つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

おんなじように

2013-12-11 23:58:54 | 日記
最近あまりCDを借りていなかったけれど、立て続けにローリング・ストーンズやらザフーやらジミ・ヘンドリックスやドアーズやらジャムやらセックス・ピストルズやらビートルズやらのミュージックDVDを観ていたら、またふつふつとそういう気持ちになった。
1度にレンタルできる最大枚数の20枚を一気に借りる。

私が最初に影響を受けたヒロトやマーシーが影響を受けた人たち。
私を照らした彼らが照らされた人たち。

その光の素たちは、私にはよく分からない、分かりたいけれど、どうにも分かるとは言い難い。
と思っていた。

「ヒロトとマーシーがあんなに好きなバンドたちだから私にだって良いはずだ」という無茶苦茶な論理の下で聞いて、自分がすっかり洗脳されているのかと思いきや、割と正しく私の心は反応するもので、「これのどこに震えているのだろう」という正直さを持っていた。
私はもう丸ごとヒロトとマーシーのことが好きで、それはそうなのだけれど、「自分のことは自分に聞いて、自分の回答を出す」ということはおよそできているようだ。
私がロックンロールから受けた一番のメッセージは、“自分であれ”ということだったのだからこれはとても自然なことだし、嬉しいことでもある。

しかし、しかし、もっと多くのロックミュージックに、ロックミュージシャンに震えることができたとしたら、それはとてもとても良いことだから、分かるようになりたい。
もう長いことそう思っている。

彼らの予備知識をウィキペディアで読んで、インタビューなどもYouTubeで見て、ドキュメンタリー映像も見て、ライブ映像を見る。
先日買ったロック全集のような分厚い本も眺めてみる。

今回初めてローリング・ストーンズのライブ姿をDVDで見た。

すると確かに、あ、と心がくっと動く感じがした。
よくわからないけどそういうことか、という感じ。
微動、といった感じだけれど、確かな微かさで。

見たのはたぶん比較的最近のライブで、嵐の東京ドームコンサートのような壮大さと派手さがあるようなもので、彼らが“はだか”を見せている感じもほとんどしなかったのだけれど。
ミックジャガーは肉体を露わにするような小さなパツパツのトレーニングTシャツのようなものを着ていたし、キースリチャーズはヒョウ柄のコートとか着ていたけれど。

そこには確かに動いた私の心があって、私は不意に胸のあたりの服を掴んだ。

ふはは、と心の中で笑う。

これは嬉しい。

音楽を聴くのに、その創り手の生い立ちも込められた思いも垂れ流される身体的なパフォーマンスも、必要ないという人がいるかもしれない。
ただ私は、そういうものを取り入れることによってその曲たちを聴く感じ方までもが変わってしまうし、そうやって好きになれたものも、本当に好きだと思える。
それが私の勝手な解釈と後付けだろうと何だろうと、創り手ががんばってがんばってがんばって自分の内部を露出して形にしたロックンロールが愛おしくて愛おしくてたまらない。

私にも好きな音の種類や心地よいビートというものはある。
しかし、純粋な音楽についてはほとんど物申すことはできないし、しない。

その代わり、創り手の思いが、何であれその人自身ができる限り他人の価値観を排除して創ったものに打たれるのだと思う。
「全部自分だ」という発想の下で。

借りたCDの中の1枚、オアシスの「ヒーザン・ケミストリー」
オアシスは直接私を照らした。
CDを取り込んでいるときに聴いてみると、私はやっぱりどうにもオアシスは好きみたいだ。
悪い意味でもなんでもなくて、彼らの曲はどれも同じ風合いである。
それはオアシス解散後のノエルギャラガーのバンドの曲にも同じことが言えて、つまり私が好きなのはノエルギャラガーが生み出すその風合いであるということになる。

どうか飽きてしまいませんように、と祈る一方で、当面大丈夫そうだと思ったりする。
誰かとロックンロールの話がしたい。


茶香炉のキャンドルを点けようとして、ライターの火で爪のマニキュアが溶けて少しの煙が出た。
デスクライトにノートPCの端が当たっていて、ライトの熱が集中したらしくPCの端が少し溶けた。
どちらもプラスチックが焼けている変な焦げ臭い匂いがした。

