(01)
①「Only A is B.」
①「AはBであり、A以外はBでない。」
といふ「命題」を、
①「排他的命題(Exclusive proposition)」といふ。
従って、
(01)により、
(02)
①「商王は、婦言だけを用ひる。」
②「商王は、婦言を用ひ、婦言以外を用ひない。」
に於いて、
①=② は、「排他的命題」である。
然るに、
(03)
(3)今商王受、惟婦言是用。(書経、牧誓)
〔いま商王受は、これ婦言をこれ用ふ。〕
〔「受」は、商の紂王の名、この「惟」は、その次の「婦言」を強調しているのである。〕
「惟」と「唯」
「惟」は、《書経》の〈商周書〉にきわめて多く用いられており、総字数に対して、二.五%強の高い使用率のものであったのであるが、春秋以降には、次第に用いられなくなっている。しかし、この強調する語気の「惟」は、次第に、専一・単独などの意味を表わす副詞として用いられるようになり、多く「唯」と書かれるようになっている。それで右の例(3)の「惟」は「タダ」と読んでいる人もある。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、309・310頁)
然るに、
(04)
【唯】[二]ヰ、ユイ
[二]① ただ。ひとり。限定の助辞、惟・維に通ず。② これ。發語の助辭、惟・維に通ず。
(参照、大修館、漢和大辞典デジタル版)
従って、
(01)~(04)により、
(05)
③ 今商王受、惟婦言是用。
といふ漢文に於ける「惟(強調の語気詞)」は、「唯(only)」といふ「副詞」と、「区別」が付かない。
然るに、
(01)(05)により、
(06)
③ 今商王受、惟婦言是用。
といふ漢文に於ける「惟(強調の語気詞)」は、「唯(only)」といふ「副詞」と、「区別」が付かない。
といふことは、
③ 今商王受、惟婦言是用。
に於いて、
③「婦言」を「強く発音」すると、「排他的命題」になる。
といふ、ことである。
然るに、
(07)
④ これを下さい。
といふ場合に、
④ 敢へて、「これを」を「強く発音」すれば、するほど、
④ これが欲しいのであって、これ以外は要らない。
といふ「意味(排他的命題)」になる。
従って、
(06)(07)により、
(08)
「漢文」であっても、「日本語」であっても、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
然るに、
(09)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(09)により、
(10)
① 私が(濁音)
② 私は(清音)
に於いて、
① の「心理的な音量」の方が、
② の「心理的な音量」よりも「大きい」。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
① 私が(濁音)理事長です。
② 私は(清音)理事長です。
に於いて、
① 私以外は理事長ではない。
といふ「排他的命題」を「主張」し得るのは、
①「心理的な音量」が「大きい(強い)」所の、
① 私が(濁音)理事長です。
である。
といふ、ことになる。
然るに、
(12)
① 私以外は理事長ではない。
といふ「排他的命題」の、「対偶(Contraposition)」は、
② 理事長は私です。
である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① 私が(濁音)理事長です。
といふ「命題」が、実際に、
① 私以外は理事長ではない。
といふ「排他的命題」であるならば、
② 理事長は私です。
といふ「逆命題」も、「真」でなければ、ならない。
然るに、
(14)
「逆は必ずしも真ならず(the reverse is not always true)。」
である。
従って、
(13)(14)により、
(15)
① 私が(濁音)理事長です。
といふ「命題」が、実際に、
① 私以外は理事長ではない。
といふ「排他的命題」であるならば、そのときに限って、
② 理事長は私です。
といふ「逆命題」も、「真」である。
然るに、
(16)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事長です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(15)(16)により、
(17)
いづれにせよ、
① 私が(濁音)理事長です。
といふ「命題」は、実際に、
① 私以外は理事長ではない。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(18)
私が理事長です。(理事長は私です)
のように、ガの文がいわばハを内蔵していることがあるから、その説明が必要である。このような「私が」強声的になっていると言うことにする。そこに発音上のストレスを与えたのと似た効果を持っているからである(三上章、日本語の論理、1963年、106頁)。
従って、
(11)(18)により、
(19)
① 私が(濁音)理事長です。
② 私は(清音)理事長です。
に於いて、
① 私以外は理事長ではない。
といふ「排他的命題」を「主張」し得るのは、
①「心理的な音量」が「大きい(強い)」所の、
① 私が(濁音)理事長です。
である。
といふ、ことになるものの、その一方で、
①「私が」強声的になっている。
といふことは、三上先生自身が、認めてゐる。
従って、
(11)(15)(16)(19)により、
(20)
① 私が(濁音)理事長です。
② 私は(清音)理事長です。
に於いて、
① 私以外は理事長ではない。
といふ「排他的命題」を「主張」し得るのは、
①「心理的な音量」が「大きい(強い)」所の、
① 私が(濁音)理事長です。
であって、尚且つ、
① 私が(濁音) は、「強声的」であって、尚且つ、
① 私が(濁音)理事長です。
といふ「命題」は、
① 私以外は理事長ではない。
である。といふことを、三上先生は、認めてゐる。
従って、
(20)により、
(21)
① 私が(濁音)理事長です。
② 私は(清音)理事長です。
に於いて、
① 私が(濁音) は、
② 私は(清音) に対する、「心理的な音量差」による「強調形」であって、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
といふことは、三上先生は、「気が付いてはゐなく」とも、「認めて」ゐる。
ところで、
(22)
「ある部分」を「強調する」といふことは、
「その部分」を「他の部分」よりも、「目立たせる」ことである。
然るに、
(23)
「通常の語順」を取らないのであれば、
「その語順」は、「他の語順」よりも、「目立つ」ことになる。
然るに、
(24)
③ Do you wnat what? ではなく、
③ What do you want? である。
然るに、
(25)
例 1 Who do you love?
