(01)
118 ∀x(Fx→P)┤├ ∃xFx→P
(a)
1 (1)∀x(Fx→P) A
2 (2) ∃xFx A
3(3) Fa A
1 (4) Fa→P 1UE
1 3(5) P 34MPP
12 (6) P 235EE
1 (7) ∃xFx→P 26CP
(b)
1 (1) ∃xFx→P A
2 (2) Fa A
2 (3) ∃xFx 2EI
12 (4) P 13MPP
1 (5) Fa→P 24CP
1 (6)∀x(Fx→P) 5UI
任意の対象に対して、それがFをもつならばP。
という普遍命題と、
あるものがFをもつならばP。
といふ条件法とは、
相互に導出可能である。ここで、
∀x(Fx→P)における、
∀x は、
(Fx→P)の全表現に作用を及ぼす(governs the whole expression)。
(E.J.レモン、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、1973年、161頁改)
従って、
(01)により、
(02)
① ∀x(象x→P)
に於いて、
① P=動物x
② P=∃y(鼻yx&長y)
③ P=∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)
であるとき、
① ∀x は、
① の文の全表現に作用を及ぼす。
② の文の全表現に作用を及ぼす。
③ の文の全表現に作用を及ぼす。
従って、
(03)
① ∀x(象x→Predicate)
に於いて、
① Predicate=動物x
② Predicate=∃y(鼻yx&長y)
③ Predicate=∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)
であるとき、
① ∀x は、
① の文の全表現に作用を及ぼす。
② の文の全表現に作用を及ぼす。
② の文の全表現に作用を及ぼす。
然るに、
(04)
① Predicate とは、すなはち、
① 述語 である。
然るに、
(05)
それでは、狭義の述語論理において究極的な主語となるものは何であろうか。それは「人間」というような一般的なものではない。また「ソクラテス」も述語になりうるし、「これ」すらも「これとは何か」という問に対して「部屋の隅にある机がこれです」ということができる。
そこで私たちは主語を示す変項x、yを文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、Fx はもとの文の主語に対応し、Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
従って、
(01)~(05)により、
(06)
① ∀x(象x→動物x)。
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
① ∀x(象x→
② ∀x(象x→
③ ∀x(象x→
は、「全体(the whole expressions)の主語」であって、
① 動物x)
② ∃y(鼻yx&長y)}。
③ ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
は、その、「述語(Predicates)」である。
従って、
(07)
① すべてのxについて(xが象であるならば、xは動物である)。
② すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長い)}。
③ すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長く)、すべてのzについて(zがxの鼻でないならばzは長くない)}。
に於いて、
① すべてのxについて(xが象であるならば、
② すべてのxについて{xが象であるならば、
③ すべてのxについて{xが象であるならば、
は、「全体(the whole expressions)の主語」である。
然るに、
(08)
③ すべてのxについて{xが象であるならば、
といふことは、
③ これから象についてのことを述べますよ、
といふことである。
然るに、
(09)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(06)(07)(09)により、
(10)
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
③ すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長く)、すべてのzについて(zがxの鼻でないならばzは長くない)}。
に於いて、
③ ∀x
③ すべてのxについて
のスコープは、
③ {象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
③ {xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長く)、すべてのzについて(zがxの鼻でないならばzは長くない)}。
である。
従って、
(01)(08)(10)により、
(11)
③ 象は{鼻が長い}。⇔
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。⇔
③ すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長く)、すべてのzについて(zがxの鼻でないならばzは長くない)}。
に於いて、
③ 象は
③ ∀x{象x→
③ すべてのxについて{xが象であるならば、
といふ「それ」は、
③ これから象についてのことを述べますよ、
といふ「意味」であって、その「スコープ」は、
③ {鼻が長い}。
③ {象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
③ {xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長く)、すべてのzについて(zがxの鼻でないならばzは長くない)}。
といふ「全表現(the whole expression)」である。
然るに、
(12)
学校文法は単純な英語文法からの輸入で、主語・述語関係を単純に当てはめたものだ。そのため、「象は、鼻が長い」という単純な文でさえ、どれが主語だか指摘できず、複数主語だとか、主語の入れ子だとか、奇矯な技を使う。これに対して三上は、日本語には主語はない、とする。「象は」は、テーマを提示する主題であり、これから象についてのことを述べますよというメンタルスペースのセットアップであり、そのメンタルスペースのスコープを形成する働きをもつと主張する(この場合は「長い」までをスコープとする)。また、「鼻が」は主格の補語にすぎなく、数ある補語と同じ格であるとする。基本文は述語である「長い」だけだ(三上文法! : wrong, rogue and log)。
従って、
(11)(12)により、
(13)
「三上文法!」で言ふ「主題、スコープ」とは、要するに、「述語論理」で言ふ「主語、スコープ」に、他ならない。
然るに、
(05)により、
(14)
① 象は動物である=∀x(象x→動物x)。
ではなく、
② 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
③ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
の場合は、「複数主語であって、主語の入れ子」である。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
「述語論理」を知ってゐる人間からすれば、
「学校文法は単純な英語文法からの輸入で、主語・述語関係を単純に当てはめたものだ。そのため、「象は、鼻が長い」という単純な文でさえ、どれが主語だか指摘できず、複数主語だとか、主語の入れ子だとか、奇矯な技を使う。」といふことには、ならない。