つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

色と花と色と花

2012-07-25 21:41:37 | 日記
Facebookに溜め込んでいた写真をアップした。
携帯のカメラで撮った花の写真は今はマイクロSDカードとドロップボックスへの同期で保存をしている。
自分が写った写真はどこにあるのかも知れず、過去のものを見返したこともほとんどないのだが、花の写真だけは暇なときに見てはひとりうっとりしてしまう。

今回は抜粋集を作りたくてアップをした。
抜粋集といっても、さほど抜粋にはならなかったが。
いまいちFacebookとの馴染み方がわからなかったが、Facebookは写真アップ制限がないようで、ここにアップしておけばドロップボックスよりも都合よく見られる。

あと思わず一言コメントしておきたくなる花の写真があるから、そういうのことにもFacebookは適しているようだ。

また天地を全く気にしない写真たちをせっせとアップする。
自分で「いいね!」する場所ではないことはわかっているが、私はひとり「いいね!」だ。


RADWIMPSやRADIOHEADを聞いてなんだか落ち着かなくなったり、悲しくなったりしてしまうのは彼らの憂いが外に向いているからなんだと思う。
というか外的要因の憂いを歌っているからなんだと思う。

彼らがあの表現をしたということはおそらく、最も深いカオスは抜けたということなのだろうが、同じような憂いを持っている人がこれらを聞くことによって安心感を与えることもあり得ると思う。
そしてそれがいいことなのかどうかは捉え方次第だ。
もちろん、音がいいとか演奏が上手いとか声が好きとか聴き方は色々とある。
もちろん、私のように感じない人もたくさんいる。
だからあくまで今の私が聴いての個人的な感想にすぎないし、わかったりわからなかったり、それでも妙に入ってきてしまうことを認めつつ、私はこれ以上彼らの歌を取り入れることはしないだろう。
音楽というのは、音である分、受動的である分、体に取り込まれて影響を及ぼしやすい。

ここからは彼らの曲には関係ない。

どうにもならないことに対して、何か抽象的なもの、例えば社会、に鬱憤を撒き散らすことも卑屈になることもできる。
それをし続けるのは、どうにもならないことを知っていて、直接的に自分に跳ね返ってこないことを知っているから叫べるのだと思う。
撒き散らすことによって、「戦った」とか「わかっている」という感を持つのは間違いだ。
そして、撒き散らしっぱなしは卑怯だ。
何が嫌なのかを自分に問うことは苦しいけれど、それを問うことなしに楽だから周りのせいにするのはその鬱憤の中に留まることと同じである。
嫌の原因やうまくいかない要因の一つが間違いなく社会にあるとしても、社会が何者かを明確にできないのだから。

ただ、アーティストがする風刺はまた別だけれど。

しかしいったい私は何に対して怒っているのだろう。


兄の子供も無事に産まれたそうだ。
おばさんはまたおばさんになった。
いっぱい笑って育ってね。