という文 1 は動詞 love の前に who と you とい二つの名詞がきていて英語の文法 SVO に則っていない。ところが,例えば
例 2 you love who?
という文があったとする。この文は SVO という形になっているので英語の文法に則っている。例 2 を深層構造という。
2.2 wh–移動
例 1 と例 2 とは同じ文の異なる側面を表していると考える。英語には,who,what などの疑問文では疑問詞が表層構造では文の先頭になければならないという性質がある。
つまり,深層構造では文の先頭にはない疑問詞が表層構造では文の先頭に移っているということで,「移動」という変形規則を持っていることになる。これを wh–移動という1。
(生成文法 浅川伸一 2009 年 11 月 10 日)
従って、
(22)~(25)により、
(26)
「通常の語順」を取らないのであれば、
「その語順」は、「他の語順」よりも、「目立つ」ことになる。
といふことからすれば、
③ What do you want?
③ Whom do you love?
に於いて、
③ What
③ Whom
は、「強調形」であるに、違ひない。
然るに、
(27)
前置による強調
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置することは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁)。
従って、
(25)(26)(27)により、
(28)
「生成文法」でいふ「Wh移動」は、「漢文」にも有って、「漢文のWh移動」は、「強調形」である。
従って、
(28)により、
(29)
例へば、
③ 誰毀誰誉(誰を毀り、誰をか誉めん:論語、衛靈公、二五)。
といふ「語順」は、「漢文」でいふ「前置による強調」であって、「英語」でいふ「Wh移動」である。
然るに、
(30)
③{A、B}に於いて、
③ 誉A(Aを誉める)。
といふことは、
③ 不誉B(Bを誉めない)。
といふことである。
然るに、
(31)
③{A、B}に於いて、
③ 不誉B(Bを誉めない)。
といふことは、
③ A以外を誉めない。
といふことである。
従って、
(01)(29)(31)により、
(32)
③ 誰毀誰誉(誰を毀り、誰をか誉めん:論語、衛靈公、二五)。
のやうな、「Wh移動」は、固より、
③ 排他的命題。
を、その「答へ」として、求めてゐる。
従って、
(32)により、
(33)
③ 排他的命題。
を、その「答へ」として、求めてゐるのであれば、
③ 誰毀誰誉(誰を毀り、誰をか誉めん:論語、衛靈公、二五)。
といふ「Wh移動」自体が、
③ 排他的命題。
であることは、「当然」である。
然るに、
(08)により、
(34)
もう一度、書くものの、「漢文」であっても、「日本語」であっても、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
従って、
(33)(34)により、
(35)
③ 誰毀誰誉(誰を毀り、誰をか誉めん:論語、衛靈公、二五)。
といふ「Wh移動」は、「強調形」であって、「排他的命題」である。
といふ、ことになる。
従って、
(01)~(35)により、
(36)
要するに、「強調形は、排他的命題を、主張する。」
(01)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事長です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
然るに、
(02)
① 理事長は、私です。
② 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=② は、対偶(Contraposition)」である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 私が理事長です。
② 理事長は私です。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ であるため、
① 私が理事長です。
② 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=② である。
従って、
(03)により、
(04)
① 私が理事長です。
② 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=② であるが故に、
① タゴール記念会は、私が理事長です。
② タゴール記念会は、私以外は理事長ではない。
に於いても、
①=② である。
従って、
(04)により、
(05)
① 私が理事長です。
② 理事長は私です。
に於いて、
①=② である。
といふことが、よく知られてゐた。
といふのであれば、その時点で、三上先生は、
① タゴール記念会は、私が理事長です。
② タゴール記念会は、私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=② である。
といふことに、気付くべきであった。
といふ、ことになる。
然るに、
(06)
① タゴール記念会は、私が理事長です。
