休みを取って書道教室に行く。
また展覧会の出品期日に追われていて、先生に見せる当日に漢詩作品と「リンダリンダ」を2枚ずつ仕上げる。
これでそれぞれ15枚ずつくらいは書いただろうか。
「リンダリンダ」はもう、私は何度書いてもぎゅうっとなって途中で中断を余儀なくされる。
教室に行ってそれらを先生に見せる。
これまでに書いた作品と見比べていって良いものをひとつだけ残しておく。
最終出品までそれを続ける。
今日書いた4枚は全部、前に書いたものに敵わなかった。
疲れてもいなかったしそれなりに乗って書いているつもりだった。
先生曰く、「上手になっちゃってるんだよね」
練習は物を言うものだけれど、創作の場合必ずしも多くを書けばどんどん良いものが出来ていく、というものではない。
書けば書くほど字の配置や流れが決まって、それを洗練させようとする。
私の場合、飽きが生じて適当にもなってくる。
私は鉛筆などで他の紙に下書きをすることもしないから、一番最初は紙の上でどこへ行こうかなと考えながら書く。
こっちに行ってみたら面白い字の表情になった、筆が思うようについてこなかった、思ったより掠れてしまった、というふうに出来上がっていく。
書く前から頭の中に出来上がりのイメージがあるわけでもないから、書いてみてはじめて自分から出たものと対面することになる。
最近は少し創作にも慣れてきた感があって、何をやっても私らしすぎて笑ってしまうことがある。
それは、今の私と向き合うという点ではいいけれど、創作をする上では面白いものではない。
そうして、字を追いながら初めて書いたものを原稿として、2枚目に書いたものがたいていは良いことが多い。
挙げ句、教室で書いたものも前のものに敵わずボツとなった。
「最初の方がいいタイプなんだね」と先生に言われて、出品期日をあと一週間に控えて、全く新しい漢詩を書くことにした。
1枚字を追って、2枚目。
「結構良いのでこれは最終判断まで取っておきましょう」となる。
書いてみて思うのは、やっぱり新しいのは面白いということである。
先生にアドバイスをもらいながら、こうしてみたらもっと面白い、という方向に持っていく。
自分的にちょっとやりすぎかなと思えるところまで線を広げてみる。
「もっとキチガイみたいなの書いてよ。奇抜なやつ。お行儀良くしててもつまんないじゃない」と言われる。
そう、そうなのだ、私は優等生なのだ、常識人なのだ。
自分的なやりすぎなんて、ちっともやりすぎになっていない。
少しでも、ほんの少しでも、優等生や常識人から出られたら世界がまた違う色で見えるかもしれない。
私はその違う色が見たい、であれば、自分の未踏の領域に足を踏み入れなければいけない。
どこまで行ったって私は私から抜けられないから、戻って来られなくなる心配なんてずっと無用だ。
書作において、そのひとつの方法は「自分の嫌なことをしてみる」と先生は言った。
私は、なるほど、と思った。
書の世界は、清廉、たおやか、静謐、凛、というような感じのことを重んじるところも多いと思うが、私の通う教室では先生たちも自己顕示欲の塊のような字を書く先生が多い。
創始者の作ったルールの中で、ということではあるけれど、その幅はかなり広いのではないかという気がする。
別に奇抜であることが最良であるわけでもないけれど、より自分であることはひとつの良いことなのではと思う。
字は、声と同じくらい個人を消せないものだ。
気配を消そうと頑張っても、出たものから匂い立ってしまう。
それを今は、「気持ちが悪いほどに私」を書けばいい。
久しぶりにiPod shuffleの曲を入れ替えた。
新たに加えたのは、JAM、奥田民生、Tom Robinson、真心ブラザーズ、岡村靖幸、oasisのいくつかの曲。
あと、ブルーハーツとハイロウズとクロマニヨンズの曲を一部入れ替え。
この前借りたコンピレーションアルバムの「The PUNK US Hits」がとても良い。
「The PUNK UK vs US」もとても良かったけれど、これもとても良い。
私は本当にパンクロックが好きみたいだ。
全然知らないバンドがほとんどで、検索するとローリングストーン誌が選ぶ歴史上最も偉大なロックバンドのランキングに入っていることを知る。
Iggy popの「Lust for life」という曲がJETの「Are You Gonna Be My Girl」にそっくりだと思って調べていると、この話題はかなり有名なことらしい。
ロック好きな人が通る道を私も通れているような気がして嬉しくなる。
日曜日に作ったトマトマレーの残りを食べる。
「何か足りないような気がする」というのは「寝かせる」ということでほぼ解決した。
「寝かせる」ことが大事なのか、と思って使ってしまわないといけないトマト缶の残りと、残り野菜を入れて、今食べないトマトソースを夜な夜な作る。
