つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

加速して

2013-12-23 02:59:24 | 日記
友人が終電を逃したので、久しぶりの朝帰り。
最近の私は、朝に起きて日中活動している大半の人と時差が7時間くらいあるので、真夜中は元気だ。
朝5時くらいになるとだんだんと本格的な眠気に襲われてくる。

カラオケで、9割くらいブルーハーツかハイロウズかクロマニヨンズの歌を歌いながら、マーシーの詞の世界観にまるごと触れてみたり、多くの曲にまたがって出てくる言葉を拾ってみたり。
ヒロトの歌い方ができないのは、ヒロトはアップビートの声の出し方が非常に多いからだと友人が言うので、どういうことか2回説明してもらってもよく分からなかったり。

私が歌詞を書道で書き起こしているのも、カラオケで歌うのも、どちらも似たようなもので、何回やってもぎゅうっとなったり、ときに新しい発見をしたりする。
自分のプレイリストに入っていなくて、あまり聞いていない曲を友人が聞いていたりして、それを友人が歌うとまた改めてその曲を認識する。

洞窟みたいに暗いバーで、私は何かとても小さなことを話していた。
いや、私にとってはとてもとても大きなこと。
しかし口に出してみると、当人の私が聞いてもとても小さなことのように思えた。

友人はいつも私の話をバカにしないで真剣に聞いてくれるけれど、バカにされても仕方のないことを私は言っているのだなと思った。
でもそれ自体が仕方のないことで、私はそういう心の持ち主だということからは、何か心の激震でもない限り、逃れることはできない。

一応「忘年会」という名のものだったけれど、何も年を納めるようなことをしないままできないまま、一応「良いお年を」と言ってまだ夜明けが来そうもないほどに暗い朝5時に友人と別れた。
思えば、まさに冬至なのだ。

7,8年前、あんなに記念日やクリスマスや大晦日や元旦や誕生日やバレンタインなどに固執していた私が、そういった大衆行事のようなことにいよいよ本当に何の興味も示さなくなっている。
良いものは良い、楽しいことは楽しい、それはいつでも、どんなものに対してもフラットでありたいという気持ちは前よりも強い。
だから一歩また下がってフラットになってみるのだけど、それでも興味が沸かないわけである。

私にとっては、来年のローリング・ストーンズの来日を知って、わ!!、となる方が重要だし、今日作った小松菜と油揚げの煮びたしがとてもとても美味しくできて、ん~、となることの方が価値がある。
「特別な日」というのは私が決める。
もちろん、ローリング・ストーンズのライブが当たって行けたとしても、そのライブで何も感じなかったらローリング・ストーンズのライブの日でさえも「特別な日」にはならない。
まあでも、本当に何も感じなかったとしたら逆に違った意味で「特別な日」になるような気もしなくもない。
大衆行事も、何かとても心を揺さぶることがあるのなら、当然私にとっても「特別な日」になる。


ユリの花の蕾がずっと青々して硬く咲く気配がなかった。
いつもなら蕾に血色が良くなり、ふくふくと膨らんで、めきめきと花を咲かす。
どうしてだろうかと思っていたのだけれど、先日からエアコンで部屋の全体の空気が温まったことによって蕾がゆっくりと動き始めた。
私の部屋は、ユリも咲かないような寒さだったということか。

みるみるうちにひとつずつ開いていく。
ほんの何時間かで驚くほど動く。

その場で、カメラカメラ、というふうにはならなくなってしまったけれど、部屋に花があるのとないのでは全然違う。
そんなふうに私をいつまでも潤してくれるといい。

今日の写真は、「おばあちゃんになったガーベラ」。


マーシーの「夏の朝にキャッチボールを」
小学生の作文のようなイメージだったので、それ風に。
決して子どもの頃の話ではないけれど。

普通に書くのは実に難しい。
書き直したいところもいっぱいあるけれど、小学生の作文風だからいいかと思う。

出だしの隅を思い切って入れる、その後墨がなくなって掠れる、その緩急でなんとなく魅せる、ということをいつもやっているのでついどぼんと墨をつけてしまう。
まあでも、明朝体の活字を書いているわけでもないわけだから、楷書でも緩急はもちろんあってもいい。