② タゴール記念会は、私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=② である。
といふことは、
① 象は、鼻が長い。
② 象は、鼻以外は長くない。
に於いても、当然、
①=② である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 私が理事長です。
② 理事長は私です。
に於いて、
①=② である。
といふことが、よく知られてゐた。
といふのであれば、その時点で、三上先生は、
① 象は鼻が長い。
② 象は鼻以外は長くない。
に於いて、
①=② である。
といふことに、気付くべきであった。
といふ、ことになる。
然るに、
(08)
① 私であるのは、私だけであるため、
① 私以外に、私はゐない。
従って、
(06)(08)により、
(09)
① タゴール記念会は、私が理事長です。
② タゴール記念会は、私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=② である。
といふことは、
③ タゴール記念会は、私と、理事長は、「同一人物」である。
といふ、ことである。
然るに、
(10)
3 つぎの相互に導出可能な結果を確立せよ(本文の(16)および(17)を参照)。
∃x{Fx&∀y(Fy→x=y)}┤├ ∃xFx&∀x∀y(Fx&Fy→x=y)
(E.J.レモン、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、1973年、215頁)
然るに、
(11)
(ⅰ)
1 (1)∃xFx&∀x∀y(Fx&Fy→x=y) A
1 (2)∃xFx 1&E
3 (3) Fa A
1 (4) ∀x∀y(Fx&Fy→x=y) 1&E
1 (5) ∀y(Fa&Fy→a=y) 4UE
1 (6) Fa&Fb→a=b 5UE
7(7) Fb A
37(8) Fa&Fb 37&I
137(9) a=b 68MPP
13 (ア) Fb→a=b 79CP
13 (イ) ∀y(Fy→a=y) アUI
13 (ウ) Fa&∀y(Fy→a=y) 3イ&I
13 (エ) ∃x{Fx&∀y(Fy→x=y)} ウEI
1 (オ) ∃x{Fx&∀y(Fy→x=y)} 13エEE
(ⅰ)
1 (1) ∃x{Fx&∀y(Fy→x=y)} A
2 (2) Fa&∀y(Fy→a=y) A
2 (3) Fa 2&E
2 (4) ∀y(Fy→a=y) 2&E
2 (5) Fb→a=b 4UE
6(6) Fb&Fb A
6(7) Fb 6&E
26(8) a=b 57MPP
26(9) a=b&a=b 88&I
26(ア) a=b 9&E
26(イ) b=b 8ア=E
2 (ウ) Fb&Fb→b=b 5イCP
2 (エ) ∀y(Fb&Fy→b=y) ウUI
2 (オ) ∀x∀y(Fx&Fy→x=y) エUI
2 (カ) ∃xFx 3EI
2 (キ)∃xFx&∀x∀y(Fx&Fy→x=y) オカ&I
1 (ク)∃xFx&∀x∀y(Fx&Fy→x=y) 12クEE
cf.
「E.J.レモン、論理学初歩」の場合は、「練習問題の解答」が載ってゐません。
然るに、
(12)
① ∀y(Fy)
② ∀x∀y(Fx&Fy)
に於いて、
①=② である。
といふことは、『全称命題は「連言」である。』といふことからすれば、「当り前」である。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
∃x{Fx&∀y(Fy→x=y)}┤├ ∃xFx&∀x∀y(Fx&Fy→x=y)
といふ「式」が、「相互に導出可能」でない。
とするならば、その方が、「不思議」である。
然るに、
(14)
それ故、正確に1つのものがFをもつといふことは、つぎのように言うことである。
(16)∃xFx&∀x∀y(Fx&Fy→x=y)
さて(16)は、実はより短くすっきりしたつぎの式と相互に導出可能なのである。
(17)∃x{Fx&∀y(Fy→x=y)}
(E.J.レモン、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、1973年、211頁)
然るに、
(15)
(22)∃x{Ix&Ox&∀y(Iy→x=y)}
― ある人はイリアスを書いた、そしてオデュッセイアを書いた、そしてさらにその人はイリアスを書いたただ1人の人である。最後の節は、
(17)∃x{Fx&∀y(Fy→x=y)}
の様式で、その人の一意性(uniqueness)を表現し、従って、確定記述(the definite description)の意味をとらえている。
(E.J.レモン、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、1973年、213頁改)
従って、
(15)により、
(16)
① 私が理事長です。
① 私以外は理事長ではない。
① 私と理事長は「同一人物」である。
といふ「日本語」は、
① ∃y[私y&理事長y&∀z(理事長z→y=z)]。
といふ「述語論理」に、相当する。
従って、
(16)により、
(17)
① タゴール記念会は、私が理事長です。
① タゴール記念会は、私以外は理事長ではない。
