田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

8 トマト  麻屋与志夫

2022-12-16 15:30:11 | 超短編小説
8 トマト
 ぼくは空腹ではなかった。
 宝蔵寺にいる集団疎開の友だちがたえず狂気じみた餓狼のようなあさましいうめき声あ
げていたので、彼らがぼくにしめしてくれたた優しい連帯の友情にたいしても……むくい
なければといった気持ちから、野菜畑に略奪者である彼らを案内するといった役割をひき
うけてしまったのだった。
 野生の禽獣のように食べ物をあさることにかんしては、かれらはあまにも柔弱な都会育
ちであり、たとえぼくが運動神経のにぶいため……魚屋の店頭で鉤にかれられた『マグロ』
のように鉄棒にぶざまにぶらさがったままであったり、矮小なからだのためともかくすべ
ての競技に劣性のみにくさを開示してしまうような生徒であったとしても、彼らを援助で
きないほどひ弱くはなかった。
 彼らが大挙して疎開してくるまでは、ぼくは、ともかく、朝鮮人の金とともに学級からみ
はなされた生徒だった。
 予想もしなかった彼らの到来によって、ぼくは自分より脆弱な人間のいることを知りそれが奇妙な自信の球根をぼくに植えつけたのだ。
 生命力の回生を……強固な意志力の発現を願望するあまり、ぼくはたえず彼らとの接触をたもちつづけた。彼らとつきあってさえいれば、ぼくはときおりささやかな優越感すらあじわうことができたのだ。
 集団疎開のかなでは比較的たくましい骨格をした彼らの番長、奥村に……聡明で自己犠牲の精神にとんだ彼に野菜畑に、略奪の冒険にでかける相談をうけたとき、だから胸がよろこびのためにふくらみ鼓動が高鳴るのを感じた。
 これを契機に僕はうまくいくと彼らの仲間にはいることができ、彼らが東京からもってきた本を借りることに成功するかもしれない、学級のぼくいがいの土地の子たちと決別しても結構上機嫌な生活を迎えることができるだろうと確信した。
 それにこれだけは断じてひとに語りたくないことだったが、ぼくは奥村の妹に、奧村理加に恋をしていたのだ。
 そしてそれが一番の理由だった。どんなことがあっても肌理のひきしまって……磁器のようにすべすべした肌をした、すこし首をかしげて話す癖のある彼女の顔が、飢えのためうつろな表情になるのを傍観しているわけにはいかなかった。
 際限なくおそう飢えのため……満足に体を動かすこともできず、疲れ果て……本堂の広間のひからびた畳にごごろ横臥している彼らと親密な友情の絆を確保するためといったおもてむきの理由からも、ぼくは奥村と、夜になってから樫の巨木の下でおち会った。
 あいつら……だれもおきあがってこないんだ。
 乱暴な言葉とは反対に、彼は、空腹のため横になつたままの仲間たちをどうにかしてやらなければといった使命をになつたきびしい顔をしていた。
 奥村戸だったら……おれはやる。
 どんなことでもやる。
 それでみんながたすかるんだったら……おれはやる。
 ぼくは興奮していった。
 寺の墓地と田圃との境には有刺鉄線がはりめぐらされていた。それをさけるため、崖をきりくずして構築された城壁のような墓地への険路をぼくらは進まなければならなかった。
 石段は風雨に浸食され、それが人の意志によって積みあげられたにもかかわらず、いつのころからか……自然の景物そのものと化していた。
 苔が生えていた。夜露にぬれてすべった。そのことを彼に注意しようとしたぼくの背後で、低く短い叫び声があがり、奧村の姿が消えていた。
 不安におののくぼくの視線は、石の突起にかろうじて手をかけて全身をささえている彼の宙ぶらりんな影を探しあてた。
 すばやくぼくは(自分にそうした敏捷な行動ができるのを愕きながら)南京袋を彼に投げおろした。
 蛇のようにぬめぬめする石の表に足をとられ……彼の体重を
両手にうけとめ、どうにか彼をひきあげることができた。ところで彼はすこしおこったようなこわい顔をしていた。
 耕された田野の畦道をいく。戦場にあって狙撃兵をさけるような危険な移動であった。じじつ、それまでにおおくの友だちが、農夫につかまって、酷い体罰をうけていた。農夫たちの、食糧を充分に保管している彼らがぼくらを威嚇する方法や武装のしかたには、過剰な防衛本能がむきだしにされていた。つまりは、みつかったら最後、半死半生のめにあうことは疑う余地もなかった。ぼくらはそれでも、彼らを憎しみの対象とすることはできなかった。
 小川を徒渉し、畠についた。
月は雲におおわれ、ぼくらは地面にへばりついていれば、地虫のように蠕動してすすめば目撃される懸念はなかった。
 みじめな飢えを耐えられず、人間というよりむしろ獣じみた食糧獲得本能のおもむくままに、夜の底で蠕動するぼくらの周囲にはしかし、土の臭いと川床からはねあがる魚の水をうつ音がきこえてきたりして、すっかり土がこびりついて黒くなった爪と鼻ずらをみあわせるぼくら鼓舞するのだった。
 食糧をあさる獣たちには獣たちなりのなぐさめと歓びがあるのだろうかなどと、ぼくらは小声で話しあいながら、しかし充分な注意を前方にむけて危険な前進をつづけた。
 夜のはずれで犬の遠吠えがあった。この頃になるとぼくは緊張のためぼく自身もすっかり空になった胃袋の所有者であるような妄想に悩まされ、いや飢えているのはぼく……にちがいないのだという想像にさいなまれたあげく、あらゆる感情が胃に収斂してくる。
 許しもなしに野菜畑に侵入し他者の私物であるトマト、キュウリ、南瓜、サッマ……食べられるものすべて、手あたりしだいに盗みとるぼくらの行為には躍動する筋肉の勇者らと等価のたくましさが宿り、いつか恐怖も去る
 大胆に畑のなかを跋渉する。
 供物をささげられたように……誇りと自信にみちたしぐさで……。
 ぼくらの動作がにぶくなったのは袋が重くなったという物理的理由からだった。
 ぼくはでも、さらに採食に、目標に突進する。重くなった袋をさらに重くするために。
 あまりにも安易に食糧を集めることができた。豪華な収穫に有頂天になっていては、いけなかったのだ。
 奥村とぼくは飢えたともだちに飽食の恩恵を……南京袋いっぱいの食べ物が魔法のように忽然とあらわれる奇跡を
 みせてやるために、魔術師でない凡俗の悲しさ……ただひたすら大地を這い、農産物の収集に没頭していた。
 野原で蝶の翅粉にむせぶ至福の収集家のように。
 
