東日本大震災の復興事業は大失敗だった。そう総括することができる。総額37兆円の復興予算を投じ、そのうち「住宅再建・復興まちづくり」と「産業・生業の再生」に21兆円の巨費が投じながら、被災地では大規模な人口減少が起き、特に若年人口が失われる結果になってしまった。陸前高田市では人口の2割が減少、釜石市でも2割減少、大槌町では3割減少、南三陸町でも3割減少、気仙沼市でも3割減少、女川町では4割減少となっている。人口が減ったら、特に若年層が流出して戻って来なかったら、復興など全くできず、過疎化が進んで衰滅に向かうのは当然のことだ。10年後、20年後は今よりもっと減っているだろう。復興の当初から予測され危惧されていたことだが、莫大な費用をかけて巨大堤防と高台・かさ上げ造成地が整備され、ピカピカのニュータウンが建設されても、そこは人のいない廃墟のゴーストタウンになるだけだ。復興とは何なのか、誰のための復興なのかと、ずっと問われ続けてきたが、日本人は初発の誤りを修正できないまま10年間の時間と21兆円のお金(税金)を無駄にしてしまった。
朝日新聞の3月8日の紙面に、次のような記事が載っている。
菊池由貴子さん(46)は震災翌年に「大槌新聞」を創刊、一人で書き続けている。復興する様子を町民に知らせたくて書いているうち、「これって復興なの?」と疑問を持つようになった。東日本大震災復興基本法の「基本理念」が菊池さんは大好きだ。「災害復旧に活力ある日本の再生を視野に」「二十一世紀半ばにおける日本のあるべき未来を目指して」(略)だが、都市基盤は整ったものの空き地だらけ。人口は3割減。ぴかぴかの過疎の町だ。「日本のあるべき姿になってない。なぜこうなったのか」。菊池さんは町の復興計画の戦略会議で委員を務めた。「コンパクトなまちに」『施設の統合を」 。人口減少を強調するあまり、議論が後ろ向きだと感じ、「人口減にあらがう計画を作らないと意味がない」と訴えた。役場職員や議員に、「前より絶対いい町にしなければ、多くの犠牲者や支援してくれた人たちに申し訳ない」と、筆で叱咤激励した。だが、役場はインフラ整備や被災者のケアに追われ、なりわいや町の魅力づくりを考える余裕がない。住民も元の生活を取り戻すので精いっぱいだった。
この菊池由貴子のコメントに同感だ。重要で本質的な問題を衝いていると思う。また、この問題点は当初から言われ、岩波の世界などでも繰り返し指摘されてきた急所だった。NHKの鎌田靖もNスペの放送で何度もこの趣旨の異議を発信した。21兆円ものインフラ投資と産業支援の巨費を注ぎ込みながら、復興事業は被災地をゴーストタウンに変える役割を果たしただけだった。それを中止することができず、修正することもできなかった。日本の自滅の姿そのものが映し出されている。復興事業のプロセスは、むしろ、被災地に住んでいた市民を、特に若い世代を、被災地から都会に追い立てる方向に促したとしか思えない。菅直人政権の下で行われた復興構想会議の議論と結論そのものが、全く被災地の人々に内在したものではなく、被災地に暮らす者を疎外した内容だった。そこには、国交省公共事業の十八番であるところの、ゼネコンに湯水の如く国家予算をぶち込む土木インフラ建設の発想しかなく、また、限りなく地方自治体の予算を削減することを目的とした貧相なコンパクトシティの「理念」しかなかった。根本的にコンセプトが間違っていた。
復興構想会議の案、すなわち官僚が作成したマスタープランには経済学の考え方がなかった。経世済民の契機が全くなかった。信じられないほどだ。前に書いたが、私が首相だったら全然違う計画を立てた。一から新たに作り直す地域に、まずは経済的繁栄を導くことを第一に考えた。どういう復興の図かというと、一言でアイディアを言えばゴールドラッシュである。19世紀、カリフォルニアで採掘される金を求めて、全米各地から西海岸に人が押し寄せたような、そのようなムーブメントを作ればよかったし、21兆円もあれば可能だったと言える。否、5兆円の政府資金で十分実現できたと確信する。全国には200万人とも300万人とも推計される引きこもりがいる。当時も存在した。00年代初頭からの大規模な製造業のリストラや、90年代後半から始まる深刻な就職氷河期の影響で、20代から50代までの広範な年代の失業者が都市部に堆積していた。引きこもりを社会学的な視角でしか認識せず、経済学の範疇で正しく捕捉しないところが、この国の根本的な誤謬であり病理である。日本の社会科学が脱構築化したため、長期失業者という概念がなくなった。
余談を続ける。これに関連する話題として、つい最近、内田樹が引きこもりの解決策の妙案を発表し、100万人の引きこもりを過疎の里山の守人として雇用し、里山の自然を保全する公務員になってもらおうという画期的な構想を提起した一幕があった。おそらく、藻谷浩介などと対談した際に飛び出した政策だったのだろう。そうしたところ、引きこもり専門家の精神科医などから非難囂々の嵐となり、脱構築左翼から「知の巨人」が袋叩きされるという脱力の顛末となった。最近の内田樹は、抜き足差し足忍び足で、脱構築主義者からマルクス主義者に転向している。レヴィナス研究者からマルクス研究者に変身している。世間とは逆の、この35年間の潮流とは逆方向の思想経路を徘徊していて興味深い。私は内田樹の提案に賛成である。引きこもりは失業者であり、精神病の患者としてだけの表象と属性で定義してはいけない。月収40万円の所得が保障され、社会保障や子育ての心配がなく、生きがいを見い出せて人生計画が立てられる健全な職業と環境があれば、都会に閉じ籠もっている失業者の青年は必ず新天地に行く。再出発の機会を掴もうとする。それを提供するのが政府の仕事だ。
