震災から10年の節目の年にもかかわらず、原発に関する報道があまりに少なく拍子抜けさせられた。今回、印象に残ったテレビ報道は、(1)事故直後の東電の誤対応の新事実を簡単に伝えた7日のサンデーモーニングと、(2)廃炉について特集した14日のNスペの二つだけだ。通常、震災のメモリアルウィークの報道では、津波災害(三陸)よりも原発事故(福島)の方に比重を置いた特集が多かった。それは、震災が起きた当初からそうで、視聴者一般の関心が原発問題の方が高かったからである。首都圏などに住む多数にとって、より身近で切実な問題だったからだ。計画停電もあった。金町浄水場の放射能検出もあった。節電に努めた。デモの政治もあった。だから、東日本大震災といえば、まずは原発問題に注目するのがマスコミのパターンだったと言える。だが、震災10年の今年の報道では、原発事故よりも津波災害の方が前面に配置されている。原発への関心が低くなり、原発報道がすっかり縮小した感が強い。現在の原発に関する報道のほとんどは、政府広報の垂れ流し - 汚染水の海への放出を地均しするための世論工作 - に過ぎない。
今、首都圏住民や国民一般から、当時の放射能汚染の恐怖の記憶が消えてしまっていて、原発に対するアグレッシブな関心が薄れ、東電や原子力村に対する渾身の怒りが失われてしまっている。長く続いた安倍政権の支配の所為で、テレビ報道が完全に官邸に私物化され、原発に対する批判報道が排除されている影響もあるだろうが、それにしても世論の移ろいというか、持続力のない、国民の気分の変化に呆然とさせられる。メモリアルウィークの間、テレビは毎日、面白くも何ともない、空気が流れるような、松本哲哉がルーティンを口パクする、無内容で惰性的なコロナ報道で埋めていた。この10年間、日本人は原発問題で膨大なエネルギーを使ってきたはずだ。原発問題と格闘し、一人一人が人生のコストを費やしてきたはずだ。問題意識を集中させ、知識を得、積極的に意見発信してきたはずだ。多くの日本人が、脱原発を求める立場に賛同していたはずだ。自民党支持の保守派でさえその姿勢が明確だった。それなのに、10年の節目の年の原発認識がこれほどまでに軽く空疎なのかと驚く。喉元過ぎれば熱さ忘れる。日本人の民族的特性に脱力させられる。
資料を見ると、現在日本にある原発60基のうち9基が稼働している。川内2基、玄海2基、伊方1基、大飯2基、高浜2基が動いている。事故翌年の12年5月には全基停止を実現したのに、この間の相次ぐ選挙で安倍晋三が圧勝し続けたことによって、政府自民党は西日本の原発を着々と再稼働させることに成功してきた。今では、女川や柏崎刈羽など東日本の原発の再稼働も視野に入る危機的状況になっている。事故から数年間、日本の原発マップは常に報道で取り上げられ、その再稼働問題は国民世論の関心の的だった。今回、テレビ報道で原発マップ一覧を見た記憶がなく、再稼働のステイタスが紹介された記憶がない。震災10年の機会に、各地でどのような再稼働阻止の訴訟が起き、一審二審で判決が出たかが整理されるべきだった。司法判断の流れや規制委の動きが概説されるのではないかと期待したが、そういう特集報道は組まれなかった。東電の事故責任を問う民事刑事の訴訟についても、10年の間に数多くあり、結果や判旨は様々なので、整理が必要だったし、この機会に当事者が出て発言するのを聞きたかった。が、マスコミは訴訟に焦点を当てた報道をしなかった。
このところ、SDGsのクリーンエネルギーのエバンジェリズムが怒濤の如く社会を席巻し、脱炭素のモメンタムが高まって、石炭LNGによる火力発電が異端化され悪魔化されている。その様子を見て気づかされるのは、日本の支配層がSDGsを錦の御旗にして脱炭素を宣伝する場合、明らかに、その文脈なり底意として原発の復活があるということだ。日本では、じわじわと、SDGsとパリ協定の脱炭素運動を隠れ箕にし口実にしたところの、原発を復活させようとする動きが進んでいる。事故前の、寺島実郎の原子力立国計画の原点に戻そうという策略が蠢いている。その言論攻勢が効を奏しているのか、マスコミはもとより左翼リベラルの方面ですらも、火力の方を原発よりも悪だと規定する判断が横行しているように窺われる。斎藤幸平の『人新世の資本論』の記述でも、そうした首を傾げるエネルギー論の認識になっていた。原発は悪だが、火力(温暖化ガス)はもっと極悪だと位置づけて、化石燃料利用を一掃する方が先だという政策論を立てている。SDGsとパリ協定に影響されて、日本の左翼リベラル全体がその空気感に染まっている。炭素憎しが突出し、原発への嫌悪と拒絶が相対化されている。
