既にすっかり昼夜逆転してしまって、お昼に起きてコーヒーを淹れて開きっぱなしだった雑誌NUMEROを読み終えていつもの掃除をして焼うどんを作って食べる。
昨日、かけうどんを作ったのだが、ツユの味が決まらなかった。
それはたぶんお酒を切らしていたからだ。
いつもはお酒の力など全然感じることなく、入れて意味はあるのかとも思わず何となく入れていた。
他の調味料はいつもと一緒だったから、味が決まらなかったのはおそらくお酒の力が欠けていたことによるのだと思う。
出汁や塩が味に大きな影響を与えることはすんなりとわかるが、お酒が味の一手を担っているということは、少し不思議に感じられた。
まあでも、味に影響がないのに、主要調味料になれるわけはないか。
引き続きお酒はないので、今日は焼うどんにした。
具は、豚肉と小松菜しかなかったけど、それなりであった。
調味料でなく、食材で言えば、肉の力は偉大だなあと思う。
キオスクでm&m'sのチョコレートを買って、新幹線に乗る。
ゴールデンウイーク中日の東京駅は、思った程混んではいない。
ふつうの休日の渋谷スクランブル交差点の方が混んでいる。
東京駅を発ってまもなく、品川あたりでm&m'sのチョコレートの袋を開けたら、絵に描いたように色とりどりのおはじきみたいなチョコレートが舞った。
いや、舞ったわけではなくて、私がぶちまけただけだけれど。
バラバラバラっと大きな音を立てて、座席の下に散らばってしまった。
その大きな音にこちらを一瞥した人が何人かいた。
幸い隣はまだいなかったので、そそくさとチョコレートを集める。
しかしまあ、こういうことが起こってもあまり焦らなくなった。
よくあるからだ。
山が緑に燃えている。
そんな景色の中を新幹線で進むと、思い出されるのはいつも6年前の新幹線。
四十九日、おばあちゃんは極楽へ行ったことになるらしい。
2人の0歳児と、1人の1歳児のおかげで、法事は和やかに執り行われた。
読経が終わってのお説法はいつも興味深い。
おばあちゃんの住む地域の浄土宗では、お盆に仏壇にキュウリとナスそれぞれに四本割り箸を刺して脚を作ってお供えする風習がある。
今日のお説法で初めてその意味を知った。
私が生まれ育った家は、提灯を出したり迎え火を焚いたりはするけれど、そのようなことはしないので、お供え物としてあることは知っていたがさして気に留めたことはなかった。
今思うと、確かに非常に奇妙なものである。
そもそも、お盆にご先祖様がこの世に帰ってくるということは、仏教的な意味があるわけではなく、いつかの時点でこの世の人が死んだ人に対して「帰って来てほしい」という思いを込めて作られたものなのだそうだ。
あの世から、「早く帰って来てくださいね」ということで、足の速い馬に見たてたキュウリ馬。
あの世に帰る時は、「焦らずゆっくり帰ってくださいね」ということで、ゆったりとした速度の牛に見たてたナス牛。
キュウリとナスは、ご先祖様の行き帰りの乗り物なのだそうだ。
この話を聞いたある家の小学生は、おじいちゃんが死んでお盆に紙で軽トラックを作ったのだそうだ。
「おじいちゃんは、馬にも牛にも乗らない。乗っていたのは、軽トラックだよ」と言って。
その小学生は翌年、色の違う軽トラックを作った、夏休みの自由工作の宿題を兼ねて。
キュウリ馬でなくとも、ナス牛でなくとも、それがご先祖様を迎える、ご先祖様を思う気持ちなのですよ、という話。
結局のところ、生きている人間が納得がいくように考えるしかない。
死生観は人それぞれだし、わたしは実感として仏道はよくわからないけれど、それはすなわちその人を思う気持ちなのだということは分かる。
ちなみに、この地域の慣わしは他にもあって、ご先祖様がいらしているときの食事として、何人分かの小さな精進料理を朝昼晩用意する。
使えない食材もたくさんあるし、何せそれをさげた後、全部食べなければならないので物が傷みやすい酷暑の時期には非常に大変なことである。
