2月14日 火曜日
超短編27(5稿) 声
声をかけられたことがあった。
それがどこから来たのか、誰の声かわからない声もあった。
「翔平。声をかけられても行っちゃダメ。もどっておいで」
「行きたいよ。向こうへいきたいよ。お花畑で呼ばれている」
「ダメ‼」
母の声はいまでも耳元にのこっている。
あのとき、誰になんと声をかけられたのかわからない。
呼びもどしてくれた母の声の記憶があるだけだ。
四歳のときだった。
母が信仰していた岩船さんの孫太郎尊の助けをかりて必死で呼びもどしてくれなかったら――。いまのわたしはない、と翔平は思っている。
木暮サーカスの女の子に声をかけられた。
「おにいちゃんとこ、あの塀のかかっている門のある家でしょう。食べ物がタントあるでしょ
う。おなか、すいているの。食べ物くれたらアタイのブランコの芸みせてあげる」
翔平はまだ小学生だった。
戦争中だった。テントのスソをめくって、ただで入れてくれた。
きらびやかな舞台衣装に着替えた少女は美しかった。
まぶしいほどきれいだった。
空中を飛び交う少女は天使のようだった。
女の子をはじめて美しいと感じた瞬間だった。
図書館の受付で声をかけられた。
「大関さんが、探していましたよ」
翔平が病気で倒れた母の看病のため東京からUターンしてきたのは昨日のことだ。
街の劇団「蟹の会」の稽古場は剣道の道場にあった。
そこで生涯を伴にする彼女に会った。
翔平は五十八歳になっていた。
信仰している岩船の孫太郎さんが祭ってある山の見える高速を走っていた。
「肝臓が悪い。診察をうけろ」
声がどこからともなく降ってきた。
発見が早かった。
登山者に声をかけられた。
「まだ、このさきだいぶありますよ。鎖場もあるし」
暗に、妻との鳴虫山の登山を戒められている。
そう直感した。
日光警察の脇の『鳴虫山登山口』という標識に誘われた。
何げなく登りだした山道だった。
濃いピンクのヤシオツツジの群落をみて、妻が興奮してよろこんでいた。
いますこし、あと一歩と歩いてきた。
ゴツゴツと地表に絡み合う黑ぐろとした樹の根を避けて歩くのがたのしかった。
つい山深くまで、きてしまった。
男はひかえめに忠告してくれている。
登山用のバックを背負い、靴、手袋、帽子どうみても装備が整っていた。
妻はコンビニにお惣菜でも買いに出かけてきた。そうした軽装だった。
翔平にいたっては、なにも手にしていない。
男は、この山を知り尽くしている様子だった。
両手にトレッキングポールを、巧みについて遠ざかっていった。
山の樹木の密生した道には、街のそれより早く夕暮れが訪れるだろう。
すぐに引き返すことにした。
帰路。木の根を避けてとおるのが困難になっていた。
ゴツゴツした木の根を踏みしめて登るのがあんなに楽しかったのに。
足をとられて転びそうになる。
このとき、頭上に羽音がした。
巨大な羽根が空気をたたいている。
大鴉だ。巨大な羽根でホバリングしている。
こちらを見下ろしている。
品定めしているのだ。
アイッは、悪魔だ。
岩に生えた苔の上にのり足をすべらせた。
谷に落ちそうになった。
妻がすさまじい悲鳴をあげた。
あのまま、滑落していたら――。
翌日の朝日新聞。北海道で遭難事故死した老人がいた。
翔平と一字ちがいの名前だった。テレビで『デスノート』がはやっていた。
悪魔が一字まちがえてくれた。まかり間違えば、死んでいたのは――。
翔平は七〇歳の時の出来事だった。
若死にするだろうといわれていたのに九十歳まで生きている。
杖をつくようになった。
歩道には雨水の流入のための小さな穴がいくつもあけてある。
グレーチング(鉄格子)の穴も危険だ。
杖の先がはいると転んでしまう。
転ぶとひとりでは起き上がれない。
注意して足元を見ながら、うつむいて歩いている翔平の頭上に男の子の声がかぶさった。
「こんにちわ」
トラックの急ブレーキの音。
悲鳴。
衝突音。
走ってきた軽トラックはまだ前方に走りづけていた。
こんにちは、と杖をついた翔平に声をかけてくれた少年は即死だろう。
姿はみえない。
アスファルトの車道ではカラカラと自転車の車輪がまわっている。
それは一刻もはやく先に進もうとしていた少年の意志がのりうつっているようだった。
赤い車体の自転車はもはや屑鉄。道路に散乱している。
じぶんの足元ばかり気にしていた。
信号を無視して車道に飛びだす少年に声をかけられなかった。
いままで、幾多の困難に直面した。
そのつど、天の声のように声をかけてくれたひとびと。
おおくのひとに助けられてこの年まで生きてこられた。
翔平はじぶんがだれの助けにもなっていない。
そう……そう反省する。
自責の念にかられた。
涙がほほを伝っている。
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声をかけられたことがあった。