 おい――。もどろうか。と、奧村がいった。
 ぼくは準備してきたロープで袋の口をしっかりとゆわえた。
 こんなに収穫があるとはおもわなかった。
 マグロ、きみのおかげだよ。
 
 彼は充分なねぎらいと連帯の証のあるひびきをぼくのあだ名にこめていった。
 ぼくはそれでまんぞくだった。
 おとぎ話の王子になったようで……いい気分だった……このうえは一刻もはやく帰還しておなじ言葉を彼の妹からききたいとおもった。
 
 彼女からのやさしい言葉……ただそれをいってもらいたいという真摯で無垢な希望からぼくは彼と行動をともにしたのだった。しかし断じてそのことを彼に告白するわけにはいかなかつた。

 
 おい……もどろうか。
 ふたたび彼がくりかえしたとき、ぼくは彼の腕をひくと地面に伏せた。
 犬の吠え声が間近でした。
 農夫らしいひとかげが黒ぐろと浮かび、まったくそれは不意の出現だったので、ぼくは仰天し声もだせなかったが、信じられないほどのすばやさで彼の腕をひいて地面に伏せさせた挙措にはある種の自信があった。
 犬がいなかったなら、ぼくらはその箇所にひそんでいればよかったろうが、農夫の忠実な番犬がすでにぼくらをかぎつけてしまていた。
 低いうなり声をあげ、犬は農夫に異常事態を知らせてる。

 ぼくが……逃げる。
 ぼくがあいつらをひきつけるから……これをもって帰ってくれ。
 彼にロープのはしをもたせよと…しかしすでに奧村は聞く耳をもたなかった。
 ぼくの肩を押さえつけるように二三度たたくと、ぼくらがやってきたのとは反対の方角に向って走りだしていた。
 (どうすればいいのだ。……どうすればいいのだ)
 ぼくはやっと芽生えかけた勇者らしい自信も霧散し茫然としていたが、彼の期待と犠牲を裏切らないためにも……仕方なく重い袋をひきずりながら帰途についた。
 横になって、だがまだ寝ずに待っていた者たちは、鋭く辛辣なひんしゅくの言葉をぼくにあびせかけたが、やがて袋をとりあげると、庫裏やにさっていった。
 マグロは……兄さんを置いてひとりだけで逃げてきたのね。あんたなんかきらい。あんたはやっぱりいくじなしのマグロだわ。お魚屋さんの店先に吊るされて、宙ずりになって……出刃でそぎおとされて……血の涙を流すといいのよ。
 
 理加は残酷な目でぼくをにらみ、そう心の中でいっているようだった。
 露縁に人影がさし、あえぎながら奥村が本堂にはいってきた。
 血と土と野菜の汁が彼の体をおおっていた。
 彼女は泣きだした。ぼくは濡れた手拭を
 もってくるようにいうと、彼のよごれて、ところどころひきさかれた上着をぬがせると、畳にそっと横たえた。
 食糧は……?
 かぼそい声で彼かいった。
 ぼくがふじに彼らに渡したというと、彼は安堵の吐息をもらした。
 ありがとう。声をだしたのが……そが悪かったのか、彼は血を吐いた。
 それが熟れた赤いトマトのような形状にひろがった。
 あいつら、ひどくやりやがった。あいつら、ひどい……。
 どうして、兄をおいて逃げてきたのよ。もどってきた理加がぼくを咎めた。
 奧村はぼくをじっとみつめていた。
 妹の顔と交互に眺めながら微笑していた。
 乾きかけた血を拭きとってやながら、彼とぼくのあいだには戦いのあとの勇者同士のやさしい連帯が芽生えているのを感じた。
 隣室では、サツマが生煮えでかたすぎると、だれかが不満をもらしていた。
 ぼくはぼんやりと彼の吐いた血の跡をみおろしながら、理加の避難を甘受し、これからは夏がきてトマトの季節になっても、けっしてトマトを食べることはないだろうと思いつめていた。

 隣室ではだれかが、また、サツマのかたさに不満の声をあげていた。



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