私には不思議だ。全く理解できない。炭素ガス(石炭LNG)ならば技術で制御することができる。例えば、広瀬隆が推していたGTCCの技術がある。熱効率・発電効率を上げ、限りなく単位発電量当たりのCO2排出量を削減することができる。自動車のエンジンのハイブリッドや低燃費化と同じで、ゼロにすることは無理だが、開発の工夫を重ねて効率を上げることができる。日本人の得意な技術改良の方法だ。左翼リベラルやWEFやグレタは、すべて再生エネ・自然エネに置き換えよという主張なのだろうが、それをすればコストと料金が高くなるし、貧しい途上国にそれを求めるのは酷である。また、風力や太陽光の発電は気象条件に左右される。電力は生産しても貯蔵できない。在庫できない。生産と消費が同時同量の特殊な工業生産物だ。蓄電と搬送の分野で画期的なイノベーションが起きない限り、ベースロード電源という概念は自然エネと対立的に必ず成立する。否定できない。どの国もベースロード電源を必要とする。EUも同じだ。自然エネだけで100%充当することは不可能で、必ず電源ミックスのバランスがある。2019年のEUの電源構成の実績を見ると、自然・再生エネが34.6%で、原発が25.5%で、火力が39.9%である。
日本の2019年の電源構成は、自然・再生エネが26.7%、原発が6.5%、火力が75.0%となっている。確かに自然・再生エネの進捗が遅れている点は落第だが、大雑把に内実を言えば、日本は原発の比率を下げた分を火力に回しただけだ。電源構成だけを見て評価するなら、明らかに日本の方がEUより上で優れている。人類にとってまともで正しい発電をしている。原発が絶対悪なのだから。原発と核兵器が絶対悪だ。原子力は人類知で制御できない。13日のNスペでは、福一の廃炉は100年かかるとも300年かかるとも専門家が真顔で言っていた。10年前に2兆円と見積もっていた廃炉費用は、今は8兆円なのだそうだ。10年後は何十兆円と言っているだろう。EUの原発比率25.5%は高すぎる。地震に直撃されたらどうするのだ。日本が、火力発電が多すぎるからと難癖をつけられて、EUやグレタに頭を下げる必要はないのだ。欧州の人間は、特に社民の左翼リベラルは、35年前のチェルノブイリの恐怖と悲劇を忘れている。チェルノブイリを忘れ、火力叩きに血眼になっている。おかしなことだ。火力と原発と、どちらが先に廃絶しなければいけない悪かが分かっていない。思考が間違っている。おそらく、そこにはWEF(ネオリベ総本山)の手回しがある。
SDGsやWEFによる脱炭素エバンジェリズムが、火力(化石エネ)だけを狙い撃って憎悪の標的とし、相対的に原発の存在を容認する方向に世界の世論を誘導している。そのためか、インド、トルコ、ブラジル、サウジアラビア、UAE、南アフリカなどの新興諸国が、きわめて前のめりに原発建設を推し進め、経済発展に伴って必要となる電力を原発で賄う態勢にシフトした。SDGsの方針が、新興国の原発開発にお墨付きを与える結果になっている。その彼らの原発導入に、核武装という安全保障上の動機が潜んでいる背景は言うまでもない。本来なら、福島の事故を経験した日本の左翼リベラルは、この点を注視し警戒して、国連SDGsに意見具申しなくてはいけないはずだ。エネルギーと環境の問題については、脱炭素だけを目標に掲げるのではなく、脱原発こそを人類の最優先課題とすべきだと言わなくてはいけないはずだ。けれども、政府や右翼に負けず劣らずアメリカべったりな左翼リベラルは、日本は原発の技術と事業を堅持すべしというアメリカの要求に忖度して、CO2叩きにばかりに熱中している。グレタを神様のように崇め、日本もEUに見倣って自然エネにせいとそればかりだ。
われわれは、原発とエネルギーをめぐって熱く議論してきた。大江健三郎が先頭に立って言葉を発し、良心的知識人である小出裕章と広瀬隆が活躍し、いわば世界最先端の脱原発の知恵と文化を模索して築いてきたはずだ。にもかかわらず、それらが何もなかったかのような、何も成果と意義を残してないような、廃墟と空洞だけが残ったような10年後の言論風景になっている。10年前、放射能禍の恐怖で東京がパニックとなったとき、日本でツイッターの文化と習慣が立ち上がった。今日まで続くこの情報環境を日本人が日常生活の一部にしたのは、福島原発事故を直接の契機とする。それは、テレビが報道するウソを市民が暴露して真相を分析・推理・解明するものだった。それは忽ち支持され、誰もが情報を求めてアカウントを取得して行った。そうした出来事が忘れられている。今や左翼リベラルは脱原発などずっかり飽き忘れ、今度はこっちとばかり脱炭素とジェンダー革命の闘争に血道を上げている。誰も総括をしない。風化させている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます