結婚式の花に追い打ちをかけるように定期便の花が届いて、今までにないほど部屋が花だらけである。
まあでも部屋が広いので、いくつもの小瓶に分けて、部屋のあらゆるところに花を飾る。
ひとしきり、写真を撮る。
レッスンについて思うことが、とてもたくさんあるのだけれど、どのくらいここに書いて良いものか、と思う。
今さら少し失敗したなと思っているわけだが、名刺にこのブログのURLを載せてしまっていて、特別な案内は全然していないものの、見られてしまう可能性は多分にある。
いつ何時、誰に見られても良いように書いているのは、「勿忘草」の頃から変わらないし、無論見ている人が誰であろうと全部をここに書いているわけでは毛頭ない。
それでも仕事用の「外向き」「内向き」の顔があるのも当然のことで、その開示度の制約を私として決められずにいる。
まあ、このブログくらいの感じも含めても私のことを良しとしてくれるくらいの方でないと、続けてくれもしないだろうなと思ったり。
当然に、仕事は真摯にやるのだけれど。
というのも、ひとつ、黙っていられないことがあって、それは「レッスンを受けただけでは上手くなりませんよ」ということである。
要は「自分で意識すること」「自分で練習すること」しか上手くなるなんてことはあり得ない。
コツを聞いたら、次の日から上手く書けるようになんてならない。
「30日で上達!」と書いてあるテキストは「あなたが30日でやった分だけ上達!」ということである。
まあ見ただけ、聞いただけで上手くなれる人がいたとしたら、別に習う必要もないと思うのでここでは置いておく。
理解をすることは非常に大切なことであるし、私もいかに理解をしてもらおうかと思って解説をしたりする。
しかし、「字が上手くなる」ということは、「緻密な運動が的確にできるようになる」ということでもあるので、それは手が、体が覚えてくれるしか方法がない。
それに、今まで何十年もそれでやってきた無意識化の癖と向き合うということは、自分と向き合うということにもなり、案外容易なことではない。
しかし、その屈強なものと向き合いながら、理解と運動によって、なりたい方向へ近づいていくのは当然誰にでも可能なこととも言える。
驚くべきことに、私たちは懇切丁寧なありがたい義務教育のおかげで、ほとんど皆記号として読むことができる字は書くことができる。
考えてみると、あらゆるさまざまな線を使った文字というものを無意識に言葉としてつらつらと書けるということはそれだけで恐ろしい技術のようにも思える。
たとえば義務教育でギターが文字ほどに社会的に必須、必修なことだったとしたら、おそらく私たちはみんなある程度速弾きなんかもできてしまうのではないかと思う。
記号として読める字が書ける、本当はそれで十分なはずだ。
そういう意味では、私も生徒さんも、まったくの同レベルである。
字なんか習う必要なんてない。
けれど、なんらか他の望みや欲を叶えたいと思うから、「自分の字が恥ずかしい」と思ったり「字が上手くなりたい」と思ったりするのではないだろうか。
それは悪いことではない、というか、むしろその欲はとても好ましいものだし、愛おしいものだと思う。
記号として読める字が書ける、その必要以上に成し得たいことがあるというのは、生きていく上でもとても良いことだと思う。
それには、字のことを好きになる必要がある。
少なくとも、興味を持つ必要がある。
私が、人の字に対してできることは、その手法をできるだけ多く、できるだけ多角の方面からアドバイスすることくらいだ。
もちろん教えるということについての手法は私はもっともっと磨かなければならないというのもあるけれど。
自分が苦手意識があることに向き合うことがいかに難しいかは、私もできないながらにギターをやるのでよく分かる。
人前で苦手なことをやることがどれほど恥ずかしく縮こまってしまうかも分かる。
それでも気になる、それでもやりたい、だからやるのだ。
物事を体得する、というのは何であっても根底にはとても近しい、いやほぼ同じ概念を持っているように思う。
私は、「きれいな字」の定義をさて置いておいたとしても、「きれいな字」が好きだ。
人それぞれ持っている「味のある字」も好きだ。
それに、どうせ一緒の時間を過ごすのであれば、当たり前にお互い楽しんでメリットを享受できたら良いね、ととても単純に思う。
熱くなってしまった。