さらに脱線を続けて恐縮ながら、持論として、この国はもっと東北地方に人口を移動させるべきと私は思っている。会津遷都論を前に述べた。東北の人口が少なすぎ、経済の発展が遅れすぎている。列島の国土の発展が均等になっておらず、関東首都圏と西日本に富と人口が偏在している。BSテレビの民放で、夥しい数の高齢者向けの医薬品や健康食品がCM宣伝されていて、それはわれわれの日常風景だが、販売元の企業が九州である場合が多い。九州人が活発に商売をやっている。血洗島の渋沢栄一のように果敢にマーケティングにチャレンジしている。ジャパネット(の初代)が、九州愛・長崎愛をこれでもかと全国にぶつけるように、エンスージアスティックにCMを氾濫させるのは、地方出身の視聴者として気分がいい。一方、東北の企業がテレビCMに出る場面をほとんど見ない。東北のプロ野球球団が、人格の悪い神戸のネオリベ屋に好きなように弄ばれ、嶋基弘や平石洋介が放出されるのを見るのは不愉快だ。夏は蛾の大群が舞い飛ぶ、地方球場そのものの劣悪な環境を強いられる選手が不憫だ。球団を支える地元資本があれば、このような差別的な忍耐と屈辱は必要ないだろうと思う。
東日本大震災を契機に、東北太平洋沿岸に新しい経済ベルトを築き、21世紀的な大きな経済価値を産出する拠点に変え、列島の経済バランスを西南と東北の2エリアで均衡させる理想の日本を築くことはできただろう。そのような夢を描くべきで、夢のある復興構想のプランを採択すべきだった。中国が内陸部を開発しているような壮大なスケールで、三陸沿岸を大胆に経済開発するべきだった。高度先端技術の産業を集積し、首都圏に蹲って不遇をかこっている労働力を大量に移住させるべきだった。被災した東北太平洋沿岸地域をプレミアムな特区にして、そこに中国的な社会主義市場経済のモデルを適用する実験をやってもよかった。鄧小平やレ朱鎔基もあっと驚く、日本版の資本主義計画経済を導入してもよかった。そういうイマジネーションを持つべきだった。防災の都市基盤整備と地域の経済開発とは、同時並行で進められたはずである。どちらかを優先させて順序をつける必要はなく、中央政府の主導と差配で両方を同時に遂行すればよかった。一次産業主体の地場からの自主的な産業再建だけでなく、中央政府がデザインした戦略的な未来産業をそこに配置することを考えるべきだった。
太平洋戦争のあの甚大で凄絶な被害からも見事に復興して、その不死鳥の力とエクセレンスで世界の目を刮目させた日本が、どうして東日本大震災の復興に失敗したのだろう。悲しい。その最大の理由は、復興計画の設計と目的が間違っていて、かつその間違いを正さなかった点に尽きる。最後に、被災地の復興が失敗したもう一つの理由をどうしても述べたい。それは、東京五輪を名目とした東京再開発事業の横槍だ。アベノミクスの目玉であり中身であったところの、五輪を出汁にした東京への資本の集中と集積である。東日本大震災の復興の期間は、東京五輪めがけて東京にインフラを増設しまくる過程と同期だった。日本経済のヒトモノカネを東京に集中するプロセスだった。この20年間、どれほど都心に新しい高層ビルが建っただろう(今も飽きずに続いているが)。どれほど富裕層向けのタワーマンションを建て、どれほど東京にばかり華麗で豪勢な商業施設を作り、高級ブランド店や日本初上陸の店舗を開業させただろう。今もなお、東京のあちこちに鉄道の新線を引きまくり、新駅を作りまくっている。北海道や地方のローカル線を潰しながら、東京の地下鉄路線を延伸させている。その建設資材や労働者のリソースは、本来は被災地の復興に優先して充当しなくてはいけないものだった。
東京五輪名目のインフラ建設のため、資材は高騰し、人出は不足し、しわ寄せを食った被災地の復興事業は大幅に遅れ、高台住宅地の造成工事は納期遅延を強いられた。5chのネット右翼が、地方は努力が足らないから街に魅力がないのだとか、若い女性が東京に集まるのは当然だとか言っている。地方に魅力がなく働く場所がないのは、地方がぐうたらで怠慢だからだと決めつけて嘲笑している。ネオリベの常套句の東京賛美・地方蔑視を言い上げている。5chの右翼に問い返したいが、今世紀に入っての20年間、東京を魅力的な街に再開発する原資たる税金は誰が払ったものなのか。その公共事業に用いた税金は誰が納めたのか。地方の人間ではないのか。地方にはインフラ投資のカネは回らず、効率が悪いからと切り詰めを余儀なくされつつ、ひたすら「選択と集中」のネオリベ論理で東京に公共資本が投下された。日本政府は、税金を使って東京に経済活動を集中し、東京の住民を日本国民の標準とし、地方を切り捨てたのだ。地方を犠牲にし、地方を東京の餌にしたのである。東京が価値の高いネオリベ国際都市に化ける上で、地方の国民がどれほどの負担と犠牲を強いられていることだろう。
まるで中国の北京・上海と内陸部農村の格差のようだ。不平等すぎる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます