(01)
① 學而不思則罔=
① 學而不(思)則罔⇒
① 學而(思)不則罔=
① 学びて思はざれば則ち罔し=
① 学んでも、考へなければ、〔物事は〕ハッキリしない(論語、爲政、十五)。
然るに、
(02)
「而」は「&」であって、
「不」は「~」であって、
「則」は「→」であって、
① 學而不思則罔。といふ「 漢文 」は、まさに、
② 學&~思→罔。といふ「論理式」そのものである。
然るに、
(03)
「~」の「結合力」は、
「&」の「結合力」よりも強く、
「&」の「結合力」は、
「→」の「結合力」よりも強い。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 學而不思則罔。
② 學&~思→罔。
に於いて、
①=② であるならば、
①(學而不思)則罔。
②(學&~思)→罔。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
(ⅰ)
1 (1) (學&~思)→罔 A
2 (2) ~罔 A
12 (3)~(學&~思) 12MTT
12 (4) ~學∨ 思 3ド・モルガンの法則
12 (5) 學→ 思 4含意の定義
1 (6)~罔→(學→思) 25CP
7(7)(學&~罔) 7A
7(8) ~罔 7&E
1 7(9) 學→思 78MPP
7(ア) 學 7&E
1 7(イ) 思 9アMPP
1 (ウ)(學&~罔)→思 7イCP
(ⅱ)
1 (1) (學&~罔)→思 A
2 (2) ~思 A
12 (3)~(學& 罔) 12MTT
12 (4) ~學∨ 罔 3ド・モルガンの法則
12 (5) 學→ 罔 4含意の定義
1 (6)~思→(學→ 罔) 25CP
7(7)(學&~思) A
7(8)~思 7&E
1 7(9) 學→ 罔 78MPP
7(ア) 學 7&E
1 7(イ) 罔 9アMPP
1 (ウ)(學&~思)→罔 7イCP
従って、
(05)により、
(06)
①(學&~思)→罔
②(學&~罔)→思
に於いて、
①=② である。
① 学びて思はざれば則ち罔し。
② 学びて罔かざれば、則ち思ふ。
従って、
(01)(06)により、
(07)
① 学んでも、考えなければ、(物事)はハッキリしない。
② 学んでゐて、その上、(物事)がハッキリするのであれば、考へてゐる。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(08)
魯の人。孔門十哲の一人で、随一の秀才。孔子にその将来を嘱望されたが、孔子に先立って没した。顏回は名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた。その暮らしぶりは極めて質素であったという。このことから老荘思想発生の一源流とみなす説もある(ウィキペディア)。
従って、
(01)(07)(08)により、
(09)
② 顏回は、学んでゐて、その上、(物事)がハッキリしてゐるので、考へてゐる。
従って、
(04)~(09)により、
(10)
①(學而不思)則罔。
②(學&~思)→罔。
に於いて、
①=② である。
cf.
① 学びて思はざれば則ち罔し。
② 学びて思はざれば則ち罔し。
然るに、
(11)
「~」の「結合力」は、
「&」の「結合力」よりも強く、
「&」の「結合力」は、
「→」の「結合力」よりも強い。
と決めたのは、「むやみに括弧が多くなるのが、我慢できないからである(E.J.レモン)。」
従って、
(10)(11)により、
(12)
①(學而不思)則罔。
②(學&~思)→罔。
は、「普通」は、
① 學而不思則罔。
② 學&~思→罔。
といふ風に、書く。
従って、
(10)(12)により、
(13)
① 學而不思則罔。 といふ「 漢文 」は、
② 學&~思→罔。 といふ「論理式」そのものである。
然るに、
(14)
ジョ【如】[接続詞]
2もシクハ
A如シクハB [読み]AもシクハB : A・Bは体言 [訳]AあるいはB、AまたはB
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、206頁)
従って、
(14)により、
(15)
「∨(または)」=「如」である。
従って、
(05)(13)(15)により、
(16)
「計算(05)」は、
(ⅰ)
1 (1) 學而不思則罔 A
2 (2) 不罔 A
12 (3)不學而不思 12MTT