また展覧会の出品期日に追われていて、先生に見せる当日に漢詩作品と「リンダリンダ」を2枚ずつ仕上げる。
これでそれぞれ15枚ずつくらいは書いただろうか。
「リンダリンダ」はもう、私は何度書いてもぎゅうっとなって途中で中断を余儀なくされる。
教室に行ってそれらを先生に見せる。
これまでに書いた作品と見比べていって良いものをひとつだけ残しておく。
最終出品までそれを続ける。
今日書いた4枚は全部、前に書いたものに敵わなかった。
疲れてもいなかったしそれなりに乗って書いているつもりだった。
先生曰く、「上手になっちゃってるんだよね」
練習は物を言うものだけれど、創作の場合必ずしも多くを書けばどんどん良いものが出来ていく、というものではない。
書けば書くほど字の配置や流れが決まって、それを洗練させようとする。
私の場合、飽きが生じて適当にもなってくる。
私は鉛筆などで他の紙に下書きをすることもしないから、一番最初は紙の上でどこへ行こうかなと考えながら書く。
こっちに行ってみたら面白い字の表情になった、筆が思うようについてこなかった、思ったより掠れてしまった、というふうに出来上がっていく。
書く前から頭の中に出来上がりのイメージがあるわけでもないから、書いてみてはじめて自分から出たものと対面することになる。
最近は少し創作にも慣れてきた感があって、何をやっても私らしすぎて笑ってしまうことがある。
それは、今の私と向き合うという点ではいいけれど、創作をする上では面白いものではない。
そうして、字を追いながら初めて書いたものを原稿として、2枚目に書いたものがたいていは良いことが多い。
挙げ句、教室で書いたものも前のものに敵わずボツとなった。
「最初の方がいいタイプなんだね」と先生に言われて、出品期日をあと一週間に控えて、全く新しい漢詩を書くことにした。
1枚字を追って、2枚目。
「結構良いのでこれは最終判断まで取っておきましょう」となる。
書いてみて思うのは、やっぱり新しいのは面白いということである。
先生にアドバイスをもらいながら、こうしてみたらもっと面白い、という方向に持っていく。
自分的にちょっとやりすぎかなと思えるところまで線を広げてみる。
「もっとキチガイみたいなの書いてよ。奇抜なやつ。お行儀良くしててもつまんないじゃない」と言われる。
そう、そうなのだ、私は優等生なのだ、常識人なのだ。
自分的なやりすぎなんて、ちっともやりすぎになっていない。
少しでも、ほんの少しでも、優等生や常識人から出られたら世界がまた違う色で見えるかもしれない。
私はその違う色が見たい、であれば、自分の未踏の領域に足を踏み入れなければいけない。
どこまで行ったって私は私から抜けられないから、戻って来られなくなる心配なんてずっと無用だ。
書作において、そのひとつの方法は「自分の嫌なことをしてみる」と先生は言った。
私は、なるほど、と思った。
書の世界は、清廉、たおやか、静謐、凛、というような感じのことを重んじるところも多いと思うが、私の通う教室では先生たちも自己顕示欲の塊のような字を書く先生が多い。
創始者の作ったルールの中で、ということではあるけれど、その幅はかなり広いのではないかという気がする。
別に奇抜であることが最良であるわけでもないけれど、より自分であることはひとつの良いことなのではと思う。
字は、声と同じくらい個人を消せないものだ。
気配を消そうと頑張っても、出たものから匂い立ってしまう。
それを今は、「気持ちが悪いほどに私」を書けばいい。
久しぶりにiPod shuffleの曲を入れ替えた。
新たに加えたのは、JAM、奥田民生、Tom Robinson、真心ブラザーズ、岡村靖幸、oasisのいくつかの曲。
あと、ブルーハーツとハイロウズとクロマニヨンズの曲を一部入れ替え。
この前借りたコンピレーションアルバムの「The PUNK US Hits」がとても良い。
「The PUNK UK vs US」もとても良かったけれど、これもとても良い。
私は本当にパンクロックが好きみたいだ。
全然知らないバンドがほとんどで、検索するとローリングストーン誌が選ぶ歴史上最も偉大なロックバンドのランキングに入っていることを知る。
Iggy popの「Lust for life」という曲がJETの「Are You Gonna Be My Girl」にそっくりだと思って調べていると、この話題はかなり有名なことらしい。
ロック好きな人が通る道を私も通れているような気がして嬉しくなる。
日曜日に作ったトマトマレーの残りを食べる。
「何か足りないような気がする」というのは「寝かせる」ということでほぼ解決した。
「寝かせる」ことが大事なのか、と思って使ってしまわないといけないトマト缶の残りと、残り野菜を入れて、今食べないトマトソースを夜な夜な作る。
