知人のブログやら、フェイスブックやらを見ていると、一汁三菜かそれ以上のものがとてもきれいに盛り付けられていて毎度驚く。
ごはんがあって、お漬物があって、お味噌汁があって、フライとその付け合わせがあって、常備菜のような小鉢があって、デザートの果物があって。
1つのトレンチの上の定食のように、あれもこれもにぎやかな食事。
こういうのが一般的に言って「普通」なのか。
けいこは大皿料理しか作らないし、何せ料理自体が好きではないので、品数多くは作らない。
出来あいものも多かった。
それについて私は特別な文句は本当にない。
しかし、「普通」「平均的」にみんなあのような素晴らしい食卓を毎日囲んでいるのだろうか。
どれほど手間暇をかけて、食事の準備をしているのだろう。
先日、友人の家でキムチ鍋をなぜか私がその場を仕切って作ったけれど、その時の手際を友人は褒めてくれた。
キムチ鍋なんて、材料を切って鍋に放り込むだけだから、何が何と言うわけではないけれど、慣れた作業については私は確かに段取りよくこなす方だと思う。
しかしキムチ鍋でなくても私のいつもの調理時間なんてあのくらいのもので、いや使う材料の種類から言ってもっと短いかもしれない。
じっくり作らねばならない料理を作ることはほとんどないし、工程の多いものもやらない。
切って煮るだけ、切って炒めるだけ。
もっとも、料理に慣れた人なら30分で3品、とか作れるのだと思う。
しかし、私には3品プラス汁物、といったまず発想がない。
また、あのような素晴らしい食卓には、名のある料理、例えば「卵焼き」とか「ハンバーグ」とか「回鍋肉」とかが並ぶ。
しかし私の食事には特別には「名のない料理」ばかりになる。
そういえば、家庭を持って私よりも品数多く作るいもうとも、「名のない料理」ばかりを作っている気がする。
あと、「ていねいに」も作れない。
どうせ食べてお腹に入ってしまうものについて、「ていねいに」盛りつけたり、「ていねいに」飾り切りをしたり、「ていねいに」下処理をしたり、手をかけることができない。
そういう私も、自分の食べる分の料理を普通にはする。
今でさえ、葱とごぼうと豚肉と油揚げの煮物を煮ている。
特別な名はないけれど。
出汁だって、お味噌汁の場合には厚削りのかつお節からとる。
あ、でもこれは「ていねいに」かもしれない。
「ていねいに」することによるメリットを知っていれば、できるということか。
何が食べたい、ということの本質がまだまだいつもは分からないでいる私は、あのような素晴らしい食卓を常時で望んでいるかといえば、そうでもない。
時にいいなという憧れはありつつも、今何が食べたい、ということの方が今の私に強いたいことではある。
最近なんて、出かけにごはんを食べ損ねて、出先でごはんを食べる時間もないのにこれではエネルギー切れになってしまう、というくらいお腹が空いたときには、コンビニでおにぎりを買って店頭でかじっていることもある。
しかし、こういうときに食べるおにぎりってとても美味しかったりすることも事実なわけで。
“素晴らしい食卓”について考えていたら、けいこからみかんが段ボール箱で届いた。
久しぶりに花の定期便でカーネーションが届いて、ローアングルから眺める。
花の後ろ姿や首筋あたりが大好きで、カーネーションは特に好きなのである。
あと、先日の筆ペンが気に食わなすぎて書いたリベンジ書。
ビタミンを飲んで気休めお年玉
ごはんがあって、お漬物があって、お味噌汁があって、フライとその付け合わせがあって、常備菜のような小鉢があって、デザートの果物があって。
1つのトレンチの上の定食のように、あれもこれもにぎやかな食事。
こういうのが一般的に言って「普通」なのか。
けいこは大皿料理しか作らないし、何せ料理自体が好きではないので、品数多くは作らない。
出来あいものも多かった。
それについて私は特別な文句は本当にない。
しかし、「普通」「平均的」にみんなあのような素晴らしい食卓を毎日囲んでいるのだろうか。
どれほど手間暇をかけて、食事の準備をしているのだろう。
先日、友人の家でキムチ鍋をなぜか私がその場を仕切って作ったけれど、その時の手際を友人は褒めてくれた。
キムチ鍋なんて、材料を切って鍋に放り込むだけだから、何が何と言うわけではないけれど、慣れた作業については私は確かに段取りよくこなす方だと思う。
しかしキムチ鍋でなくても私のいつもの調理時間なんてあのくらいのもので、いや使う材料の種類から言ってもっと短いかもしれない。
じっくり作らねばならない料理を作ることはほとんどないし、工程の多いものもやらない。
切って煮るだけ、切って炒めるだけ。
もっとも、料理に慣れた人なら30分で3品、とか作れるのだと思う。
しかし、私には3品プラス汁物、といったまず発想がない。
また、あのような素晴らしい食卓には、名のある料理、例えば「卵焼き」とか「ハンバーグ」とか「回鍋肉」とかが並ぶ。
しかし私の食事には特別には「名のない料理」ばかりになる。
そういえば、家庭を持って私よりも品数多く作るいもうとも、「名のない料理」ばかりを作っている気がする。
あと、「ていねいに」も作れない。
どうせ食べてお腹に入ってしまうものについて、「ていねいに」盛りつけたり、「ていねいに」飾り切りをしたり、「ていねいに」下処理をしたり、手をかけることができない。
そういう私も、自分の食べる分の料理を普通にはする。
今でさえ、葱とごぼうと豚肉と油揚げの煮物を煮ている。
特別な名はないけれど。
出汁だって、お味噌汁の場合には厚削りのかつお節からとる。
あ、でもこれは「ていねいに」かもしれない。
「ていねいに」することによるメリットを知っていれば、できるということか。
何が食べたい、ということの本質がまだまだいつもは分からないでいる私は、あのような素晴らしい食卓を常時で望んでいるかといえば、そうでもない。
時にいいなという憧れはありつつも、今何が食べたい、ということの方が今の私に強いたいことではある。
最近なんて、出かけにごはんを食べ損ねて、出先でごはんを食べる時間もないのにこれではエネルギー切れになってしまう、というくらいお腹が空いたときには、コンビニでおにぎりを買って店頭でかじっていることもある。
しかし、こういうときに食べるおにぎりってとても美味しかったりすることも事実なわけで。
“素晴らしい食卓”について考えていたら、けいこからみかんが段ボール箱で届いた。
久しぶりに花の定期便でカーネーションが届いて、ローアングルから眺める。
花の後ろ姿や首筋あたりが大好きで、カーネーションは特に好きなのである。
あと、先日の筆ペンが気に食わなすぎて書いたリベンジ書。
ビタミンを飲んで気休めお年玉