しかし懸腕法(腕を浮かせて書く方法)で比較的小さな字を書くのは安定しないので大変である。
といってもこれは紙自体は90×240なので全体はとても大きいのだけど。





後を引く失敗

2013-12-20 18:07:42 | 日記
凍てつく部屋で、ずっとエアコンをつけずにいた。
電気ひざ掛けにくるまり、もこもこの部屋着を着て、自分の首でかじかむ手を温めていた。

なぜ頑なにエアコンをつけずにいたかと言うと、私の部屋のエアコンはなぜか業務用で、電力の契約アンペアが家庭用と別になっている。
通常の家庭用の電力契約もあるため、基本料金が二重にかかっている。
しかも業務用エアコンの方の基本料金がとても高い。
夏には夏季料金などと言ったものも取られ、8月で冷房をつけざるを得なかった初月の電気料金に私は驚愕した。

東京電力によると、業務用エアコンの方の電力の計測が1か月間0であれば基本料金が半額になるというので猛暑が過ぎ去ってからは一度もエアコンを使っていなかった。
一度でもエアコンを動かしてそのメーターの針が触れればまた驚愕の電気料金になってしまう。

しかしいくらなんでも寒すぎて、3時間くらい迷った挙句、とうとうエアコンの方の電力ブレーカーを上げた。
3時間も迷って何が決め手になったかというと、寒すぎて書道もギターも進まない、ということだった。
電気ひざ掛けは優れたもので、その場を動かなくてもいいPCやテレビや読書などであれば、そんなに寒さは気にならない。
しかしくるまれながらできない書道やギターは、いよいよ耐え難い気温になってきた。

何か月かぶりにエアコンのスイッチを入れると、生ぬるい温風が出てきた。
エアコンはお風呂のような幸福感のある満足ではない。
あくまで少々の底上げにしかならない。

まあでも、やはり寒さをとりあえず気にせずに動ける温度になったので、また久しぶりに書道をやる。

依頼されているものもあって、頭の中で考えていた構想を形にしてみる。
自分で書いているだけのときは印は押さないけけれど、人に差し上げるものなので印も押す。
白黒の紙に印の赤が入ると途端にそれっぽくなる。

印は印泥といって強度の高い紙粘土みたいなものでできていて、使うときによく混ぜないといけなかったり手に付くと取れづらかったりと割に面倒なものである。
よくシャチハタみたいな簡易的な印があればいいのにと思うけれど、やはりそういうものでもない。

ヒロトの「映画」
とてもとてもヒロトらしいというか、とても好きな曲。

しかし、何枚か書いてみて、少し違う風に書きたいと思っても本当に全部同じ風合いになってしまう。
楷書で書くとか、無駄に崩さないとか、まっすぐ書くとか、そういうことをすれば違うように書けるけれど、なんとなくそれっぽくしようとなると本当に全部こうなってしまう。

濃墨でも、淡墨でも結局同じ風合いである。
大きい字を入れても、小さい字ばかりにしても、結局同じ風合いである。
紙のサイズを変えたり、縦にしたり横にしたりしても、結局同じ風合いである。

結局のところ私は大した冒険もできないというか、自分で恐る恐る踏み出した偉大と思った一歩でさえも、自分でさえ後から客観視したときに大したことがないことに気づく。
手数は驚くほど少ない。

まあでも確かに、度合いは違えど、書道の先生たちも人が違ったように異なる自体はあまり見たことがない。
もっとも、自分の章法の確立を目指しているかもしれない。
でも結局それで言えば、全て創始者の作った章法であるから新しさで言ったらほとんどないと言っても良いのだけれど。

そこで、何がやりたかったのか思い出す。
ヒロトの詞が書きたい、マーシーの詞が書きたい。
確かにそういうことで、それはそれでいい。
私はまだまだこれについては終わらなそうだし、それを味わう方法として書道は結構合っているとも思う。

