一つの大きな通過点のようなものを越えた。
私にとって心の内を露わにするということは、あまり経験がない。
あれは今の私にとって、でき得る露わだったのではないかと思う。
私が直接送りつけた方、先日のブログ記事からわざわざメールを送って下さった方。
何名かの方々にお読みいただいて、ご面倒をおかけして、尚感想を下さる方もいた。
私から漏れ出でてしまった何かを読んでいただけて、とてもとても、嬉しくありがたく思う。
親愛なる友人たちは「よかったよかった」と皆言ってくれた。
文章が「よかった」ということではない。
「あなたが本当のことを言えて、よかったよかった」と。
まるで子犬を撫でる「よしよし」かのように、「よかったよかった」と言ってくれた。
あそこまでの開示を私はしたことはたぶん誰にもないのだけど、親愛なる友人たちはどうやら皆私が本当に言いたかったことなどとっくにわかっていたようで、だから出てきた言葉が「よかったよかった」だったのだと思う。
私が本当に思うことを、私の方法で露わにしたかった。
その方法でないと私はそうすることができなかった。
回りまわって考えた末のそれであれば何か形に残したかった。
時系列に追ったエッセイも書こうと思えば書けたけれど、エッセイでは思いにならなかった。
何かを写実的に描くことと、思いを乗せることには明らかな差があるのだと思う。
それを露出狂的側面を持つ私が皆さまに読んでいただくことを選んだ。
どのレスポンスも私は受け入れるし、それによって書いたものや私の思いが変わることが少なくとも今はない。
あれを書いたことは、自分で立ち戻れないようにしたということでもある。
それこそ「なりたい自分」に向かえるように、自分で一歩を定めたのだと思う。
「出発地点をひとつ定めたのかなあと思う」と言ってくれた方がいたけれど、まさにそういうことだと思う。
あの「手紙」が空を切っても、宙に溶けても、私は書いて良かったと思う。
私の身体から社会性が薄くなっても。
私にとって心の内を露わにするということは、あまり経験がない。
あれは今の私にとって、でき得る露わだったのではないかと思う。
私が直接送りつけた方、先日のブログ記事からわざわざメールを送って下さった方。
何名かの方々にお読みいただいて、ご面倒をおかけして、尚感想を下さる方もいた。
私から漏れ出でてしまった何かを読んでいただけて、とてもとても、嬉しくありがたく思う。
親愛なる友人たちは「よかったよかった」と皆言ってくれた。
文章が「よかった」ということではない。
「あなたが本当のことを言えて、よかったよかった」と。
まるで子犬を撫でる「よしよし」かのように、「よかったよかった」と言ってくれた。
あそこまでの開示を私はしたことはたぶん誰にもないのだけど、親愛なる友人たちはどうやら皆私が本当に言いたかったことなどとっくにわかっていたようで、だから出てきた言葉が「よかったよかった」だったのだと思う。
私が本当に思うことを、私の方法で露わにしたかった。
その方法でないと私はそうすることができなかった。
回りまわって考えた末のそれであれば何か形に残したかった。
時系列に追ったエッセイも書こうと思えば書けたけれど、エッセイでは思いにならなかった。
何かを写実的に描くことと、思いを乗せることには明らかな差があるのだと思う。
それを露出狂的側面を持つ私が皆さまに読んでいただくことを選んだ。
どのレスポンスも私は受け入れるし、それによって書いたものや私の思いが変わることが少なくとも今はない。
あれを書いたことは、自分で立ち戻れないようにしたということでもある。
それこそ「なりたい自分」に向かえるように、自分で一歩を定めたのだと思う。
「出発地点をひとつ定めたのかなあと思う」と言ってくれた方がいたけれど、まさにそういうことだと思う。
あの「手紙」が空を切っても、宙に溶けても、私は書いて良かったと思う。
私の身体から社会性が薄くなっても。
