つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

羨ましいんだろう

2013-05-20 00:18:58 | 日記
多摩川の程近くに住んでいる友人と「ピクニックをしよう」ということで土手を下りたところで小さな簡易テントを立ててお昼を食べる。

バケットサンド、ショートパスタ、にんじんとベビーリーフのサラダ、マジックで顔が書かれたゆで卵、生ハム、チーズ、オリーブ、ワイン、ペリエ。
重たいフォークに紙ナプキン。
そんな美味しそうで楽しげなものたちを、ピクニックなバスケットに詰めて。
バスケットの取っ手は実の付いたフルーツのようなもので飾り付けられている。

彼女はとても料理が上手で、それだけでなくて彼女は全てをひとつの絵にしてしまうような世界観を持っている。
何にしても、それを完成されたそれっぽく見せる、ということは案外難しいように思う。
昔から、彼女はいとも簡単そうに何でも、それを完成されたそれっぽく見せる。
そうなるともう、それは“それっぽい”のではなく、確立された“それ”になる。

彼女の創り出すものを見ていると、私は川内倫子さんの写真を思い出す。
それはテイストや雰囲気が似ているということではなくて、何気ないそれを1枚のそれとして成り立たせる、ということにおいて。
川内倫子さんのブログの写真は、いつもそれ1枚で成り立つ。
すごいなあと思う。

野球少年たちがほんの2メートル横で腹筋やら背筋を行っているを横目に、お姉さんたちはワインを開け、空ける。

ペリエの緑の瓶がなぜか素敵に思えてとても贅沢なレモン風味の炭酸水。
生のトマトやピーマンが良い塩梅で、それを挟むバケットは美味しいパン屋さんに限る。
とろんとした生ハムが当たり前のように赤ワインとマリアージュ。
チーズのアソートメントの一つひとつが良くできていてちょうど良い。

この辺りに出向くと、多摩川のおかげでものすごく開放感があり空が広くて気持ちが良い。
いっそのことこの辺りに私も住んでしまいたい、と一瞬そう思ったりもするけれど、私はそれをも蹴散らせるくらい渋谷が苦手である。
東急線沿いは、私が探すような物件がたくさん出てくるのだけれど。

先日、心が折れかけていたマーシーのギターソロ。
レッスンでキーの音と、所謂普通の音階を教わったのでその考えを元に耳コピで音を探ってみる。
その時私は携帯を家に忘れてしまってソロの部分をその場で聞いてもらうことができなかったこともあり、やっぱりそのまま教えてくださいとは言い出せず、理論的なことを教えてもらった。
何日か経過してやってみると、おそらく教わった10%くらいのことしか理解はできていないのだと分かったけれど、それでも何とか完全な迷子にならずには済んで、「月の爆撃機」のワンフレーズの音を拾うことができた。
人が聞いたらどこの部分をやっているのかわからないほど、それはそれはたどたどしく。

となると、やはりマーシーが出しているような音が出したいのであって、でもどのつまみを回してもそうはならないようだから、これはアンプのせいなのだろうか。
弾き方にも問題があるのだろうか。

何かを趣味で始めるとき、それに初めて触れて初めてできたという興奮がある。
でもその先は、止められないくらいの衝動が続かない限りは、ある程度“できる”ところまで努力で進めないと面白くならない。
それが越えられなければ、たぶんそれを手放してしまうことになる。
手放してはいけないなんてことは全然ないし、でも、越えればきっととても面白いということも容易に想像がつく。

まだ、ある程度“できる”ところまでは全然行けない。



1周目と5週目、そして逆走

2013-05-17 21:54:50 | 日記
一つの大きな通過点のようなものを越えた。
私にとって心の内を露わにするということは、あまり経験がない。
あれは今の私にとって、でき得る露わだったのではないかと思う。

私が直接送りつけた方、先日のブログ記事からわざわざメールを送って下さった方。
何名かの方々にお読みいただいて、ご面倒をおかけして、尚感想を下さる方もいた。
私から漏れ出でてしまった何かを読んでいただけて、とてもとても、嬉しくありがたく思う。

親愛なる友人たちは「よかったよかった」と皆言ってくれた。
文章が「よかった」ということではない。
「あなたが本当のことを言えて、よかったよかった」と。
まるで子犬を撫でる「よしよし」かのように、「よかったよかった」と言ってくれた。