12 (4)不學如 思 3ド・モルガンの法則
12 (5) 學則 思 4含意の定義
1 (6)不罔則學則思 25CP
7(7)學而不罔 7A
7(8) 不罔 7而E
1 7(9) 學則思 8MPP
7(ア) 學 7而E
1 7(イ) 思 9アMPP
1 (ウ)學而不罔則思 7イCP
(ⅱ)
1 (1) 學而不罔則思 A
2 (2) 不思 A
12 (3)不學而 罔 12MTT
12 (4) 不學如 罔 3ド・モルガンの法則
12 (5) 學則 罔 4含意の定義
1 (6)不思則學則 罔 25CP
7(7)學而不思 A
7(8)不思 7而E
1 7(9) 學則 罔 78MPP
7(ア) 學 7而E
1 7(イ) 罔 9アMPP
1 (ウ)學而不思則罔 7イCP
といふ「計算(16)」と、「完全に、同じ」である。
然るに、
(17)
(ⅰ)
1 (1) P→Q A
2 (2) ~(~P∨Q) A
3(3) ~P A
3(4) ~P∨Q 3∨I
23(5) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
12 (8) Q 17MPP
12 (9) ~P∨Q 8∨I
12 (ア) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 29&I
1 (イ)~~(~P∨Q) 2アRAA
1 (ウ) ~P∨Q イDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨ Q A
2 (2) P&~Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P&~Q) 25RAA
7 (7) Q A
2 (8) ~Q 2&E
2 7 (9) Q&~Q 67&I
7 (ア)~(P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(P&~Q) 1367ア∨E
ウ (ウ) P A
エ(エ) ~Q A
ウエ(オ) P&~Q ウエ&I
1 ウエ(カ)~(P&~Q)&
(P&~Q) イオ&I
1 ウ (キ) ~~Q エカRAA
1 ウ (ク) Q キDN
1 (ケ) P→ Q ウクCP
従って、
(17)により、
(18)
「計算(17)」は、
(ⅰ)
1 (1) 甲則乙 A
2 (2) 不(不甲如乙) A
3(3) 不甲 A
3(4) 不甲如乙 3如I
23(5) 不(不甲如乙)而
(不甲如乙) 24而I
2 (6) 不不甲 35RAA
2 (7) 甲 6DN
12 (8) 乙 17MPP
12 (9) 不甲如乙 8如I
12 (ア) 不(不甲如乙)而
(不甲如乙) 29而I
1 (イ)不不(不甲如乙) 2アRAA
1 (ウ) 不甲如乙 イDN
(ⅱ)
1 (1) 不甲如 乙 A
2 (2) 甲而不乙 A
3 (3) 不甲 A
2 (4) 甲 2而E
23 (5) 不甲而甲 34而I
3 (6)不(甲而不乙) 25RAA
7 (7) 乙 A
2 (8) 不乙 2而E
2 7 (9) 乙而不乙 67而I
7 (ア)不(甲而不乙) 29RAA
1 (イ)不(甲而不乙) 1367ア如E
ウ (ウ) 甲 A
エ(エ) 不乙 A
ウエ(オ) 甲而不乙 ウエ而I
1 ウエ(カ)不(甲而不乙)而
(甲而不乙) イオ而I
1 ウ (キ) 不不乙 エカRAA
1 ウ (ク) 乙 キDN
1 (ケ) 甲則 乙 ウクC甲
といふ「計算(18)」と、「完全に、同じ」である。
従って、
(17)(18)により、
(19)
① 甲則乙(甲ならば、乙である)。
② 不甲如乙(甲でないか乙である)。
に於いて、
①=② であって、この「等式」を「含意の定義」といふ。
従って、
(01)~(19)により、
(20)
「漢文」といふ「集合」は、「命題論理」を、その「部分集合」として、含んでゐる。
従って、
(21)
明治以前の日本人は、漢文を読むことで論理的な考えを身につけました。漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからです(山下正男、論理的に考えること、1985年、ⅲ)。
といふ「言ひ方」は、「正しい」。
従って、
(20)(21)により、
(22)
「中国語」は学んでも、「漢文」を学ぼうとしない、令和時代の日本人が、明治以前の日本人よりも、「論理的に考えること」が苦手であることは、「已むを得ない」。