つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

泥水の入った水風船

2011-11-09 20:02:11 | 日記
ワーカホリックとは、「仕事中毒」または「仕事(職業)依存症」とも呼ばれるもので、一般的に私生活の多くにまで犠牲を払い、職業であるはずの仕事に打ち込んでいる様子を言うらしい。
“プライベートの多くの犠牲”という意味を内包するとすると“楽しそうなワーカホリックな人”というのは皮肉だろうか。

あくまで私個人的な見解だが、誰かが何かをするのを見ていると、その人が本当にそれを喜んでしているかどうか、というのがわかる。
それをしているときの興奮度合いだったり、それを話すときの高揚して早口になったり、得意げな表情だったり笑顔だったりでそう感じることがある。
おそらくそれはごまかせないものであって、その瞬間を垣間見るのは周りの人間としてとても喜ばしいことだ。

私もなるべく多くのことを、本当にそれを喜んでする、という状態にもっていきたい。
花を見たり、素敵な言葉を交わしたり、字を書いたり、音楽を浴びたり、私も以前に比べてそういう瞬間にだいぶ上手く立ち会えるようになった。
きゅんとする、とか、どきどきする、とか、言葉にできない、とかそういうこと。
このあたりの感覚は一時的にそのように見せたりできたとしても、最終的に自分はごまかせないしどうせばれてしまう。

仕事というのは面倒なことやトラブルがつきもので、すべてがクリアに喜んでするような類のことではない。
ただ、その中に自分の喜んでする、喜んでしたいという内容が含まれていることはとても幸いなことだろう。

社会人1、2年目の頃、木曜日にはあと一日だと思い、土曜日の夜にはあと一日経ったらまた5日も始まってしまう、と嘆いていた。
1週間というサイクルがぐるぐると廻り、土日に麻薬みたいなもので酔って、月曜の朝には5日分の麻酔を打って出かける。
だから月曜日は朦朧としていた。
今となっては何がそんなに嫌だったのかよく思い出せないが、仕事から解き放たれたいといつも思っていた。

2年前に違う仕事に就いたときにもすでになかったが、今は本当にそういう思いがない。
私は所謂クリエイターではないけれど、“ない”ものが“ある”ようにするのは大変だということを身に沁みながらも、積み上げていく作業は面白い。
“ある”ものを回すことしかしたことがなかった私が苦心しているのが面白い。
小心者の私を突き放しつつも一緒にやってくださる仲間がいることも面白い。

本物のワーカホリックな人に比べたら全然ワーカホリックではないけれど、ここに書けるくらい、私は仕事が好きなんだと思う。


考えるんじゃなくて、感じてみて。と言われて、感じてみる。
本当に大切なことは、理性よりも五感優位。

花を見に行くとか、もらうとか、買う、とかがしょっちゅうあるわけではないから、ブログの最後の写真のために近所の人の家の花壇やら公園の木やらを撮影する。
花束や花畑のように、群がって咲く花も圧巻で美しい。
でも、都会の民家の花もいろんな美しい色を出している。

携帯のカメラを向けると、顔認識機能が花を顔として捉える。
このパンジーの構図は一人が顔面アップで変な顔をしていて、後ろは写る気がないのにばっちりピントがあって写ってしまった人。
二人とも、笑っている。



覚悟

2011-11-07 22:11:08 | 日記
最後に美容院に行ったのは去年の12月くらいだった気がする。
平均年1,2回だから通常のペースだ。
毛量は多くはなくコシのない猫っ毛で、かけたパーマはもうこのまま取れないと思われるし、美容院に行かなくてもいいようにまだらにしか染めないから特に困ったことにはならない。

すこぶる経済的な髪の毛だから、シャンプーだけでもと最近少しだけいいシャンプーに変えた。
暮らしのクオリティを上げることは思い切りが要る。
そしてその後下げることはほぼできないに等しい。

猛烈なスピードでロングヘアに戻ろうとしている私の髪の毛はもう既に胸の辺りまできた。
あと30センチくらい伸びてほしい。
もう一度「長すぎてちょっとこだわりが強すぎる人」まで一旦いきたい。
その前にもう少しハイライトでウィービングをしたい。

とんでもないお喋りの私が、ああいう場でのお喋りが本当に好きではない。
と、以前話していたら「万が一事故が起きたときのために距離縮めておくんだと思うよ」と美容関係でも何でもない人が言っていた。
本当のところどうかは知らないがそうだとすると至極納得である。

その人は私がドアや蓋などいろんなものを閉められない癖を「怖がりからきているんだよ」と言った。
またその人は、DJは何がどういう風に面白いのかということを「その場の雰囲気をじらしてじらして盛り上げることができるその牛耳って気持ちよくさせる感じがいいのだ」と説明した。
これもまた私をスコンと納得させた。


