マーシーのソロはどれも大きなものに対する怒りのようなものに満ち溢れていた。
でもギターを演奏しながら歌うマーシーはとてもお茶目で楽しそうだ。
政治だとか社会だとか大人だとか、学校だとか会社だとか、私はそういうものに強い憤りを感じたことがない。
順応することで面倒を避けてきたつもりだし、そもそも憤りを持つほど私は私の中に基準がなくて、大人が言うことは何の疑いもなく正しいのだろうと思っていた。
いや、正しいかどうかも基準がなかったわけだからわからなかった。
ただある程度世間的に統合されていることだけが私のプロテクターであったのだと思う。
とても未成熟で不安定な青春期に、そういった強い憤りを持っていることは大変だろうなあと想像する。
そのやり場をアートの方向に解放させることが出来る人というのは、とても尊敬するしたぶんラッキーだとも思う。
人の中の何かを解放させる手段として、芸術やアートはあるのだろうか。
口語的に言い尽くしがたいこと、あるいは言葉にならない何か、を表現するために他の何かを形作る。
そこには「自由」が在って、現実と非現実を混在させることも、時間軸をずらすことも、内なる恥ずかしさや激しさや汚さを爆発させることもできる。
それを本人の思うように形作れるかは、その方法の技量にもよるが。
一旦一つの作品となってしまえば、それらはアートとして一人立ちする。
つまりアートに思いを乗せることは、普段の世間的な自分や本質的な自分と乖離しているように見せかけることが可能だと思う。
単純に思うことの爆発、というのもアートとしてあるとは思うが、そういうものばかりではないのではないだろうか。
普段他人の目線を大いに気にしているからこそ、思いをアートに隠して代弁させているようなものも多いような気がする。
それは特に、一般的にきれいでないような思いを持っているとき。
この場合、どこが本質なのかを煙に巻いて、とりあえず思いを解放させることに目的がある。
ただ、アートは言葉のように記号的ではないので一義的な見方はあり得ず、解釈は受け手側に委ねられる。
もっとも言葉は同言語を使う者においては共有されていて記号的であるとはいえ、これはこれで解釈は非常に困難なものだけれど。
人のためなどない、とわかっていながらも、時々言い訳のようにそれを忘れてしまう。
愚痴をこぼしていると、それをまっすぐ教えてくれる人がいる。
一番痛いところを突かれて、ウッとなりながらもまさにその通りでしかないことも自分で認識する。
今、私は私の過渡期にいて、そろそろ落ち着きたいを取り戻したいと思う一方、まだ時間がかかりそうであることも自分でわかる。
過渡期の自分はそれなりに大変ではあるものの、過渡期でないと持てないエネルギーや興奮があったりするからプラスを最大に楽しむということを心がけていたい。
あとは、手を広げておくこと、基本的に前を向くこと、明るい方を見ること、深呼吸すること。
卑屈になることは簡単で、しかしそれでは何も好転はしない。
依存することは簡単で、しかしそれは他人に責任転嫁することに等しい。
悲劇のヒロインになることは簡単で、しかし私は喜劇のヒロインになりたい。
でもギターを演奏しながら歌うマーシーはとてもお茶目で楽しそうだ。
政治だとか社会だとか大人だとか、学校だとか会社だとか、私はそういうものに強い憤りを感じたことがない。
順応することで面倒を避けてきたつもりだし、そもそも憤りを持つほど私は私の中に基準がなくて、大人が言うことは何の疑いもなく正しいのだろうと思っていた。
いや、正しいかどうかも基準がなかったわけだからわからなかった。
ただある程度世間的に統合されていることだけが私のプロテクターであったのだと思う。
とても未成熟で不安定な青春期に、そういった強い憤りを持っていることは大変だろうなあと想像する。
そのやり場をアートの方向に解放させることが出来る人というのは、とても尊敬するしたぶんラッキーだとも思う。
人の中の何かを解放させる手段として、芸術やアートはあるのだろうか。
口語的に言い尽くしがたいこと、あるいは言葉にならない何か、を表現するために他の何かを形作る。
そこには「自由」が在って、現実と非現実を混在させることも、時間軸をずらすことも、内なる恥ずかしさや激しさや汚さを爆発させることもできる。
それを本人の思うように形作れるかは、その方法の技量にもよるが。
一旦一つの作品となってしまえば、それらはアートとして一人立ちする。
つまりアートに思いを乗せることは、普段の世間的な自分や本質的な自分と乖離しているように見せかけることが可能だと思う。
単純に思うことの爆発、というのもアートとしてあるとは思うが、そういうものばかりではないのではないだろうか。
普段他人の目線を大いに気にしているからこそ、思いをアートに隠して代弁させているようなものも多いような気がする。
それは特に、一般的にきれいでないような思いを持っているとき。
この場合、どこが本質なのかを煙に巻いて、とりあえず思いを解放させることに目的がある。
ただ、アートは言葉のように記号的ではないので一義的な見方はあり得ず、解釈は受け手側に委ねられる。
もっとも言葉は同言語を使う者においては共有されていて記号的であるとはいえ、これはこれで解釈は非常に困難なものだけれど。
人のためなどない、とわかっていながらも、時々言い訳のようにそれを忘れてしまう。
愚痴をこぼしていると、それをまっすぐ教えてくれる人がいる。
一番痛いところを突かれて、ウッとなりながらもまさにその通りでしかないことも自分で認識する。
今、私は私の過渡期にいて、そろそろ落ち着きたいを取り戻したいと思う一方、まだ時間がかかりそうであることも自分でわかる。
過渡期の自分はそれなりに大変ではあるものの、過渡期でないと持てないエネルギーや興奮があったりするからプラスを最大に楽しむということを心がけていたい。
あとは、手を広げておくこと、基本的に前を向くこと、明るい方を見ること、深呼吸すること。
卑屈になることは簡単で、しかしそれでは何も好転はしない。
依存することは簡単で、しかしそれは他人に責任転嫁することに等しい。
悲劇のヒロインになることは簡単で、しかし私は喜劇のヒロインになりたい。