火は上に上がるんだな。
ライトでもプラスチックは溶けるんだな。

色々、注意力を持って暮らさねばならない。


今回の書は、まだブログ掲載における準備が諸々できていないので、前展覧会の「情熱の薔薇」。





指おろし

2013-12-09 15:37:24 | 日記
部屋の前の銀杏が色づいてきた。
私の部屋の前は銀杏並木になっていて、まさに部屋の窓の目の前が銀杏の木だ。
今年の夏に引っ越してきたときに、この銀杏が色づいて葉を落としていくことで季節を感じていくんだな、と思っていた。

しかし、窓に網戸がなくまた広い面が窓なので外が丸見えになってしまい、その対策として窓用の目隠しシートを貼った。
そうしたら、窓からの銀杏の景色が8割減ほどになって、銀杏の季節感がまったく気にならなくなってしまっていた。

ふと気づくと、緑と黄色がちょうどグラデーションになっている。
先日小石川植物園に行ったとき、そこの銀杏はすでに真っ黄色だったから、なぜだか道路沿いの並木銀杏は色づくのが遅い。

はらりはらりと、葉も散り始めていて、自転車のかごに数枚入っていた。
取り除くでも手に取るでもなく、そのまま銀杏の葉をかごに入れたまま走り出す。
もう言い訳もできない冬に風にさらわれて、扇形の葉っぱは全部、飛んで行った。

ところで、銀杏と紅葉、というのは秋の訪れとして頻出する言葉であるが、二つとも音読みと訓読みで意味が違い、しかしながらそれを使うときは近い言葉の領域の中で使うことが多いから困る。
口に出してしまえば、「いちょう」「ぎんなん」、「もみじ」「こうよう」だからいいのだけど、漢字で書くとどちらで読めばいいのか、文脈からも類推しづらいときがある。

前述の文章はすべて「いちょう」であるが、「銀杏」という字面は私は必ず最初に「ぎんなん」の読み方が出てきてしまう。
文脈的に「いちょう」であることは分かったとしても、次々に出てくるそれらもまた「ぎんなん、いや、いちょう」と読み返すことになる。
「ぎんなん」も同じ「いちょう」の実だけれど、2つのそのイメージというのはだいぶ異なる。
また、「ぎんなん」「いちょう」、どちらもひらがなで書いても他の言葉の意味とかぶることはなく使える。

一方、「もみじ」と「こうよう」は、「こうよう」は固有のものを指すわけではなく秋に落葉樹が色づくことを意味し、「もみじ」は特定の木を指す。
また、「こうよう」は「こうようする」などと動詞を伴って用いられたりもする。
「紅葉を見に行こう」とあった場合は、例えば背景のポスターが「もみじ」の写真であったとしてもどちらが正しい読み方なのかはわからない。
まあでも、どちらで読んでも抱くイメージにはあまり変わりがないし、「もみじを見に行こう」と読んで見に行ったら別の木の「こうよう」であったとしても特段差し支えもないはないだろう。

「紅葉」という字面があったらパッと見では「もみじ」と読むか「こうよう」と読むか、私はほんの少しわずかながら後者の「こうよう」と読んでしまうことが多い気がする。
またこちらは「もみじ」はいいけれど、「こうよう」はひらがなでは別の意味も出てきてしまって使いづらい。

私はこのどれもが漢字から想起させるイメージが好きなので、どれを使うときにも漢字を使う。
しかし自分で書いた文章すら読み返すと何度も間違って読む。


先日展覧会に来て下さった先生の勧めで、これからブログに書作品を載せてみようかと思う。

まずは最初なので旬な「リンダリンダ」を。
実に恥ずかしい。
いろんな弁解をしてしまいそうである。

本来の意味でなく文字通りの意味で、「筆不精」を解消できたらいいとも思う。





南天の大食い

2013-12-06 14:51:22 | 日記
さてはて、生活が逆転しすぎている。

フリーターになって、在宅での仕事に慣れないのもあるし、一度体の赴くままに自由にさせてみようと思っていた。
案外深夜2時くらいには寝て朝の10時くらいには起きるであろうと、そう思っていたのだが全然そんなことはない。
最近は寝るのが朝の6時くらいになってきていて少し社会人間的にどうかと危惧し始めている。