がむしゃらとか死ぬほどとか、どうやればその状態になれるだろう。
これまでスマートさを追い求めてきたというのも間違いだが、とことんええかっこしいの私は形振り構わない頑張り方を知らない。
かといってやらなくてできるタイプでも全然ないから、大人になってからはとても怠慢になったが、陰で努力は一応する。
髪を振り乱して頑張るなんてしたいわけではないのだけど、振り乱さないまでも、頑張ったと真正面向いて言えるくらい頑張らないと勝てないのだとは思う。



2Bags

2011-11-06 00:57:59 | 日記
私、最近感性が変わったのだろうか。

ウッディアレンは好きだけれど、三谷幸喜の作品は『古畑任三郎』『振り返れば奴がいる』以外面白いと思ったことがなかった。
彼の得意とする喜劇が私はよくわからないでいた。
『THE有頂天ホテル』も『ザ・マジックアワー』もDVDを借りて途中で寝てしまって観返すことがなかった。
しかし一般的に幅広く誰が見ても人が面白いと思う作品であることが多いようだから、私は彼の面白さが理解できなくて残念に思っていた。

映画『素敵な金縛り』の公開の宣伝で作られたTVドラマ『ステキな隠し撮り~完全無欠のコンシェルジュ~』を観る。
いつか彼の作品を面白く観れるようになりたいと思い、でもまた寝てしまうかもしれないからと片手間に物を整理しながら流し見していた。

なんだろう、なんでだろう。
すごく、面白い。
深津絵里がいいからだろうか。

流し見ていた前半20分くらいをもう一度きちんと見たいくらいだ。
三谷幸喜は自分の頭の中にある溢れんばかりの発想を、できる限り余すことなく、実際にはそれは不可能だが、見せたい魅せたいというのが強いのだろう。
そういう発想が全体的な設定にぶれることなく台詞や演技の端々に織り込まれている。
ただトゥーマッチになってしまうと残念なことになりかねない気もする。

何の流れでもいい、面白いと思えることや楽しいと思えること、正の感情を起こすものが増えることは何であれ良いことである。
2ヶ月もすればギンレイホールで上映しそうな気もするが、映画館に観に行こうか。


8月くらいにとても慌ただしく書いた東京書作展の少字数部門で、結構いいところまで残ったらしい。
光栄、なことであるが、いや、光栄でもない。
私は自分でどんな感じで書いたのか、それに覚えがないのだ。
教室の大きな筆を借りて、4種類の字を8枚ほど、1時間で書いたものだ。

『蕾』『群陰』『飛龍』『健』
のうち、『群陰』(諸々の憂鬱の意)と『飛龍』を出品した。
『蕾』以外はその場で参考の字が回ってきたのがそれだった。
あの時私はまさに群陰を抱えていたから、タイミングとはあるものだと思っていたが、成績が良かったのは『飛龍』の方だったようだ。


少し久しぶりにピアスを買った。
ピアスについては一通りの斬新さを見尽くしてしまっていたようで、これというものはなかったのだが、白鳥モチーフのものとやけに長い華奢なデザインのものを2つ。

さーという静かな音で、仄かに甘そうな秋の雨が降っている。
今朝洗濯をして乾かなかった布団カバーを布団乾燥機で乾かす。
秋の夜長、群陰。



チャクラ

2011-11-03 23:49:10 | 日記
菊地成孔&南博によるデュオと、フラワーアーティスト東信による幽玄なる一夜 @LAFORET SOUND MUSEUM

恋する溜め息ってこんななのかもしれない。

もともと3月に予定されていたライブだったらしいが、地震の影響で今日に延期されたらしい。
私は3月の時点ではこれを知らなかったのだから、巡り合わせということにしよう。

カサブランカが妖艶に赤いライトで照らされた会場は、3人の誰かのファンである人々で埋め尽くされた。
3人の誰かに心射抜かれている人々は皆高揚しているようだった。

私はフラワーアートがメインでジャズを聞きに行った。
ジャズとは何なのか、それすらもよくわからないがなんとなく良さそう、というくらいだった。
東さんのおっかけみたいになっているが、まあそれも否めないのだが、菊地成孔さんも何年か前から知っている。
音楽は全然よくわからないのだが、菊地さんのエッセイを読んだことがあって、文筆家としての彼にとても興味があった。

「これから約70分もMCなしでセッションを続けるので、僕の予想ではこの会場の3割くらいの人が寝てしまうんじゃないかと思います。
でも僕らの音楽で気持ちよくなっていただいて眠ってもらえるのは大変光栄なことなので、どうぞ遠慮なく寝てください。
僕らは皆さんの寝顔を見ながら演奏するんで。」