そりゃあ熱くなってしまう。
鯛焼きを割り見て湯気に溶ける愛
まあでも部屋が広いので、いくつもの小瓶に分けて、部屋のあらゆるところに花を飾る。
ひとしきり、写真を撮る。
レッスンについて思うことが、とてもたくさんあるのだけれど、どのくらいここに書いて良いものか、と思う。
今さら少し失敗したなと思っているわけだが、名刺にこのブログのURLを載せてしまっていて、特別な案内は全然していないものの、見られてしまう可能性は多分にある。
いつ何時、誰に見られても良いように書いているのは、「勿忘草」の頃から変わらないし、無論見ている人が誰であろうと全部をここに書いているわけでは毛頭ない。
それでも仕事用の「外向き」「内向き」の顔があるのも当然のことで、その開示度の制約を私として決められずにいる。
まあ、このブログくらいの感じも含めても私のことを良しとしてくれるくらいの方でないと、続けてくれもしないだろうなと思ったり。
当然に、仕事は真摯にやるのだけれど。
というのも、ひとつ、黙っていられないことがあって、それは「レッスンを受けただけでは上手くなりませんよ」ということである。
要は「自分で意識すること」「自分で練習すること」しか上手くなるなんてことはあり得ない。
コツを聞いたら、次の日から上手く書けるようになんてならない。
「30日で上達!」と書いてあるテキストは「あなたが30日でやった分だけ上達!」ということである。
まあ見ただけ、聞いただけで上手くなれる人がいたとしたら、別に習う必要もないと思うのでここでは置いておく。
理解をすることは非常に大切なことであるし、私もいかに理解をしてもらおうかと思って解説をしたりする。
しかし、「字が上手くなる」ということは、「緻密な運動が的確にできるようになる」ということでもあるので、それは手が、体が覚えてくれるしか方法がない。
それに、今まで何十年もそれでやってきた無意識化の癖と向き合うということは、自分と向き合うということにもなり、案外容易なことではない。
しかし、その屈強なものと向き合いながら、理解と運動によって、なりたい方向へ近づいていくのは当然誰にでも可能なこととも言える。
驚くべきことに、私たちは懇切丁寧なありがたい義務教育のおかげで、ほとんど皆記号として読むことができる字は書くことができる。
考えてみると、あらゆるさまざまな線を使った文字というものを無意識に言葉としてつらつらと書けるということはそれだけで恐ろしい技術のようにも思える。
たとえば義務教育でギターが文字ほどに社会的に必須、必修なことだったとしたら、おそらく私たちはみんなある程度速弾きなんかもできてしまうのではないかと思う。
記号として読める字が書ける、本当はそれで十分なはずだ。
そういう意味では、私も生徒さんも、まったくの同レベルである。
字なんか習う必要なんてない。
けれど、なんらか他の望みや欲を叶えたいと思うから、「自分の字が恥ずかしい」と思ったり「字が上手くなりたい」と思ったりするのではないだろうか。
それは悪いことではない、というか、むしろその欲はとても好ましいものだし、愛おしいものだと思う。
記号として読める字が書ける、その必要以上に成し得たいことがあるというのは、生きていく上でもとても良いことだと思う。
それには、字のことを好きになる必要がある。
少なくとも、興味を持つ必要がある。
私が、人の字に対してできることは、その手法をできるだけ多く、できるだけ多角の方面からアドバイスすることくらいだ。
もちろん教えるということについての手法は私はもっともっと磨かなければならないというのもあるけれど。
自分が苦手意識があることに向き合うことがいかに難しいかは、私もできないながらにギターをやるのでよく分かる。
人前で苦手なことをやることがどれほど恥ずかしく縮こまってしまうかも分かる。
それでも気になる、それでもやりたい、だからやるのだ。
物事を体得する、というのは何であっても根底にはとても近しい、いやほぼ同じ概念を持っているように思う。
私は、「きれいな字」の定義をさて置いておいたとしても、「きれいな字」が好きだ。
人それぞれ持っている「味のある字」も好きだ。
それに、どうせ一緒の時間を過ごすのであれば、当たり前にお互い楽しんでメリットを享受できたら良いね、ととても単純に思う。
熱くなってしまった。
そりゃあ熱くなってしまう。
鯛焼きを割り見て湯気に溶ける愛