いや、社会人間的にどうかは置いておいても、私は太陽を浴びたいというのがあって、最近は太陽が出ている時間が短いから、起きる時間が遅いとすぐに夜になってしまう。
このままいくと、太陽が沈む頃に起きて、日が昇る頃に寝る、太陽を浴びられないということになってしまう。
何せ起きるのが今既に昼の1時頃になりつつあるのだ。

週に一度、出社しているのだが、そのために10時に起床するのに必死なくらいだ。
今までは翌日午後の約束であれば、明日は遅いから夜更かししても大丈夫だなと思っていたのだが、今の私にとって10時に起きるのは以前の7時に起きるのと同様の緊張感がある。

フリーターになったら、心行くまで寝たいというのがまずひとつの願望であったのだが、余りに昼夜が大逆転してしまうと睡眠時間をさほど長く取れないことがわかった。
結局朝6時に寝て、昼頃になると「もういい加減起きなくては」というちょっとした罪悪感にも遭うので、時間は後ろ倒しになりつつも、睡眠時間としては6~7時間になってしまうのだ。

早く寝るだけの問題ではないか、とまあそういうこと以上には解決策はないのだけれど、深夜の高揚感といったらなくて、夜の2時にギターを弾き始めてあれよあれよと朝の5時を迎えてしまう。
眠たいと思ったら寝たい、ということを考えると眠くなるのは空が白む頃になる。
あまり外に出ないため、体が疲れていないというのもある。
不規則というわけではないので、今のところ身体に支障はないけれど、リズムが狂い出すと体調を崩すだろうと思う。

何にせよ、ある程度の規律というのは、健康を保つという働きもあるのだと思う。
また、1日はどう使おうとも、24時間なのだなと思う。

それでも、月曜日から金曜日までの時間的拘束からの解放は心から良かったと思っている。

また、時間を気にしなくていいのならお酒なども、一度飲まれてみてもいいのではと思ったが、驚くほどにお酒を欲しない。
自分でまともなごはんを作って食べる、ということがしたかったのもあって、ごはんを作るならお酒は飲みたくない。
コミュニケーションの潤滑油として誰かと飲むのならいいけれど、ひとりで酔っぱらうことも別に面白くない。
酒を飲んで忘れたいとか、飛ばしたいとか、そんなでもないし、まず酒を飲んで忘れたり飛ばしたりして解決できるような問題は私にとっては問題ではない。
これは以前と変わらず、3か月に1回くらい、缶ビール1本程度で済みそうである。

相変わらず、ごはんもよく作っている。

豚じゃがスープ
トマトミートソース焼きそば
スパニッシュオムレツ
ほうれん草の胡麻和え
かぼちゃの煮物
大根の煮物
ナポリタンスパゲッティ
かぼちゃのポタージュ

茶香炉を買ってみたりなんかして、借りてきたクラッシュやジャムやザフーなどのライブDVDを観る。

なんだかんだ、仕事もしている。

家が好きなのだけれど、さて、と重い腰を上げて何しよう。



プールに押し寄せる冷ややかな水

2013-12-03 22:28:58 | 日記
タオルを買った。
浴用タオルを自分で買ったのは、もしかすると、フジロックでやむを得ず購入した以外は、初めてかもしれない。

頻度の高い日用品のレベルを上げること、それは私の育った環境からすると実践はなかなか難しい。
私は一般的にいってまあまあ裕福な環境で育ったと思う。
しかし非常に倹約な過程で育ったため、日用品の値段が高いものを買うことに抵抗がある。
とくに消耗品についてはどうせダメになるからと、良いものでも高いものが買えない。

食べるものもそうだ。
今でも買うのは安い食材が基本だし、こちらの地鶏の方が美味しそうだからと高い鶏肉を買うことはめったにない。
しかし食材については代替の利かないものであれば「それが食べたい」あるいは「それが食べてみたい」という欲求探索として最近はお金を払えるようになってきた。

良い包丁、良い急須、良い化粧水、良い筆。
「良い」というのは自分の身体で会得しなければならず、「良い」ものを手に入れる自由を、大人の私はお金以外の制約は一切なく、持っているはずである。
無論、値段が高ければ「良い」わけでもなくて、自分にとっての「良い」を判断ができる審美眼をずっとずっと養い続けなければいけないものである。
高くても安くても大して変わらないというか、私には違いがわからないものもあるだろう。
もちろん、すべては試せないから、私の選べる範囲で「良い」ものを手に入れたい。

