ワーカホリックとは、「仕事中毒」または「仕事(職業)依存症」とも呼ばれるもので、一般的に私生活の多くにまで犠牲を払い、職業であるはずの仕事に打ち込んでいる様子を言うらしい。
“プライベートの多くの犠牲”という意味を内包するとすると“楽しそうなワーカホリックな人”というのは皮肉だろうか。
あくまで私個人的な見解だが、誰かが何かをするのを見ていると、その人が本当にそれを喜んでしているかどうか、というのがわかる。
それをしているときの興奮度合いだったり、それを話すときの高揚して早口になったり、得意げな表情だったり笑顔だったりでそう感じることがある。
おそらくそれはごまかせないものであって、その瞬間を垣間見るのは周りの人間としてとても喜ばしいことだ。
私もなるべく多くのことを、本当にそれを喜んでする、という状態にもっていきたい。
花を見たり、素敵な言葉を交わしたり、字を書いたり、音楽を浴びたり、私も以前に比べてそういう瞬間にだいぶ上手く立ち会えるようになった。
きゅんとする、とか、どきどきする、とか、言葉にできない、とかそういうこと。
このあたりの感覚は一時的にそのように見せたりできたとしても、最終的に自分はごまかせないしどうせばれてしまう。
仕事というのは面倒なことやトラブルがつきもので、すべてがクリアに喜んでするような類のことではない。
ただ、その中に自分の喜んでする、喜んでしたいという内容が含まれていることはとても幸いなことだろう。
社会人1、2年目の頃、木曜日にはあと一日だと思い、土曜日の夜にはあと一日経ったらまた5日も始まってしまう、と嘆いていた。
1週間というサイクルがぐるぐると廻り、土日に麻薬みたいなもので酔って、月曜の朝には5日分の麻酔を打って出かける。
だから月曜日は朦朧としていた。
今となっては何がそんなに嫌だったのかよく思い出せないが、仕事から解き放たれたいといつも思っていた。
2年前に違う仕事に就いたときにもすでになかったが、今は本当にそういう思いがない。
私は所謂クリエイターではないけれど、“ない”ものが“ある”ようにするのは大変だということを身に沁みながらも、積み上げていく作業は面白い。
“ある”ものを回すことしかしたことがなかった私が苦心しているのが面白い。
小心者の私を突き放しつつも一緒にやってくださる仲間がいることも面白い。
本物のワーカホリックな人に比べたら全然ワーカホリックではないけれど、ここに書けるくらい、私は仕事が好きなんだと思う。
考えるんじゃなくて、感じてみて。と言われて、感じてみる。
本当に大切なことは、理性よりも五感優位。
花を見に行くとか、もらうとか、買う、とかがしょっちゅうあるわけではないから、ブログの最後の写真のために近所の人の家の花壇やら公園の木やらを撮影する。
花束や花畑のように、群がって咲く花も圧巻で美しい。
でも、都会の民家の花もいろんな美しい色を出している。
携帯のカメラを向けると、顔認識機能が花を顔として捉える。
このパンジーの構図は一人が顔面アップで変な顔をしていて、後ろは写る気がないのにばっちりピントがあって写ってしまった人。
二人とも、笑っている。
“プライベートの多くの犠牲”という意味を内包するとすると“楽しそうなワーカホリックな人”というのは皮肉だろうか。
あくまで私個人的な見解だが、誰かが何かをするのを見ていると、その人が本当にそれを喜んでしているかどうか、というのがわかる。
それをしているときの興奮度合いだったり、それを話すときの高揚して早口になったり、得意げな表情だったり笑顔だったりでそう感じることがある。
おそらくそれはごまかせないものであって、その瞬間を垣間見るのは周りの人間としてとても喜ばしいことだ。
私もなるべく多くのことを、本当にそれを喜んでする、という状態にもっていきたい。
花を見たり、素敵な言葉を交わしたり、字を書いたり、音楽を浴びたり、私も以前に比べてそういう瞬間にだいぶ上手く立ち会えるようになった。
きゅんとする、とか、どきどきする、とか、言葉にできない、とかそういうこと。
このあたりの感覚は一時的にそのように見せたりできたとしても、最終的に自分はごまかせないしどうせばれてしまう。
仕事というのは面倒なことやトラブルがつきもので、すべてがクリアに喜んでするような類のことではない。
ただ、その中に自分の喜んでする、喜んでしたいという内容が含まれていることはとても幸いなことだろう。
社会人1、2年目の頃、木曜日にはあと一日だと思い、土曜日の夜にはあと一日経ったらまた5日も始まってしまう、と嘆いていた。
1週間というサイクルがぐるぐると廻り、土日に麻薬みたいなもので酔って、月曜の朝には5日分の麻酔を打って出かける。
だから月曜日は朦朧としていた。
今となっては何がそんなに嫌だったのかよく思い出せないが、仕事から解き放たれたいといつも思っていた。
2年前に違う仕事に就いたときにもすでになかったが、今は本当にそういう思いがない。
私は所謂クリエイターではないけれど、“ない”ものが“ある”ようにするのは大変だということを身に沁みながらも、積み上げていく作業は面白い。
“ある”ものを回すことしかしたことがなかった私が苦心しているのが面白い。
小心者の私を突き放しつつも一緒にやってくださる仲間がいることも面白い。
本物のワーカホリックな人に比べたら全然ワーカホリックではないけれど、ここに書けるくらい、私は仕事が好きなんだと思う。
考えるんじゃなくて、感じてみて。と言われて、感じてみる。
本当に大切なことは、理性よりも五感優位。
花を見に行くとか、もらうとか、買う、とかがしょっちゅうあるわけではないから、ブログの最後の写真のために近所の人の家の花壇やら公園の木やらを撮影する。
花束や花畑のように、群がって咲く花も圧巻で美しい。
でも、都会の民家の花もいろんな美しい色を出している。
携帯のカメラを向けると、顔認識機能が花を顔として捉える。
このパンジーの構図は一人が顔面アップで変な顔をしていて、後ろは写る気がないのにばっちりピントがあって写ってしまった人。
二人とも、笑っている。