私はずっとここに来たかった。
どんなにハイシーズンでも。
どんなに忙しくても。
夏の富良野・美瑛、パッチワークの丘。
土日1泊。
花まみれの旅。
さほど心配してもいなかったお天気は、曇りのち晴れ。
日差しがあればじりじりと肌の水分を奪うような陽の鋭さはある。
ただし日陰に入ってしまえば、心地よい東京の五月晴れくらいの爽快さ。
広くなだらかな丘陵地帯のこの地域。
お花畑のあるファームは点在していて、蕎麦畑や小麦畑や水田が大半を占めている。
蕎麦の小さな白い花が満開のところは、黄緑と白の水玉の丘。
小麦の穂が揺れるところは、夕日を浴びて黄金の丘。
稲が元気にまっすぐ育っているところは、風に波打つ青々の丘。
ファームの花畑はパッチワークみたいにさまざまな色の花の絨毯が敷かれている。
広大な色の絨毯、地の色は空の青。
まるい丘の下から、私はしゃがんで、まるい丘を見上げる。
この一帯はどういうわけか、空はきれいなのに空が低くて。
まるい丘のもう本当にすぐ上が空。
天地が歩み寄って近づき合って。
お花畑の中の空にいるような。
空間の広さは、人の心を広くする。
というか、人の心を狭くできない。
「人工物は人の思いを跳ね返すけど、自然のものは人の思いを吸ってくれるんだろうね」
私は東京は大好きで、東京にずっといてもいいと思っていたけれど、なんだかそれが少しだけ揺らいだ気がした。
住み処としての東京を離れることは本当に嫌だし、それは変わらないだろうと思っていた。
ただ、それは狭いのかもしれない、とふと思った。
とはいえ、東京は大好きだし東京にいるけれど、その発想が生まれたことは心に留めておきたい。
たぶん、いろんなことは大丈夫だから、だからちゃんと自分に忠実にやっていこうと思う。
あからさまにもがいたことがなかった私は、今もがくことを知って、もがきながらも脱皮できることは素敵なことだと思う。
脱皮したら、皮膚は薄くて柔らかくて脆くて赤向け状態だけど、脱げずに腐っていくよりもよっぽどいい。
もし脱皮する必要があるとして、脱皮なんて何歳になってもできるけれど、やっぱり年を取れば取るほど殻は固くなるし、下の皮膚に密着しすぎて脱ぐのが難しくなる。
幸いにも誰かがそれを手伝ってくれたとしても、脱ぐ労力も脱いだ後の労力も、若さが成す突破力や修復力には到底かなわない。
ただ、やっぱり、いつになったって、脱ぐべきものは己の力で脱ぐことができる。
私は今後また脱皮することがあるかもしれないけど、今は今で、あと少し、なんだと思う。
脱皮したら、自分が強くなれるだろうか、人に優しくできるだろうか。
青くて青くて恥ずかしいけれど、強くなりたいし優しくなりたい。
ラベンダー、薔薇、マリーゴールド、ケイトウ、金魚草、サルビア、カスミソウ。
名前は全部覚えられないけど、数えきれないほどのお花を見た。
美しく咲く花のように、時期を逃さず勢いよく豪快に色を咲かせられたらいい。
いくつかのファームを廻って、さすがにハイシーズンで人も多かったけれど、本当に行ってよかった。
どこか旅行へ行こう、となったとき、また同じ場所に近いうちに行くのは、なんだかもったいない気がしてなかなかできない。
でも、私はもう一度、ここに来たいと思う。
私は友人に運転を任せっきりで、地図も読めない私は助手席に座る資格すらも危ういことは重々承知で、多少怒らせてしまいながらも長時間の運転をありがとうと言いたい。
本当は、こんなに解放されたのは一緒にいた彼女のおかげも大きくて、私は彼女に何かをしてあげることができるような、そんな大きくて優しくて強い人間になりたい。
あんなに音を欲していた最近だったのに、千歳空港で友人と待ち合わせた後から帰りの空港まで、全く音を欲しなかった。
ただ、羽田に降りて、私はまた音を欲してiPodをつなぐ。
私は写真を撮るとき、携帯のカメラの四角の中に、向きを全く気にせずに切り取る。
色の割合とか、余計なものをなるべく入れないとか、ここを映したいとか、そういうことが優先でしかない。
自分で見るときは画像を自分で画像を回す。
だから何かにアップロードするときに意図せず天地がおかしなことになることがある。
と、私自身は全くもって気にしたこともなかったので、人から指摘されて初めてそのことに気付いた。