誰の価値でも、流行でもなく。
それに満足できなくなったら、もっと「良い」ものが欲しい。

タオルもずっと買い替えたいと思っていた。
これまで使っていたものはほとんど実家でもらったタオルだ。
お歳暮やお中元などのいただき物のタオルを事あるごとにもらっていた。
LANVINのタオルなど、立派過ぎて、大き過ぎて、未だに2回くらいしか使ったことがない。

ちなみに、けいこは洗濯に柔軟剤を使わないので、タオルはどんどんと“バシバシ”になっていく。
“バシバシ”のタオルの方が水をよく吸うからいい、と言うのは一理あるのかもしれないけれど、ふかふかしたタオルの方がふき心地が良いことに気が付いたのはひとり暮らしをはじめて数年後だったように思う。
“バシバシ”のタオルが肌にも良くない、というのは身体で分かる。

実家のいただき物タオルも尽きたようなので、しばらく同じものを使っていたけれど、明らかに替えどきの感じがしていた。
柔軟剤を使ってもふかふかには程遠いし、色もくすんできて、“疲れて”いる感じがした。

タオルも値段が高いものは高い。
以前デパートで見たことがあるが、高級バスタオルはその重量と高級感もさることながら、1万円近くするものもある。
友人宅でそのようなタオルを使ったことがあり、確かにものすごく包まれているような心地は良いのだけれど、これは洗濯の容量と乾くスピードから言って、乾燥機もない私の家では全然現実的ではないと思った。

とりあえず日用品も売っているスーパーに行ってみる。
ぺらぺらの安いタオルではなく、触り心地の良い少しボリュームのあるタオルを2枚買う。
バスタオルよりはひと回り小さいサイズで、レインボーカラーのを1枚、清潔な白に淡い紫のラインが入ったのを1枚。
どちらも980円、このスーパーでは高い方のタオル。

取り替えたことをすぐに忘れてしまうようではだめだ。
長く、「替えてよかった」としみじみ思うものが「良い」ものである。

ちなみに先日買った包丁は未だ切れ味にいちいち喜んでいる。
良品だ。


自分に対して自覚的になるということは、いいことばかりではない。
現実に起こる多くのことが大したことはないのだけれど、ほんの局所的に、ものすごく赤剥けになっている箇所があって、そこに触れられると私はどうしようもなく悲しくなる。
合わせて、怒りも満ちる。

人は人だから、と、ある面では信頼を、ある面では割り切りを、私は持っている。
誰も、そう誰もが、他人のことなど分からない、と思っている。
しかしその前提から除外してしまう例外が私には存在して、そこには思考展開も論理も通用しない。

その存在が私のその赤剥けの部分に触れてきたりすると、自分のコントロール外でおそろしく反応する。
悲しみに満ちているその最中に、「こんなことでこんなになるの?」と私は私に驚愕する。
少しの冷静さを持って見てみると、どんなにそれが幼稚なことか、私にだって分かる。
そしてそれは誰かにとっては、まったくさっぱり何も感じないような些細で取るに足らないことなのかもしれない。

悲しみを自分で増幅させてしまっているのかと、疑ったことがある。
悲しみの増幅だなんてなんて不幸な、と思うしそんなのは嫌だけれど、どうやらそうではなさそうだということを、自分の身体の反応で知る。

悲しいのだ、私はこのことが。
許せないのだ、私はこのことが。

仕方がないので、玉ねぎを刻んで、トマトソースを煮る。



もしも雑踏で

2013-12-02 18:27:26 | 日記
会期となった東京書作展。
見に来て下さるという方もいらっしゃるのに、展示が少字数作品だったらどうしようと思っていたが、「リンダリンダ」が展示になっていた。

まずは私のブログのきっかけとなった大学の先生が見に来て下さるので会場で待ち合わせをする。
少し早く着いたのは、どの作品が展示になっているかを確認するためと、出品前にすっかり写真を撮り忘れたので自分の書いたものをとりあえずもう一度自分の中に収めるためだった。