それがどこから来たのか、誰の声かわからない声もあった。
「翔平。声をかけられても行っちゃダメ。もどっておいで」
「行きたいよ。向こうへいきたいよ。お花畑で呼ばれている」
「ダメ‼」
母の声はいまでも耳元にのこっている。
あのとき、誰になんと声をかけられたのかわからない。
呼びもどしてくれた母の声の記憶があるだけだ。
四歳のときだった。
母が信仰していた岩船さんの孫太郎尊の助けをかりて必死で呼びもどしてくれなかったら――。いまのわたしはない、と翔平は思っている。
木暮サーカスの女の子に声をかけられた。
「おにいちゃんとこ、あの塀のかかっている門のある家でしょう。食べ物がタントあるでしょ
う。おなか、すいているの。食べ物くれたらアタイのブランコの芸みせてあげる」
翔平はまだ小学生だった。
戦争中だった。テントのスソをめくって、ただで入れてくれた。
きらびやかな舞台衣装に着替えた少女は美しかった。
まぶしいほどきれいだった。
空中を飛び交う少女は天使のようだった。
女の子をはじめて美しいと感じた瞬間だった。
図書館の受付で声をかけられた。
「大関さんが、探していましたよ」
翔平が病気で倒れた母の看病のため東京からUターンしてきたのは昨日のことだ。
街の劇団「蟹の会」の稽古場は剣道の道場にあった。
そこで生涯を伴にする彼女に会った。
翔平は五十八歳になっていた。
信仰している岩船の孫太郎さんが祭ってある山の見える高速を走っていた。
「肝臓が悪い。診察をうけろ」
声がどこからともなく降ってきた。
発見が早かった。
登山者に声をかけられた。
「まだ、このさきだいぶありますよ。鎖場もあるし」
暗に、妻との鳴虫山の登山を戒められている。
そう直感した。
日光警察の脇の『鳴虫山登山口』という標識に誘われた。
何げなく登りだした山道だった。
濃いピンクのヤシオツツジの群落をみて、妻が興奮してよろこんでいた。
いますこし、あと一歩と歩いてきた。
ゴツゴツと地表に絡み合う黑ぐろとした樹の根を避けて歩くのがたのしかった。
つい山深くまで、きてしまった。
男はひかえめに忠告してくれている。
登山用のバックを背負い、靴、手袋、帽子どうみても装備が整っていた。
妻はコンビニにお惣菜でも買いに出かけてきた。そうした軽装だった。
翔平にいたっては、なにも手にしていない。
男は、この山を知り尽くしている様子だった。
両手にトレッキングポールを、巧みについて遠ざかっていった。
山の樹木の密生した道には、街のそれより早く夕暮れが訪れるだろう。
すぐに引き返すことにした。
帰路。木の根を避けてとおるのが困難になっていた。
ゴツゴツした木の根を踏みしめて登るのがあんなに楽しかったのに。
足をとられて転びそうになる。
このとき、頭上に羽音がした。
巨大な羽根が空気をたたいている。
大鴉だ。巨大な羽根でホバリングしている。
こちらを見下ろしている。
品定めしているのだ。
アイッは、悪魔だ。
岩に生えた苔の上にのり足をすべらせた。
谷に落ちそうになった。
妻がすさまじい悲鳴をあげた。
あのまま、滑落していたら――。
翌日の朝日新聞。北海道で遭難事故死した老人がいた。
翔平と一字ちがいの名前だった。テレビで『デスノート』がはやっていた。
悪魔が一字まちがえてくれた。まかり間違えば、死んでいたのは――。
翔平は七〇歳の時の出来事だった。
若死にするだろうといわれていたのに九十歳まで生きている。
杖をつくようになった。
歩道には雨水の流入のための小さな穴がいくつもあけてある。
グレーチング(鉄格子)の穴も危険だ。
杖の先がはいると転んでしまう。
転ぶとひとりでは起き上がれない。
注意して足元を見ながら、うつむいて歩いている翔平の頭上に男の子の声がかぶさった。
「こんにちわ」
トラックの急ブレーキの音。
悲鳴。
衝突音。
走ってきた軽トラックはまだ前方に走りづけていた。
こんにちは、と杖をついた翔平に声をかけてくれた少年は即死だろう。
姿はみえない。
アスファルトの車道ではカラカラと自転車の車輪がまわっている。
それは一刻もはやく先に進もうとしていた少年の意志がのりうつっているようだった。
赤い車体の自転車はもはや屑鉄。道路に散乱している。
じぶんの足元ばかり気にしていた。
信号を無視して車道に飛びだす少年に声をかけられなかった。
いままで、幾多の困難に直面した。
そのつど、天の声のように声をかけてくれたひとびと。
おおくのひとに助けられてこの年まで生きてこられた。
翔平はじぶんがだれの助けにもなっていない。
そう……そう反省する。
自責の念にかられた。
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