お盆は家のことで忙しいから出掛けられないというのがこの地域に住む人々だ。
私が幼い頃は、死んだおばあちゃんとお嫁さんがキュウリ馬とナス牛も、ご先祖様のお食事も全部用意していた。
今もなお、お嫁さんが受け継いでいるのか、私は知らない。
広くて車の少ないおばあちゃんの家辺りの道を兄の車に乗せてもらって実家まで戻る。
車中、無口な兄に「東京のどこがそんなにいいのか、こっちはこんなに広くて緑があるのに。こっちだってネットがあるからほしい物はほとんど手に入るじゃないか」と問われて、私は東京を好む理由として、人間関係と密度、選択の自由についてわかりやすく説明したつもりだったのだが、話は平行線をたどった。
そもそもの兄の意見として、東京に人が集まるのが「利便性」の理由が大きそうだが今のご時世、兄の言う「利便性」は地方でも享受できるというこのを元にできているのと、自分の仲の良い友達が皆地元にいるので少なからず幼馴染は私にも地元にいると思っているから寂しくないだろうという前提があるので、話は折り合わない。
別に兄は私に帰って来いと言っているわけではない。
今回一件だけ約束していた地元の友人にドライブに連れて行ってもらう。
私は車は運転できないけれど、助手席に乗せてもらうのはとても好きだ。
私はこの友人といるときもかなりマシンガンで喋るし、よく笑う。
私の人間関係は、喋れる関係、ということを基本として成り立っている。
花が見たいと言う私に、夜の公園に向かう。
公園の花壇にナデシコや薔薇や椿が咲いていて、iPhoneカメラのライトをあてながら、そしてベラベラと喋り続けながら写真を撮った。
もっと走りたいと言う私に、車が全然いないブルーブリッジを飛ばして街の端まで行く。
肌寒い中を車から降りると、久しぶりにきれいな星空が広がっていた。
きれいな青空は東京でもそれなりに見られるけれど、きれいな星空は東京では見られない。
花が好き。
色が好き。
空が好き。
星空が好き。
でも、帰らない。
お風呂には菖蒲が浮いていた。
ちぎって、その切り口の匂いを嗅ぐ。
葉脈がストレートな、青々しい匂いがする。
昨日、かけうどんを作ったのだが、ツユの味が決まらなかった。
それはたぶんお酒を切らしていたからだ。
いつもはお酒の力など全然感じることなく、入れて意味はあるのかとも思わず何となく入れていた。
他の調味料はいつもと一緒だったから、味が決まらなかったのはおそらくお酒の力が欠けていたことによるのだと思う。
出汁や塩が味に大きな影響を与えることはすんなりとわかるが、お酒が味の一手を担っているということは、少し不思議に感じられた。
まあでも、味に影響がないのに、主要調味料になれるわけはないか。
引き続きお酒はないので、今日は焼うどんにした。
具は、豚肉と小松菜しかなかったけど、それなりであった。
調味料でなく、食材で言えば、肉の力は偉大だなあと思う。
キオスクでm&m'sのチョコレートを買って、新幹線に乗る。
ゴールデンウイーク中日の東京駅は、思った程混んではいない。
ふつうの休日の渋谷スクランブル交差点の方が混んでいる。
東京駅を発ってまもなく、品川あたりでm&m'sのチョコレートの袋を開けたら、絵に描いたように色とりどりのおはじきみたいなチョコレートが舞った。
いや、舞ったわけではなくて、私がぶちまけただけだけれど。
バラバラバラっと大きな音を立てて、座席の下に散らばってしまった。
その大きな音にこちらを一瞥した人が何人かいた。
幸い隣はまだいなかったので、そそくさとチョコレートを集める。
しかしまあ、こういうことが起こってもあまり焦らなくなった。
よくあるからだ。
山が緑に燃えている。
そんな景色の中を新幹線で進むと、思い出されるのはいつも6年前の新幹線。
四十九日、おばあちゃんは極楽へ行ったことになるらしい。
2人の0歳児と、1人の1歳児のおかげで、法事は和やかに執り行われた。
読経が終わってのお説法はいつも興味深い。
おばあちゃんの住む地域の浄土宗では、お盆に仏壇にキュウリとナスそれぞれに四本割り箸を刺して脚を作ってお供えする風習がある。