がしかし、だ。
技術や手数がないと、自分にとっての面白味にも欠けるどころか、たどり着けないところもあるわけで。

あと、写真がうまく取れない。
だいたい書くものが大きいので椅子に乗って撮っているのだが、真上から撮れないので曲がってしまう。
何か良い方法はないだろうか。





真夏のプールサイド

2013-12-19 14:19:18 | 日記
仕事で出かけていた昨日、リーガルハイの最終回のために帰宅した。
家には録画機能はない。

私はドラマ好きだし、これまでもすごいと思ったドラマはいくつかあるけれど、このリーガルハイの2期だけのしかも数話観ただけでナンバー1ドラマになってしまったかもしれない。
最終回、私は打ち震える思いで観ていた。
最終回が私が見たいくつかの話の中で一番すごかった。

脚本家まで調べてしまった。
古沢良太さんというらしい。

どんなものもそうだけれど、誰かの頭の中にその発想がないとストーリーは作れない。
私は小説を読んでいても、ストーリーよりかそれを発想した人の方、つまり小説家に興味が行ってしまう。
たくさん登場人物が出てくる中で、それぞれ違う思想やキャラクターの人が出てきて、物語の中で戦ったり交わったりする。
どれが発想した人の真意であるかは最終的にはその人に聞いてみないとわからないけれど、どれもこれもその人の頭の中にあったことには違いない。
それで想像する、こういうことが作者の真意ではないだろうか、と。

そして、全部が全部真意のために作られているわけでもないところがまた巧い。
織り込まれている他作品に対するオマージュだったり、本質なのか本質でないかの境目のようなちょっとしたエピソードだったり、完全な遊び心だったり。
「意味なんてないよ」といった感じの。

もちろん、そのすべての発想をほとんど正しく体現できなければ元も子もない。
今回で言えば役者陣が申し分なく素晴らしかったのだろうし、演出や編集なども優れていたのだと思う。
ちょっと私にはこの辺はよく分からないけれど。

最後、真実がひっくり返されてうやむやにされたのは、真実は結局それぞれの心の中にしかなく、それがどんなものであれ各自がそれに責任を持って立ち会わねばならず、その責任の上で各自がしたいようにする、ということだったのだと私は解釈している。
古美門研介が言った「醜さを愛せ」とはそういうことなのだと。

人は、ひとつの明確で共通の真実を知りたがる。
ひとつの明確で共通の真実を知れば安心できるし、もうそれについて考えなくても良いからだ。
しかしそれがうやむやにされたということは、そうではいけない、というメッセージはあったのではないかと思う。

“美しそうなもの”“理想っぽいもの”を信じるのは簡単だ。
それが“美しそうだから”“正しそうだから”、いや、“美しいから”“正しいから”とそう思い込んで、他を一切受け入れないのは自己欺瞞である。

人は、誰もが他人と共存する。
「想像力、それは愛だ、歴史の果てまで」と言ったのはマーシーだけれど、私はある種のロックンロールをリーガルハイに見たように思っている。

リーガルハイを作ってくれた人たちに勝手にお礼を言いたい。


この前のブログの記事もそうだけれど、ちょっと偉そうなことを言った後は「あはは」と笑っておきたくなる。
「えへへ」でもいいか。


今の私に、「独房暮らし」





期待

2013-12-17 15:31:26 | 日記
知っても何も変わらないし、それについて好転や解決が望めないことも確かであることを知ったとする。
それは、確かな絶望、と呼べるかもしれない。

「私の気持ちなんて分からないよ」と卑屈になるのは嫌いだし、そういうふうに他人にぶちまけることもしてこなかった。
たぶん、私は人に対してこのようなことを言ったことは一度もないと思う。
それは、そうする以前にそれほどまでの自分の気持ちを知ったことがなかったからでもあるし、「人の気持ちなんて分からない」という大前提の下で暮らしているからでもある。

絶望、というのは言葉としてハードなものだ。
私は何にしても最上級の言葉を使うときは慎重になったりもする。
最上級を使うほどの何かがそれにないと、断定的にそれを使うことはしない。
単発的なものであれ、すぐに変化してしまうものであれ、言葉はいつも、自分にとって真実味があるように発したいと思っている。

