追加でたくさん借りたアルバムのうち、イーグルス、ディープパープル、ドアーズ、ザ・スミスのあたりが良い。
ただ、最近で言えばレッド・ツェッペリンやU2の方が良い。
やっぱりハードすぎるハードロックは肌に合わない。
尾崎豊が私にはいまいち響かないのは、多感過ぎるその精神の成長途中を私自身は大して味わわなかったからということもあるし、もっと大きくは、やはり環境への鬱屈をその環境に対して叫んでいるからだと思う。
それと、現実は良くないものだ、というスタート地点であるからだと思う。
ある程度の年齢まで、親の保護という面からもお金という面からも精神的回避手段を知らないという面でも、そこからの脱出は困難を極めるだろうから、それを叫ぶのもわかる。
しかし私がぎゅうっとなるのは、こういう環境支配による鬱屈をそれが鬱屈だと叫ぶことではない。
ちなみに、女に対する愛や恋を絶頂として歌っているのも私としてはあまりぎゅうっとこない。
これは尾崎豊ではなくて。
エルヴィス・プレスリーやチャック・ベリー、クイーン、マンフレッドマンなどは私の中で同じようなイメージでカテゴライズされているのだけど、ぐっと来るポイントが未だよくわからない。
私が音楽を漁り始めてからはじめの方に好きになったアーティストたちは、往々にして彼らから影響を受けているらしいのだけどそれがよくわからないのだ。
すごくわかりたいのだけれど、わからない。
私の中で、洋風の喫茶店で流れる心地の良い古い音楽、の域を出ることができない。
今後何年かして、今わからないと括られた音楽たちが私の中にまだ割れずにあるエミューの卵をかち割ることがあったとしたらそれはとても面白い。
そんなことがあるといいなと思う。
映画が公開されても読書下手な私は手をつけられずにいたのだが、期日迫られてようやく「オン・ザ・ロード」を読み始めた。
読書下手な私は、文章を行ったり来たりしながら遅々と読み進めていく。
「64,928-キャサディ・キャサディ」というマーシー作詞曲のハイロウズの1曲はこの小説がモチーフになっていると言われている。
それは別として、私はともすれば一番最初の「リンダリンダ」と同じくらいの衝撃をこの「64,928-キャサディ・キャサディ」から受けた。
私はこの曲を同じくヒロトとマーシーが大好きな友人のブログから知った。
曲の世界観は後から理解してそれはそれでマーシーへ思いを馳せたけれど、私を引っ掴んだのはライブ映像の歌い出す前のマーシーの叫び声だった。
私はそのとき、コーヒーカップを手にしたまま、その場にしゃがみ込んで動けなくなって、泣いていた。
そんなことからの小説「オン・ザ・ロード」と、それを煽るように公開になった映画「オン・ザ・ロード」
たかだか数十ページをランチの30分くらいの間に読んだだけだけれど、マーシーが影響を受けたのが本当に良くわかる。
私は小説は、文才かプロットかトリックか、だと思っているけれど、そのどれかで読ませているわけではない。
そもそも翻訳の分、原文での味わい方はできないし細かい言い回しのニュアンスを掴むこともできないけれど、特段文章の質や雰囲気が良いわけではない。
ミステリーではないからトリックは関係なくて、プロットと言っても旅路を時系列を追って語られているシンプルな作りである。
単純な興奮について書かれている。
その興奮が文章に漏れ出でている。
登場人物の所謂勝手さのようなものが、文章の勝手さとなって表れている。
時間を見計らって仕方なしに本を閉じて会社に戻る。
興奮全然、冷めやらず。
ただ、最近で言えばレッド・ツェッペリンやU2の方が良い。
やっぱりハードすぎるハードロックは肌に合わない。
尾崎豊が私にはいまいち響かないのは、多感過ぎるその精神の成長途中を私自身は大して味わわなかったからということもあるし、もっと大きくは、やはり環境への鬱屈をその環境に対して叫んでいるからだと思う。
それと、現実は良くないものだ、というスタート地点であるからだと思う。
ある程度の年齢まで、親の保護という面からもお金という面からも精神的回避手段を知らないという面でも、そこからの脱出は困難を極めるだろうから、それを叫ぶのもわかる。
しかし私がぎゅうっとなるのは、こういう環境支配による鬱屈をそれが鬱屈だと叫ぶことではない。
ちなみに、女に対する愛や恋を絶頂として歌っているのも私としてはあまりぎゅうっとこない。
これは尾崎豊ではなくて。
エルヴィス・プレスリーやチャック・ベリー、クイーン、マンフレッドマンなどは私の中で同じようなイメージでカテゴライズされているのだけど、ぐっと来るポイントが未だよくわからない。
私が音楽を漁り始めてからはじめの方に好きになったアーティストたちは、往々にして彼らから影響を受けているらしいのだけどそれがよくわからないのだ。
すごくわかりたいのだけれど、わからない。
私の中で、洋風の喫茶店で流れる心地の良い古い音楽、の域を出ることができない。
今後何年かして、今わからないと括られた音楽たちが私の中にまだ割れずにあるエミューの卵をかち割ることがあったとしたらそれはとても面白い。
そんなことがあるといいなと思う。
映画が公開されても読書下手な私は手をつけられずにいたのだが、期日迫られてようやく「オン・ザ・ロード」を読み始めた。
読書下手な私は、文章を行ったり来たりしながら遅々と読み進めていく。
「64,928-キャサディ・キャサディ」というマーシー作詞曲のハイロウズの1曲はこの小説がモチーフになっていると言われている。
それは別として、私はともすれば一番最初の「リンダリンダ」と同じくらいの衝撃をこの「64,928-キャサディ・キャサディ」から受けた。
私はこの曲を同じくヒロトとマーシーが大好きな友人のブログから知った。
曲の世界観は後から理解してそれはそれでマーシーへ思いを馳せたけれど、私を引っ掴んだのはライブ映像の歌い出す前のマーシーの叫び声だった。
私はそのとき、コーヒーカップを手にしたまま、その場にしゃがみ込んで動けなくなって、泣いていた。
そんなことからの小説「オン・ザ・ロード」と、それを煽るように公開になった映画「オン・ザ・ロード」
たかだか数十ページをランチの30分くらいの間に読んだだけだけれど、マーシーが影響を受けたのが本当に良くわかる。
私は小説は、文才かプロットかトリックか、だと思っているけれど、そのどれかで読ませているわけではない。
そもそも翻訳の分、原文での味わい方はできないし細かい言い回しのニュアンスを掴むこともできないけれど、特段文章の質や雰囲気が良いわけではない。
ミステリーではないからトリックは関係なくて、プロットと言っても旅路を時系列を追って語られているシンプルな作りである。
単純な興奮について書かれている。
その興奮が文章に漏れ出でている。
登場人物の所謂勝手さのようなものが、文章の勝手さとなって表れている。
時間を見計らって仕方なしに本を閉じて会社に戻る。
興奮全然、冷めやらず。