① タゴール記念会は、私と理事長は「同一人物」である。
といふ「日本語」は、
① ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。
といふ「述語論理」に相当する。
然るに、
(18)
1 (1)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]} A
1 (2) T会の会員a→∃y[私y&理事長ya&∀z(理事長za→y=z)] 1UE
3 (3) T会の会員a A
13 (4) ∃y[私y&理事長ya&∀z(理事長za→y=z)] 34MPP
5 (5) 私b&理事長ba&∀z(理事長za→b=z) A
5 (6) 私b&理事長ba 5&E
5 (7) ∀z(理事長za→b=z) 5&E
5 (8) 理事長ca→b=c 7UE
9 (9) ∃z(小倉z&~私z) A
ア (ア) 小倉c&~私c A
ア (イ) 小倉c ア&E
ア (ウ) ~私c ア&E
エ(エ) b=c A
アエ(オ) ~私b ウエ=E
5 (カ) 私b 6&E
5 アエ(キ) ~私b&私b オカ&I
5 ア (ク) b≠c エキRAA
5 ア (ケ) ~理事長ca 8クMTT
5 ア (コ) 小倉c&~理事長ca イケ&I
5 ア (サ) ∃z(小倉z&~理事長za) コEI
59 (シ) ∃z(小倉z&~理事長za) 9アサEE
13 9 (ス) ∃z(小倉z&~理事長za) 45シEE
1 9 (セ) T会の会員a→∃z(小倉z&~理事長za) 3ス&I
1 9 (シ)∀x{T会の会員x→∃z(小倉z&~理事長zx)} セUI
1 9 (〃)タゴール記念会は、小倉氏は、理事長ではない。 セUI
従って、
(18)により、
(19)
(1)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。然るに、
(9)∃z(小倉z&~私z)。従って、
(シ)∀x{T会の会員x→∃z(小倉z&~理事長zx)}。
といふ「推論」、すなはち、
(1)すべてのxについて、xがT会の会員であるならば、あるyは、私であって、その上、xの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yとzは「同一」である。然るに、
(9)あるzは小倉氏であって、zは私ではない。従って、
(シ)すべてのxについて、xがT会の会員であるならば、あるzは小倉氏であって、zはxの理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
従って、
(16)~(19)により、
(20)
(1)タゴール記念会は、私が理事長です。 然るに、
(2)小倉氏は私ではない。 従って、
(シ)タゴール記念会の理事長は、小倉氏ではない。
といふ「推論」は、「日本語」としても、「述語論理」としても、「妥当」である。
従って、
(17)(20)により、
(21)
(1)タゴール記念会は、私が理事長です。 然るに、
(2)小倉氏は私ではない。 従って、
(シ)タゴール記念会の理事長は、小倉氏ではない。
といふ「推論」が、「妥当」である以上、
① タゴール記念会は、私が理事長です。
② タゴール記念会は、私以外は理事長ではない。
③ タゴール記念会は、私と理事長は「同一人物」である。
④ ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。
に於いて、
①=②=③=④ である。
といふことを、「否定」することは、出来ない。
然るに、
(22)
題目に最適な名詞を、題目に最適な成分にしながら、題目でない形にすると、いわば逆をつくような格好になって、強声的になるもののようである。
だから、この効果は文の主要な部分においてしか起こらない。
タゴール記念会は、私が理事長です。
において、「私が」の強声的効果がかなり弱まっている。名詞句の内部においては、この効果は全くきえてしまう(三上章、日本語の論理、1963年、109頁)。
然るに、
(23)
題目に最適な名詞を、題目に最適な成分にしながら、題目でない形にすると、いわば逆をつくような格好になって、強声的になるもののようである。
といふ「文章」は、おそらく、一生かかっても、私には、「理解」出来ない。
然るに、
(24)
伝統的論理学を清水滉『論理学』(1916年)で代表させよう。わたしのもっているのが四十三年の第十九冊の一冊で、なお引き続き刊行だろうから、前後かなり多くの読者をもつ論理学書と考えられる。新興の記号論理学は、沢田允茂『現代論理学入門』(1962年)を参照することにする(三上章、日本語の論理、1963年、4頁)。
然るに、
(01)~(05)により、
(25)
三上先生は、「論理学の基本」である、「対偶(Contraposition)」にさへ、「注意を払はない」。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「新興の記号論理学は、沢田允茂『現代論理学入門』(1962年)を参照することにする。」
とは、言ふものの、1963年に、「日本語の論理」を上梓した時点での、三上章先生は、「記号論理学」を知ってゐた。と、言ふことは出来ない。