あそこまでの開示を私はしたことはたぶん誰にもないのだけど、親愛なる友人たちはどうやら皆私が本当に言いたかったことなどとっくにわかっていたようで、だから出てきた言葉が「よかったよかった」だったのだと思う。

私が本当に思うことを、私の方法で露わにしたかった。
その方法でないと私はそうすることができなかった。
回りまわって考えた末のそれであれば何か形に残したかった。

時系列に追ったエッセイも書こうと思えば書けたけれど、エッセイでは思いにならなかった。
何かを写実的に描くことと、思いを乗せることには明らかな差があるのだと思う。

それを露出狂的側面を持つ私が皆さまに読んでいただくことを選んだ。
どのレスポンスも私は受け入れるし、それによって書いたものや私の思いが変わることが少なくとも今はない。

あれを書いたことは、自分で立ち戻れないようにしたということでもある。
それこそ「なりたい自分」に向かえるように、自分で一歩を定めたのだと思う。
「出発地点をひとつ定めたのかなあと思う」と言ってくれた方がいたけれど、まさにそういうことだと思う。

あの「手紙」が空を切っても、宙に溶けても、私は書いて良かったと思う。
私の身体から社会性が薄くなっても。



バズーカ砲

2013-05-16 14:35:36 | 日記
トリートメントを変えたらやたらと髪の毛が絡まるようになった。
今話題の、というにはとても遅すぎるけれど、ノンシリコンのものにしたのだが。
それほど理由はなくて、何となく、ドラッグストアでボトルが気に入ったからである。

私の髪の毛は猫っ毛なものだから、量はあるけれど細くてコシがない。
毛先にはいつぞやにかけたパーマが残っているから、すこしウェーブしていて絡まりやすい。
のだけれども、今まではそんなことはなかったから、やはりこのトリートメントのせいだと思う。

シリコンは完全人工物で、髪を修復する機能はなく肌や頭皮に蓄積して髪の健康を妨げる、ということがあるらしい。
が、これまで私はそれほど髪の傷みについて悩みを持ってこなかったし、全然見てはいないけれどおそらくシリコン入りのシャンプー&トリートメントであっただろうと思う。

私がいつも洗髪による髪の状態の良し悪しを感じるのは、シャワーの水である。
そういえば、以前いもうとと住んでいたマンションは水の質が悪かった。
今思えば、ごはんを炊くにもおいしく炊けなかったのはあの水が行けなかったのだというのが私といもうとの見解でもある。
何となくではあるが、その当時の方が髪の状態は良くなかったような、気がする、とても何となく。

今住んでいるところの水はさほど悪くはないけれど、実家に帰るとそれが如実にわかる。
髪の指通りがとてもなめらかになり、毛先まで潤う感じがする。
たった一日で。

実家のシャンプーは度々詰替えられており、その度にそのボトルとの前回のものとも違うものが入っている。
以前ちょうど同じシャンプーを実家でも東京の部屋でも使っていただことがあって、それでもその結果は如実に出た。

それはいもうとも感じることらしく、いつも口を揃えて、「やっぱり水が違う!」と言う。
そうすると、けいこは「あんたらは双子にしかわからんこと言うでよくわからんわ」と言う。
確かに、私たちは、他人が想像しづらい体のことを2,3持っている。
と言っても、二卵性のためあまり関係ないものだと思うのだが。

と、話は逸れてしまったが、早速シリコンのトリートメントを買いに行こうと思う。

そろそろ、日常的に使うものに“本当の良質さ”を求めていきたく、化粧品については少し自分に合うものが見つかってきた。
しかしシャンプーはまだジャケ買いしてしまう。
以前「ケラスターゼ」を使っていたときに、シャンプーで髪はこんなに変わるのか、と感動したことがあったのだが、どうしても香りが私には受け付けなかった。

自分に入れるものは自分で判断したい。
よく分からないときは、体に聞けばいい。

美味しいものが美味しいのは、私しか知らない。
良い香りのものが良い香りなのは、私しか知らない。



明日からは

2013-05-14 23:48:48 | 日記
ずっとどうしてもやりたいと思っていたことがあった。
年末までに、それが3月までに、となって、怠慢な私はあくまで怠慢で、5月になってしまった。
でも、やっぱり新緑の季節に後押しされないと書けなかった。

