つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

襟のついたジャケット

2011-11-17 23:19:01 | 日記
頑なだったものの見方や、捉え方が柔軟になってきた。
以前は楽しいと思わなかったことが楽しかったり、以前は面白いと思わなかったものが面白かったりするようになった。

そういうシチュエーションやものに多く接するようになったという単なる場慣れもある。
だけど、そうだけではないプロテクターみたいなものが重たい鎧を脱ぐように、取れてきたのだと思う。
感嘆の声は、心のままに上げていいのだと、体で分かってきた。

それは私らしくない、とか、それは人に良く思われないから、とかそういう理由で自分に正直でなかったことがたくさんあるのだと思う。
ただそれは自分の思うところ、芯まで浸食していて、こう思ってはいけない、と完全に無意識で線を引いてストップをかけていたのだと思う。
もはやどこが私自身のフラット地点なのかも分からなくなるところだったが、どうやら幸いフラット地点には立てたようである。

逆に以前より幅が狭くなってきたと感じることもある。
でもこれも正直になるという点で言えば、逆ではなくてその方向だ。
たぶん今度また正直でな方向に向かうのは無理な話だと思う。

正直であることは、ときに残酷だ。
自分ひとりで完結することはいいけれど、他人を巻き込んでの正直はあまり度が過ぎると破壊を起こす。
もうここからは堂々巡りだから、節度と優しさを忘れずにいたい。


私の愛機INFOBAR(HACCA)は滑りやすい。
愛機と呼べるほど私はスマートフォン自体に歩み寄れないでいるのだが、キャリア乗り換えまでして引き寄せられた大事なものもあるから悪くは言えまい。

マットな質感とスリムなボディがとシンプルな色合いが気に入っているからカバーはつけていない。
バッグやポケットから取り出した際に何度かするっと勢いよく飛ばしてしまったことがある。
スマートフォンって、手に収まりのよくないサイズだ。
電車のホームでそうなると携帯を追って我が身までつられてしまうから気を付けなければならない。

やっぱり寒い。
朝干して出かけた洗濯物が夜にしっとりと冷えていて、乾いているのかどうなのか判別し難い。
冬の部屋着を出そう。
冬のパジャマを出そう。



あるお知らせ

2011-11-16 13:58:46 | 日記
うそみたいな色。
うそみたいな質感。

でもほんとの色。
ほんとの質感。

ポインセチアの季節。

うそみたいな真紅。
布みたいな質感。

でもほんとの真紅。
ほんとの葉っぱ。

名も知らない濃い紫の花はうなじがセクシー。
黄色と紫のパンジーは魔王家の家紋みたいな柄をしている。
1ミリもなさそうな線みたいな足を地につけている何かの双葉の群れ。
白無垢の女の人が頬を染めているみたいに一部がピンクに染まった白い花の蕾。
自分でスポットライトを浴びているように見せかけているようなグラデーションをしたダリア。
ヤマブキ色をした雄蕊、待つは花粉。

うそみたいな色。
うそみたいな質感。

うそみたいなほんとみたいなうそみたいなほんと。



フレッシュカラー

2011-11-14 01:05:13 | 日記
私はたぶん見る人によってはおっちょこちょいなタイプだとは思われない。
私を評する言葉として「クール」だとか「そつない」とか「ちゃきちゃき」とか「しっかりしている」とか、よく聞く。
確かにそう思われているかも知れないということを自分で認識しつつ、だ。
今やそう思われている人たちへの当然の役割演技もする。

でもおっちょこちょいなところが自分の中に割とある。
おっちょこちょいは自分でコントロールできない。
一人でいるときにそうなることも時々あるが、誰かと一緒にいるときそれが出るのは、その人に対して気が緩んでいる証である。
気が緩んでいる、とは、心を開いている。
おっちょこちょいが出なければ心を開いていないか、というのは違うが、一つの指標ではある。


夏頃に予約した斉藤和義のライブに千葉まで出向く。

11月なんてまだまだ先だとその時は思っていた。
缶詰や薬の賞味期限や、2年後のオリンピックなど、確実にそのときが来ると分かっていても、現時点ではなかなか実感が持ちづらい。
それは未来の月日を経験していないからで、2013年という字面すらも今ここにあるものとしてうまく飲み込めないのだ。
でも実際にそのときが訪れる時にはその月日は現時点になっていて、当然見なれた数字である。
違和感だけが残る。

私は偏った音楽の趣味はない。
彼のこともずっと好きだったわけではない。
好きになったきっかけも覚えていない。

でも彼の書く詞が好きで彼の声が好きで、所謂バンドの音が好きだ。
せっちゃんは思ったよりも背が高くてセクシーで、45歳の人もこういう人なら好きになれるような気さえした。
月並みなことしか言えないが、本当に本当に音楽が好きでやっているんだなと思う。

観客のエンターテイメントとしてのライブと、歌い手のマスターベーションとしてのライブ。
来ている人は彼のファンなのだから、この2つが近い位置にあっていい。

一緒に行った友人は、なぜギターを弾く人にとても惹かれるのか今日納得がいったと言っていた。
その理由はここには書けないが、いろんなことがそれに通ずるものだと思う。

千葉からの小旅行から都心に戻り、日曜日が休みの店が多い私の住む街。
何年かぶりにサイゼリヤに入る。
高校の同級生の私たちは、高校生のときみたいに長居はしなかったけど、ファミレスは時によってはとても居心地のいい場所だと思う。