と菊地さんは最初に挨拶をした。

映画館で2時間ずっと起きていることがあまりできない私が、言葉のない音楽70分の間ずっと起きていて酔いしれていた。
目を閉じて聞き入っていて、目を開けると、ライトの具合でステージを覆っている花たちが表情を変えている。

言葉のない音楽がこんなに身体に入ってきたことは初めてかもしれない。
息遣いがそのまま音として伝わる、その生の感じがとても心地いい。
私は最中にいろんな考え事をしたけれど、その考え事は長持ちせずに、音と響き合って宙に消えていった。

セッションが終わって菊地さんが喋る。
ウィットに富んでいて、会場の空気が彼に攫われる。
なんてかっこいい人なんだろう。

東さん本人にもお目にかかれた。
前に出ることを好まない方のようで、菊地さんに紹介されても会場の端で会場の視線を避けていた。

生のサックスと生のピアノ、生の花。

会場を出て私はしばらく、深呼吸と溜め息を繰り返して恍惚としていた。



はためく

2011-11-02 15:15:07 | 日記
私は昔から人に恵まれている、と思っている。
昔から、というのは上京してから、つまり大学入学してからである。

私の周りには優しい人が多い。
私が申し訳なくなってしまうくらい、優しい人が多い。
みんなこぞって物事の感度が高い。
そしてみんなそれぞれ自分の言葉を持っていて、その言葉はまた美しくて、その美しい自分の言葉で私を鼓舞してくれたり、褒めてくれたり、励ましてくれたりする。
そしてみんないつも、私が思う以上に優しい。

尊重、ときどき、干渉。
そういう関係。

30歳の記念すべきお誕生日にと、花が大好きな私から、花が大好きな友人へ、大好きなフラワーアーティストの作品を贈った。
私も生の作品を見たかったから、友人宅まで駆けつけて、その作品に会いに行った。

真っ赤なバラを入れてください。
丸くて立派なダリヤを入れてください。
葉脈がはっきりわかる緑の葉っぱを入れてください。
ハッピーなイメージにしてください。
色とりどりの花を使ってください。
できるだけ奇抜なデザインにしてください。

これが私の注文したことだった。
色とりどりで、生命力が漲っていて、一つ一つが主張をしていて、でも全体としての世界観もある素晴らしいものだった。
今回は贈る彼女が喜ぶイメージと私の個人的な趣味のイメージが近いと思ったので、私の自己満足も大いにあった。

私はプレゼントだということを少し置いておいて、最も美しい瞬間の花たちを携帯のカメラでたくさん撮った。
私の既に花だらけの待ち受け画像にも追加で設定した。

私はその彼女に昨日相談ごとをしていた。
いろいろと言ってくれる中であの花の今の姿の写真を送ってくれた。

既に感極まっていたのも手伝って私は泣きそうになった。
そこには、朽ちつつある花たちが写っていた。
時間の経過と、それとともに朽ちるという真実が歴然と写っていた。

最も美しいのは少しの間だけで、朽ちて枯れていくことくらい知っていたはずなのに。
でも、私の待ち受けの写真は今もとても鮮やかで花盛りの写真だから。
悲しいとか切ないとかではなく、大事なことを急に思い出した時に呼吸が締め付けられるような驚きの感情に襲われた。

ここの作品は「朽ちたところまで見てほしい」と朽ちることを想定して作られている。
だから確かに、立派に朽ちている。

人はすぐに朽ちるわけではないけれど、不可抗力な流れの中で、何もかもが変化が止まることはない。
結局、自分一人の時間しか生きられないし、自分一人の痛みしか本当にはわからない。
ある人の時間はある人のものだし、ある人は自分とは関係のないところでも変化を続けていく。
でもそれなのに交われたり共鳴できたりシンクロできる瞬間があるのはなんと奇跡的なことだろうと思う。
すべての変化を前提に、誰かを理解したいと願ったり、誰かに理解してもらえた気がすると喜ぶことで、艶を増すこともがあってもいい。

人に恵まれているなと思えることはとてもとても幸せなことで、私自身の自慢でもある。

花のように美しい色は出せないけれど、
花は短い間で咲いて短い間で朽ちていくけれど。

私は人なので人らしい美しい色を持ちたい。
私は人なので人らしく私らしく立派に、いずれ朽ちていきたい。
欲を言うならそれを誰かが見ていてくれたら、嬉しい。

たくさんのいろいろなつぼみを持っていて、一つ咲いて一つ朽ちる、そして次のつぼみが花開く。
つぼみは“楽しみ”だ。