だから、絶望、という言葉を使うのはとても恐れ多い。
そもそも、絶望、なんてものがこの世にあるのかと思っていた。
しかし人がそれを絶望と呼ばなくても、それが自分にとって確かなものかどうかは、それだけは、自分で判断ができる。
というか、自分にできると思っていなかったのだけど、できてしまった。

ただ、ある種の絶望に立ち会ったからと言って、案外不思議と、楽しく生きていこうとする姿勢にほとんど悪影響を与えることがない。
絶望、なのだから、それは決して好ましい内容のことではないけれど、その絶望すら私は知りたかったのだと思える。
それは、より自分が本当に思っていることのど真ん中を突いていることに他ならず、良いことも悪いことも、そのど真ん中を知ることはひとつの生の瞬間である。
そうしてなお、私がより良く生きていけたらいいなとまた願う。

私はこの絶望については、誰か、ものすごく特別な誰か、と共有したいと思わない。
ただ内容の理解ではなくて、私にそういうことがあるのだ、ということについて想像してもらえることがあったとしたら、それだけでとてもとても嬉しい。
ある正しい想像の上で、大丈夫と言ってもらえたら、私は溢れてしまう。

人に話しておいて我が儘極まりないかもしれないけれど、想像が正しくない場合に「わかる」とも言われたくない。
慰めも要らない。
一般論だったら今まで自分で自分にかけ続けてきた。

このことはどうやって説明したら良いのか分からないのだけれど、絶望や孤独を、誇張も増幅もしているつもりは毛頭ない。
たぶん私の心に巣食っているその大きさそのものをまっすぐ感じると、こうなるのだと思う。


丁寧に鰹の厚削りで出汁を取ってお味噌汁を作る。
最後に味見して、まあまあおいしい、となってから、最後に顆粒のかつおだしをほんの少し少し入れる。

すると、ウッと思うほどおいしくなる。
おおお、と思う。

私はこれをお味噌汁を作るたびに嬉しんで体感する。
化学調味料のすごさと、自分の舌の素直さに驚く。

具材として肉の力を借りないならば、やっぱり化学調味料の力は絶大なる信頼がある。
刺激物に慣れて麻痺してしまうことを決して良いとは思わないけれど、別に私は自然派でもなんでもないので、おいしい方が良い。
トランス脂肪酸とか臭素酸カリウムがとか、話題になっている物質が入っている食品については確かに避けている面もあるけれど。
いや、トランス脂肪酸でよく言われるマーガリンの「バター風味」などといったよく分からないものは愛用しているけれど。


そんな今日は、マーシーの「アネモネ男爵」
やはりこうして見ると恥ずかしい。
遠目に、風合いだけ見るならまだしも。
まあでも、止めない。

そしてやはり、裏打ちや表装も自分でできるようにならないとと思う。





金髪、律動、生カブ、大丈夫

2013-12-15 16:17:32 | 日記
どうしても、バンドみたいなことがやってみたかった。
ディスト―ションのあるアンプで大音量で、ドラムとボーカルも入れて。
簡単なコードしか弾けないけど、なんでもいいから、そういうことがしてみたかった。

ギターの先生に「ドラムできますか?やってくれませんか?」とお願いしてみる。
本職ではないのに快く引き受けてくれた。

いつも家でギターの練習するときは座ってやっているけれど、ロックバンド的な格好は付けたいからこの日のために2,3日は立って練習した。
立って弾くのは難しい。
弾きながら歌うのはもっと難しい。
直立だと押さえづらいのでどうしても仁王立ちになってしまう。

架空なのか、遊びなのか、本気なのか、私と友人はバンド名を決めている。
そんな私と友人は、ギターとブルースハープ、そしてボーカル、2人して同じパートになってしまっている。

私たちの軌跡は、全部“やってみただけ”ということから始まる。
いや、いつまで経っても全部“やってみただけ”だ。
でもただそれだけで、いっぱい楽しい時間が作れたし、いっぱい前進したと思う。

