質な紙で捲いた乾燥イタドリの葉を、ぼくらはたばこのようにすっていた。
便所の裏側だった。
汚水栓の上に車座になっていた。
黄昏てきた微光のなかで汚水栓が鉄製であることにあらためて気づいたものがいた。
これらの円盤の栓もそのうち弾丸になって、鬼畜米英の兵士たちのどてっぱらにくいこむだろうなどと、和やかに話し合っていた。
敵兵の軟弱さを神かけて疑わない季節のなかにぼくらは生きていた。
たぶん、ぼくがいいだしたのではないかと思うが、Hのことが話題になった。

たしかだよ。
まちがいないったら。
いつだったか、あいつが御殿山公園を女とあるいているのみちゃったんだから。
ぼくはやせっぽちで、体操教師の発達した上半身の筋肉には劣等感を覚えていた。
彼はよくぼくをその肉体的劣勢のため、揶揄したり、いびつたりする。
そういう彼も脚は短く少し背も曲がっているので、全体的には矮小で醜かった。
体操の時間は憂鬱だった。
鉄棒にぶら下がったままで懸垂のできないぼくは、マグロのようだといわれ、なぐられる。
跳び箱がとびこせず、戦場行軍ではいつも最後尾だといってなぐられる。

そんなわけで報復の意味もふくめて、彼の噂をするのはたのしかった。
あいつは、長髪を切らずにぎとぎと銀だし油をつけているだろう。
胸のポケットには赤いハンカチなんかいれちゃってさ。
それで鼻かむから、いつも赤ッパナなんだ。
ああいうやつは、あれするのがとつてもすきなんだ。
ぼくはイタドリたばこをうけとってすいだしていた。
ぼくの提供した話にすっかり同級生が圧倒されていた。
しかしこのときもHは、まるで密告をうけてかけつけた憲兵のようにとつぜんぼくの視野いっぱいにあらわれた。ぼくはよりよくHの実像を認識するまえに草の上になげだされて意識をうしなっていた。
ぼくがなくした名札はHが拾ったにちがいない。
今度こそぼくはあいつに殺される。
そう確信していた。
ぼくは殺されるだろうということに固執した結果、翌朝になっても登校することができなかった。
ぼくは岩山へとつづくされた家畜の骨が累積されているという森のなかの小径を逍遥していた。
汗ばみながら歩きつづけていた。
すると、道のむこうから背骨が曲がった農夫が大地をなめるような姿勢のまま走ってきた。
ぼくの姿をみても農夫は声をかけてはこなかった。

道がきゆうに暗い森におちこむ。

その森のなかでもひときわ鋭く天にむかつて立つケヤキの梢に女教師が、獲物をとらえるために装填された罠に不用意にもかかってしまったという姿でロープのさきに揺らいでいた。

すっかり物体となったYはロープのさきで振り子のように揺らいでいた。

振り子が停止するまでには、まだ時間があるはずだった。

●昨日は開戦記念日でした。戦時中のことを思い、旧作を再録してみました。


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