それは、私の中にある父への思いとその思いを抱いた私自身を吐露することだった。
真っ向から向き合うことだった。

最初は小説という形で、普遍性を持たせて書こうかと思っていた。
タイトルも決まっていた。
ただ、いざ書き始めると私には小説のプロットを組み立てる力はなかった。
では、自叙伝のようなエッセイだろうかと思って書いてみた。
でも、書いてみると案外私が揺さぶられなかった。

それではもう、と自分の感情を一番逆撫でするようにしたのが、今回書いたものである。
随分と当初の思いからかけ離れた。

書いていて、初めて知る自分の思いもあった。
そうか、私はそんなふうに思っていたのか、と自分で驚いた。

正直、あまり見直していない。
開いた途端にまた泣いてしまうから。

私はこれを手元に置いておくためだけに書いたわけではない。
誰かに見てもらうことによって、その全部を受け入れたいと思う。

それで、それはそれとして、これからも自分の歩を進めていきたいと思う。

このブログの場所にはそれは私自身があまり相応しくないと感じるのでここにアップはしないつもりです。
いつも「つぼみな日々」をお読みいただいている皆さまで、もしとても個人的な感情を見ていただけるという方がいらっしゃいましたら、下記メールアドレスまでご連絡ください。
まあブログでさえとても個人的なものではありますが、もっともっとずっと個人的なものです。
もちろん匿名で構いません。
拙く、青く、幼稚で、でもこれが今の私というもので、本当のことです。
少しでもどなたかの目に触れることができるのであれば、幸いです。

jesuisemiko★yahoo.co.jp
★の部分を@にご変更ください。



どうして私が

2013-05-13 22:49:28 | 日記
今日も牛肉に打ちのめされている。
体が牛肉に支配されているようだ。

体に拒否されることはしてはいけないとわかりつつ、いい肉なんて食べてしまったものだからその倦怠感といったらない。
肉を食べると元気になる、というのはたぶんそうなのだと思うけれど、私に限っては良い牛肉を食べると翌日の生気を奪われる。
早くこの倦怠感から抜けたいのだけど、なにせ体と相性の悪いものだから消化にも時間がかかる。
焼肉は、牛ではなくて、豚か鶏にしたい。


また新しく全然知らない人たちが演奏するジャズバーに行く。
ピアノ、ドラム、ウッドベース、サックス、トロンボーン、トランペット。
全員が女性のバンド。

私は聴いている間、なんだか弱い、と思っていた。
私には未だに演奏技術についてや、“良い音”とかそういうことが全然分からないのだけど、自分の中で「あぁいいね」かそうでないかの判断はできる。
私は元々とてもうるさい音が好きだし、単純に音が小さいとか、場所が少し広いとか、そういう演奏者が出す音以外の要因なのかと思っていた。
いやでも、やっぱり私の中に入り込んでくるのは、単純に音が小さくても、場所が広くても、そんなことに関わらずあるものなのだとは思う。

ジャズバーを後にして、一緒にいた方の感想は「パンチがない」だった。
おそらく私の1000倍くらいジャズを聴いている方だから、私が感じたことは間違ってなかったのだなと思う。
ついでに、“良い音”は出しているんだけどね、と言っていた。

本当は、人がどうこうではないし、音が小さいとか、場所が広いとかそういうことも込みで、自分が「良かった」と思うかを感じればいいだけだ。
今回私が、なんだか弱い、と思ったのは私にとってただそれだけで成立することなのだ。
でも、自分が精通していないジャンルに関して、精通している人の意見というのは、安心感があるものだなあと思ったりもする。

また、一緒にいた方は、演奏を終えた演奏者たちに「最高だった」と言った。
その方が演奏者たちのやる気が高まるから、次により良い演奏が聴ける、と言っていた。

それもそうかもしれないけど、私はあまりそういうことを言わない。
思っていないことを口にすることが得意ではない。
そういうふうにした方が良い場面、特に仕事などでは、多々あると思うし、そのときに瞬間的にこのことを考えることがあるのだが、やはり思っていないことは言えない。
思っていることを言わない、ことでぎりぎりの失礼さになっているのだろうけれど。

本当に良いものに出会ったときに、本当に素晴らしいです、と心から言いたい。
特に、自分の感動を起こすような対象のことについては。
それが綺麗事だと言われても。