バンド名も、ただ付けただけだし、バンドみたいなこともただやってみたいだけ。
何が重要かは、実際にやったのか、ということだけ。
それはどんな類のことであっても。
実際にやった、という事実からしか何も語れない。

「ナビゲーター」「即死」「終わらない歌」「月の爆撃機」「サンダーロード」「キャサディキャサディ」「リンダリンダ」
「リンダリンダ」がラストがいいかなと思ったけれど、難しくて様にならなかったのでやった中で一番良かった「即死」で締める。
最初の準備に手こずったけれど、2時間弱休憩も取らずに拙すぎる演奏を続ける。
後からスタジオの受付の人に「ぶっ続けでがんばったんですね」と言われて知ったけれど、だいたい2時間くらいあると休憩を挟むものらしい。
そんな発想は私たちには全然なかった。
ドラムをやってくれていたギターの先生も実は途中で肩が痛いから休憩したいと思っていたらしい。

はじめてバンドみたいなことをやってみて、いろんなことが分かった。

何せコードしか弾けないので、出だしや間奏ができない。
どうやって演奏を始めたらいいのかもわからない。

それでも、自分たちだけでサウンドを作っているという感じはあった。
だって私がギターを止めてしまったら、ベースはいないのだからサウンドがごっそりなくなってしまう。
私も歌いたかったけれど、ギターに集中していないと間違えてしまうのでボーカルはほとんどを友人に任せた。

でも私が今回一番分かったことは、ある程度自在に弾けないと思いを乗せて自分がそれでぎゅうっとなるまで行けない、ということだった。
何がしたいって、私はそうやってぎゅうっとなりたいわけだから。

それに、やっぱり一曲として完成させるには、ベースも前奏も間奏もギターソロも曲の最後のそれなりの終わり方もやっぱりそれっぽくやりたい。
とりあえずジャーン、とみんなでやるだけで満足だろうと思っていたのだけれど、意外にも自分がこういうふうにしたいというイメージを持っていたんだなと思った。

だから途中で、先生が持ってきた1オクターブ下げることができる機械でギターでベースの役割を入れてみるとよりそれっぽくなって嬉しかった。
でもやっぱりベースはそんなに面白くないなと言うことも分かった。

そういうことも全部含めてドラムをやってくれたギターの先生は「今日は満点だったと思います」と言ってくれた。
途中でテンポが変わったり止まったり間違えたりするギターの拙すぎる演奏に、こちらがドラムのことは一切気にしなくてもいいようにやってくれた。
私は幸いなことにも失礼ながらも、先生がどのようにドラムをやっていたのかは全然憶えていない。

2時間の演奏ですっかり酸欠になって、久しぶりにお酒を飲んだら随分と身体に染みた。
ロックンロールにまつわる自分のことをたくさん話せて、また酸欠になる。
重たいギターを背負ってタクシーに乗ると、「自分も昔バンド組んでましてねえ。ビートルズやストーンズをコピーしてました」と運転手さんが話し始めた。

久しぶりに酔っぱらって寝て起きて、シャワーを浴びると手の甲がヒリヒリした。
見ると何かで引っ掻いたような傷があって蚯蚓腫れになっている。
さっぱり記憶がないけれど、私はどこでどうやってこんな傷を付けたのだろう。


またまた今さらだけれども「リーガルハイ」を観て、面白さに唸ってしまう。
日本のテレビドラマでは、2年前くらいに観た「ケイゾク」と同じくらいの感嘆ぷり。

演技や構成、テンポの速さ、それに巧みに織り込まれる作り手のやりたいこと、言いたいこと。
いやあ本当にすごい。
前作をほとんど見ていないのが今非常に喜ばしい。

これからの楽しみって、うれしい。

マーシーの「手紙」
マーシーの詞はファンタジックな世界観がある。
「背骨で聞いている ハチミツの雨」というフレーズの質感が私は大好きだ。

しかしやはり表装しないと紙の皺があって見づらい。