「~ぽい」という接尾語を最近は全く使わなくなった。子供のころ、あの電球は「青っぽく見える」とか、夕日に照らされた岩が「赤っぽい」という表現はしたと思うが、今のように「何とかの建物っぽい」とか「電車っぽい」などという訳の分からぬ使い方はした経験はない。
電球の灯りが青く感じるとか、夕陽で岩が何となく赤く見えるというように非常に緩やかな表現だったように覚えている。私は言語学者でも、それを趣味として研究している者でもないが、最近の日本語は非常に乱れていると感じる。
「東京弁は標準語ではない。あくまでも東京地方の方言である」と云う人がいる。それに異議を唱える気はない。而し、東京弁、或いは東京風の言葉を話すなら正確に話して頂きたいものだ。
見たこともないようなお笑いのタレント(?)がやたらと、東京弁を真似たいのか「ぽい」を使う。非常に聞き辛い。以前にも書いたと思うが「~して貰ってもいいですか」と最近ではテレビのアナウンサーまで使い、その「ぽい」まで使う。
NHKは全て標準語を使うと云っているが、明日を「あす」と云わせているのはどうしてか?「あした」と云う気象予報士がいたが、それをNHKは「あす」と云わせるようにした。TBSの予報士に「あした」で通している人がいる。而し、TBSはそれを無理に直させない。先にも述べたように私は言語学者ではないが、東北地方全般の方言で、「あした」を「あすた」と云っている、それが「あす」になったのではないか?福島県に疎開していた時「あすあさ」と云われた時、しばらく経ってから「あしたの朝」であると理解したことがあった。それ以来、私は「あす」は方言であると思っている。私の周囲には「あした」を「あす」と云う人は誰もいない。
TBSの気象予報士は「あした」と云い、同じ番組に出ているアナウンサーが「あす」と云っている。非常に自然だと思う。NHKだって、出演者に無理に「あす」と云わせなくてもいいのではないかと思う。
久しぶりに裏の団地の花壇に行ったが、是非にも撮りたい花は殆どなかった。而し、気ままに散歩するニャンコロに出会ったことで気分は和んだ。






電球の灯りが青く感じるとか、夕陽で岩が何となく赤く見えるというように非常に緩やかな表現だったように覚えている。私は言語学者でも、それを趣味として研究している者でもないが、最近の日本語は非常に乱れていると感じる。
「東京弁は標準語ではない。あくまでも東京地方の方言である」と云う人がいる。それに異議を唱える気はない。而し、東京弁、或いは東京風の言葉を話すなら正確に話して頂きたいものだ。
見たこともないようなお笑いのタレント(?)がやたらと、東京弁を真似たいのか「ぽい」を使う。非常に聞き辛い。以前にも書いたと思うが「~して貰ってもいいですか」と最近ではテレビのアナウンサーまで使い、その「ぽい」まで使う。
NHKは全て標準語を使うと云っているが、明日を「あす」と云わせているのはどうしてか?「あした」と云う気象予報士がいたが、それをNHKは「あす」と云わせるようにした。TBSの予報士に「あした」で通している人がいる。而し、TBSはそれを無理に直させない。先にも述べたように私は言語学者ではないが、東北地方全般の方言で、「あした」を「あすた」と云っている、それが「あす」になったのではないか?福島県に疎開していた時「あすあさ」と云われた時、しばらく経ってから「あしたの朝」であると理解したことがあった。それ以来、私は「あす」は方言であると思っている。私の周囲には「あした」を「あす」と云う人は誰もいない。
TBSの気象予報士は「あした」と云い、同じ番組に出ているアナウンサーが「あす」と云っている。非常に自然だと思う。NHKだって、出演者に無理に「あす」と云わせなくてもいいのではないかと思う。
久しぶりに裏の団地の花壇に行ったが、是非にも撮りたい花は殆どなかった。而し、気ままに散歩するニャンコロに出会ったことで気分は和んだ。