広い会場をざっと見渡して「リンダリンダ」を見つけた。
前作の「情熱の薔薇」よりも、「リンダリンダ」は私にとってのロックンロールの入り口だったわけで、思いという意味では強かった。
しかしどんなふうに書いたのか、出品後うまく思い出せないでいた。

私が自分で書いたそれに会場で再度ひとり立ち会って、私はどきっとした、うわっと思った。
頭ごと覆ってしまいたくなるような恥ずかしさと、文字通りの意味で近寄れない拙さがあったからだ。
技術的に及ばないこともそうであるけれど、あれは私の詞ではなくて甲本ヒロトの詞であるけれど、私が私の解釈を元に、私の本当に思っているところだという事実が恥ずかしさを増幅させた。
相当な独りよがりだけれど、“はだか”を見られているのに近いような感じである。

と、これ以上言うと、「“はだか”を見せるということはこんなもんじゃない」ということにもなるし、その領域はもっと“ヤバイ”ものであると思っているのでこの辺で留めておく。

これが詞について何も思わない漢詩作品であったとしたら、もっと客観的に書の技術について私は顔を覆いたくなっただろう。
しかし冷静な思いでそれを反省するくらいはできる。

しかし自分の少しの欠片を晒すというのは、様々な感情を呼ぶので私にとって意味があることだなと思う。

その後先生と落ち合って、私が「リンダリンダ」の前で「恥ずかしい恥ずかしい」と連発し、他の作品や私に影響を与えた先生方の書作品を見て回る。
先生はこれまでも何度か書作展に足を運んでくださっていて、つまらないものですがそれでもありがとうございます、私は嬉しいです、と心から思う。

のちに友人も来てくれることになっていて、それまで先生とカフェでお喋りする。
私は大学3年生のときに先生のゼミがきっかけでブログを始めたわけだが、卒論の担当をしていただいたわけでもなく優秀な学生だったわけでも全くない。
それなのにここ最近でもご縁を持たせていただいているのは間違いなくブログのおかげであるし、お互いの行動力が成せることだと思う。

実際に連絡する、実際に行く、実際に会う、実際に喋る。
そのことがすべてを形作るわけである。

私は「喋る」と心して喋っている場合は、もちろん好きでそうしているというかなってしまうのだけれど、とても真剣に喋っているので結構体力を消耗する。
ぼそぼそ話すのは逆にそのことに気を取られてしまうので苦手で、終始声のボリュームが大きい。
余談だが、トータス松本が「小さい声で喋る奴は言いたいことがないと思うねん」とどこかで言っていた気がするが、それを聞いて何だか安心した憶えさえある。
これは昔からそうで、10時間くらい喋り続けて友人と別れ家路に着くと、酸欠で眩暈を覚えたことが何度もあるくらいだ。

第1ラウンドを終えて友人と会ったことには若干の酸欠状態でぼーっとしていた。
友人を「リンダリンダ」の前に連れて行って「近くで見るものではないからね」と言って私はその場を離れた。
彼女は私と同じくらいヒロトとマーシーのことが好きだから、彼女にとっても私が彼らの詞を書道で書くことを特別に思ってくれている。

15分くらい私はベンチでぼーっとしていた。
まだいるのかなと思って「リンダリンダ」の前に戻ると彼女はまだ「リンダリンダ」の目の前に立っていた。
私に気づいて、「恥ずかしい、なんか、恥ずかしい」と連呼していた。

私はそれが嬉しかった。
彼女がこれに恥ずかしさを感じてくれたということは、少しだけでも、私の思いがこれに乗ったということだと思うから。

彼女はいつも、私が何をしても褒めてくれる。
別に私はそれに舞い上がるわけでは全くなくて、「何をしてもいいんだよ、それでいいじゃん、それがいいじゃん」と認めてくれることが時々涙が出てしまうくらい、私は嬉しい。

一緒に会場を後にして、渋さ知らズオーケストラのライブへ。
私は何度目かで、寝不足だったこともあり序盤で少し寝てしまう。
ほんの5~10分くらいだったと思うけれど、爆音の中で寝て、爆音の中で目覚めた。

彼らのライブは手放しで聴けるすごさがある。

翌日仕事で4時起きの友人を、なぜか申し訳ない気持ちで見送る。
家に着いて、JAMを聴きながら、久しぶりに湯船に浸かる。