たくさん笑った。
たくさん喋った。
なんとも贅沢な休日。



水色のオーラ

2011-11-13 13:59:25 | 日記
ピンポン菊に、巨大と言ってもいいくらいの菊の花。
私の一番の歓声は菊だった。

まんまるで、どこから見てもまんまるで、花びらがぎっしりでまんまる。
別名「ぽんぽん菊」というらしい。
連れて帰りたいくらい愛らしくて、撫でたいけど人の体温はきっといいものじゃないし飾り物なので手を控える。

あと、こんなに大きな菊の花見たことないくらい大きな菊の花。
猫の頭かそれ以上ありそうな花の頭に、しかもそれが十数個の群れ。
艶やかで多肉で弾力がありそうな花びらがこちらもぎっしり。
これも一つだけ連れて帰って毎日向き合って見届けてみたい。

日本における菊の花は仏花のイメージが強い。
切り花としては日持ちするから、そして香りも強くないからお供えの花として適したものなのだろう。

目黒雅叙園「百段階段」で行われていた假屋崎省吾の花展に出向く。
混雑などさっぱり予想していなかったのだが、会場に入るのに行列、中に入っても立ち止まることをほとんど許されないくらいの人ごみだった。

贅を尽くした作品は百段階段のある立派なお屋敷の各部屋にめいっぱいあった。
立派なバラや立派なカラー、立派な牡丹、立派なダリア。
流木や木そのもの、花器やその他装飾品など、全体的にかなり主張が強いものであった。

私は広く知られた流派の生け花とは「侘び・寂び」を重んじて、静かさが最も大事なもので、限られた中での表現だと思っていた。
「侘び・寂び」を前面に押し出しながら、プラスで雅やかな感じや凛とした感じを乗せるイメージだった。
しかし草月流がこの表現を良しとするのであれば、全面に押しているのは「侘び・寂び」では全然なく、寧ろ派手さや奇抜さの方であるように見えたしアクロバティックと言ってもいいくらいだ。
その中でも枝の角度や色彩の配置などは細かいのだとは思うが、圧倒されるほどの主張力の方が断然勝っている。

私は単純に圧倒されたいと思っているからその点いいのだが、色彩感覚は私は好みではなかった。

一緒に行った私と同等の方向音痴の友人と、激しくお喋りしながら目黒駅に向かっていると、全くの逆方向であることに気づく。
いつものことだが、感覚に従って目的地を目指すと本当に悉く逆だ。
じゃあ感覚の逆をいけばいいかというわけでもなく、必ずしも逆が正解なわけではなく、あてにならないだけだから逆といのも役に立たない。

私は少し久しぶりにお酒を飲んだ。
帰り道、ふらふらとしていたのになぜか『ヤコブへの手紙』をGEOBOXで借りた。
家に帰って、寒いから床では寝られないとベッドに吸い込まれる。




柔らかそうな白

2011-11-11 13:00:12 | 日記
小雨でも自転車に乗ってしまうし、出かけに降っていなければ後に降るとわかっていても乗っていく。

でも私はあまりバランス感覚の良い方ではないので傘をさして自転車に乗ることはできない。
傘か、ハンドルか、となったときに咄嗟に反応できないし、バランスが取れなくてたぶん曲がれない。
仕方ないから傘をささずに濡れて帰る。
翌日晴れていたらそのときに自転車がないなんて嫌だから自分が濡れても連れて帰る。

そのくらい最近の移動はほぼ自転車だ。
そうなってから、私はますます高いヒールをはくようになった。

ただ、びしょ濡れで出社するわけにもいかないので、朝から本降りであれば歩いて行かざるをえない。
朝窓を開けると雨が降っている。
私が職場を変わって1か月半、平日の朝、初めて雨が降った。

カッパという手段はなく、仕方がないから歩いていく。
いつもと感じる空気の速さや、聞いている音楽の速さまで違って聞こえる。

寒い雨の日の朝の空気は、からだを浄化してくれるような、優しくからだに染み込むような、冷たくて清らかな空気が心地いい。

私は夏が好きだから、夏の終わりから冬の到来を憂えてしまう。
それに加えて「夏好き」という頑ななレッテルを自分で貼っているので冬のいいところを見たくなくて、たとえ冷たい空気がからだにとても心地よくても、気づかないふりをするか、否定するかしてしまう。

確かに夏が一番好きで、暑いのも、暑い季節にする涼しいことも好きだ。
しかし「春夏秋冬」で春や秋が好きだという中間を取りたくなくて、そんなことでそんなことを言っても全く何にもならないのだが、ちょっとだけとんがっていたかったのかもしれない。
そう、とんがりたかった。とんがりを見せたかった。

小さな私の、小さなとんがり。

自己暗示の類のものは、時によっては有効であるが、自分に対する無意味な牽制はやめたい。
それに、心地いいと感じることが多いのはいいこと以外の何物でもない。

明日は暖かくなるらしい。
私は寒暖の差、というもので風邪をひいたことはおそらくない。