今日のお説法で初めてその意味を知った。
私が生まれ育った家は、提灯を出したり迎え火を焚いたりはするけれど、そのようなことはしないので、お供え物としてあることは知っていたがさして気に留めたことはなかった。
今思うと、確かに非常に奇妙なものである。
そもそも、お盆にご先祖様がこの世に帰ってくるということは、仏教的な意味があるわけではなく、いつかの時点でこの世の人が死んだ人に対して「帰って来てほしい」という思いを込めて作られたものなのだそうだ。
あの世から、「早く帰って来てくださいね」ということで、足の速い馬に見たてたキュウリ馬。
あの世に帰る時は、「焦らずゆっくり帰ってくださいね」ということで、ゆったりとした速度の牛に見たてたナス牛。
キュウリとナスは、ご先祖様の行き帰りの乗り物なのだそうだ。
この話を聞いたある家の小学生は、おじいちゃんが死んでお盆に紙で軽トラックを作ったのだそうだ。
「おじいちゃんは、馬にも牛にも乗らない。乗っていたのは、軽トラックだよ」と言って。
その小学生は翌年、色の違う軽トラックを作った、夏休みの自由工作の宿題を兼ねて。
キュウリ馬でなくとも、ナス牛でなくとも、それがご先祖様を迎える、ご先祖様を思う気持ちなのですよ、という話。
結局のところ、生きている人間が納得がいくように考えるしかない。
死生観は人それぞれだし、わたしは実感として仏道はよくわからないけれど、それはすなわちその人を思う気持ちなのだということは分かる。
ちなみに、この地域の慣わしは他にもあって、ご先祖様がいらしているときの食事として、何人分かの小さな精進料理を朝昼晩用意する。
使えない食材もたくさんあるし、何せそれをさげた後、全部食べなければならないので物が傷みやすい酷暑の時期には非常に大変なことである。
お盆は家のことで忙しいから出掛けられないというのがこの地域に住む人々だ。
私が幼い頃は、死んだおばあちゃんとお嫁さんがキュウリ馬とナス牛も、ご先祖様のお食事も全部用意していた。
今もなお、お嫁さんが受け継いでいるのか、私は知らない。
広くて車の少ないおばあちゃんの家辺りの道を兄の車に乗せてもらって実家まで戻る。
車中、無口な兄に「東京のどこがそんなにいいのか、こっちはこんなに広くて緑があるのに。こっちだってネットがあるからほしい物はほとんど手に入るじゃないか」と問われて、私は東京を好む理由として、人間関係と密度、選択の自由についてわかりやすく説明したつもりだったのだが、話は平行線をたどった。
そもそもの兄の意見として、東京に人が集まるのが「利便性」の理由が大きそうだが今のご時世、兄の言う「利便性」は地方でも享受できるというこのを元にできているのと、自分の仲の良い友達が皆地元にいるので少なからず幼馴染は私にも地元にいると思っているから寂しくないだろうという前提があるので、話は折り合わない。
別に兄は私に帰って来いと言っているわけではない。
今回一件だけ約束していた地元の友人にドライブに連れて行ってもらう。
私は車は運転できないけれど、助手席に乗せてもらうのはとても好きだ。
私はこの友人といるときもかなりマシンガンで喋るし、よく笑う。
私の人間関係は、喋れる関係、ということを基本として成り立っている。
花が見たいと言う私に、夜の公園に向かう。
公園の花壇にナデシコや薔薇や椿が咲いていて、iPhoneカメラのライトをあてながら、そしてベラベラと喋り続けながら写真を撮った。
もっと走りたいと言う私に、車が全然いないブルーブリッジを飛ばして街の端まで行く。
肌寒い中を車から降りると、久しぶりにきれいな星空が広がっていた。
きれいな青空は東京でもそれなりに見られるけれど、きれいな星空は東京では見られない。
花が好き。
色が好き。
空が好き。
星空が好き。
でも、帰らない。
お風呂には菖蒲が浮いていた。
ちぎって、その切り口の匂いを嗅ぐ。
葉脈がストレートな、青々しい匂いがする。