あまり直す気はないのだけど。
どんなにハイシーズンでも。
どんなに忙しくても。
夏の富良野・美瑛、パッチワークの丘。
土日1泊。
花まみれの旅。
さほど心配してもいなかったお天気は、曇りのち晴れ。
日差しがあればじりじりと肌の水分を奪うような陽の鋭さはある。
ただし日陰に入ってしまえば、心地よい東京の五月晴れくらいの爽快さ。
広くなだらかな丘陵地帯のこの地域。
お花畑のあるファームは点在していて、蕎麦畑や小麦畑や水田が大半を占めている。
蕎麦の小さな白い花が満開のところは、黄緑と白の水玉の丘。
小麦の穂が揺れるところは、夕日を浴びて黄金の丘。
稲が元気にまっすぐ育っているところは、風に波打つ青々の丘。
ファームの花畑はパッチワークみたいにさまざまな色の花の絨毯が敷かれている。
広大な色の絨毯、地の色は空の青。
まるい丘の下から、私はしゃがんで、まるい丘を見上げる。
この一帯はどういうわけか、空はきれいなのに空が低くて。
まるい丘のもう本当にすぐ上が空。
天地が歩み寄って近づき合って。
お花畑の中の空にいるような。
空間の広さは、人の心を広くする。
というか、人の心を狭くできない。
「人工物は人の思いを跳ね返すけど、自然のものは人の思いを吸ってくれるんだろうね」
私は東京は大好きで、東京にずっといてもいいと思っていたけれど、なんだかそれが少しだけ揺らいだ気がした。
住み処としての東京を離れることは本当に嫌だし、それは変わらないだろうと思っていた。
ただ、それは狭いのかもしれない、とふと思った。
とはいえ、東京は大好きだし東京にいるけれど、その発想が生まれたことは心に留めておきたい。
たぶん、いろんなことは大丈夫だから、だからちゃんと自分に忠実にやっていこうと思う。
あからさまにもがいたことがなかった私は、今もがくことを知って、もがきながらも脱皮できることは素敵なことだと思う。
脱皮したら、皮膚は薄くて柔らかくて脆くて赤向け状態だけど、脱げずに腐っていくよりもよっぽどいい。
もし脱皮する必要があるとして、脱皮なんて何歳になってもできるけれど、やっぱり年を取れば取るほど殻は固くなるし、下の皮膚に密着しすぎて脱ぐのが難しくなる。
幸いにも誰かがそれを手伝ってくれたとしても、脱ぐ労力も脱いだ後の労力も、若さが成す突破力や修復力には到底かなわない。
ただ、やっぱり、いつになったって、脱ぐべきものは己の力で脱ぐことができる。
私は今後また脱皮することがあるかもしれないけど、今は今で、あと少し、なんだと思う。
脱皮したら、自分が強くなれるだろうか、人に優しくできるだろうか。
青くて青くて恥ずかしいけれど、強くなりたいし優しくなりたい。
ラベンダー、薔薇、マリーゴールド、ケイトウ、金魚草、サルビア、カスミソウ。
名前は全部覚えられないけど、数えきれないほどのお花を見た。
美しく咲く花のように、時期を逃さず勢いよく豪快に色を咲かせられたらいい。
いくつかのファームを廻って、さすがにハイシーズンで人も多かったけれど、本当に行ってよかった。
どこか旅行へ行こう、となったとき、また同じ場所に近いうちに行くのは、なんだかもったいない気がしてなかなかできない。
でも、私はもう一度、ここに来たいと思う。
私は友人に運転を任せっきりで、地図も読めない私は助手席に座る資格すらも危ういことは重々承知で、多少怒らせてしまいながらも長時間の運転をありがとうと言いたい。
本当は、こんなに解放されたのは一緒にいた彼女のおかげも大きくて、私は彼女に何かをしてあげることができるような、そんな大きくて優しくて強い人間になりたい。
あんなに音を欲していた最近だったのに、千歳空港で友人と待ち合わせた後から帰りの空港まで、全く音を欲しなかった。
ただ、羽田に降りて、私はまた音を欲してiPodをつなぐ。
私は写真を撮るとき、携帯のカメラの四角の中に、向きを全く気にせずに切り取る。
色の割合とか、余計なものをなるべく入れないとか、ここを映したいとか、そういうことが優先でしかない。
自分で見るときは画像を自分で画像を回す。
だから何かにアップロードするときに意図せず天地がおかしなことになることがある。
と、私自身は全くもって気にしたこともなかったので、人から指摘されて初めてそのことに気付いた。
あまり直す気はないのだけど。
