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GUAM   横井庄一さんの記録 ( 予告編 )

2007-09-01 12:24:39 | 平和 志向★思考☆試行 錯誤


       予告編

      グアム   横井庄一 さんの 記録

 

         


  この夏休み  グアムに行ってきました。うちのとうちゃん、マンマミーヤのために清水の舞台飛び降りたくらいの勢いで連れて行ってくださいました。

    ワタクシ とうちゃんと 喧嘩して GETした オプショナル・ ツアー。
    当然  独り旅.

 っていうか 99人 いたツアー客のうち 横井さんの洞穴なんぞに行こう!っていう日本人は 私くらいのもの。だった。

 明日以降 少しづつ UPさせていただきたく思います。

コメント (3)
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物語 終了  ( 恩師上原輝男先生との思い出 )

2007-09-01 11:49:15 | 上原輝男先生の てるてる ワールド
恩師がお亡くなりになって早十年(11?)昔 細々細腕繁盛記みたいだと先生が言っていらしたけれど、リーダー(=恩師)亡きあとも児童の言語生態研究会の生き残り組は師の「志」をついでこどもたちの い・の・ち を守りたい!と、ただ今も闇の教育界の中で闘っている。

私は 結婚してからもこの研究会の中で何とか生づいていたいと思ったけれど、諸事情がそれを許さなかったし、何より自分にはいろいろな意味で才能がなかった。

恥ずかしながら・・・
小学校の先生をしながら研究会に出かけていた頃のお話をさせていただきたい。

その頃の私は大学で全く学問をしていなかったので、この研究会で話されている内容がさっぱり理解できなかった。

学生時代は「単位とりゃあいいんだろ!」みたいな不遜な態度で暮らしていたから本当に学問は一切しなかった。大学時代の四年間(二年間)お世話になった別の恩師は、自ら学ぶものは指導するが、しないものは放っていく、そういうタイプの女性の先生だったから、その辺りは徹底していた。だけど今思うと、私はこの先生にも愛されていたと思う。( 卒業できたのは 実は奇跡に近いことだった。)

偏差値教育の一番の弊害はこの辺りにあるのではないかと思う。切り取った知識の詰め込み。良い点数。大学合格 もしくは大学ご卒業 → 立派 OK!そういった図式。

話を元にもどそう。例え私が大学で学問をしていたとしても、この研究会の考えていることは恐らくわからなかったのではないかと思う。まずもって発想が全く違うんだ。

「 子供に教えてはいけない。」というんだから・・。

研究会に集う先生方はその殆どが、大学時代から恩師の元で学んだ人たちだったから、水があいていて当然、わからなくて当然なんだ。この研究会では古株も新参者も同じ土俵に立つ。( ここで訊く、宇宙人の会話)

働き始めて何年目だろう?多分4年目の夏合宿、真ん中に「軍人の星」(=プライドの星)を持つ私のプライドをずたずたにされる出来事がおこった。

当時 ひっくり返っていたクラス(=今でいう学級崩壊にちかいかもしれないが、 ただ今のわけわからん学級崩壊とは全くといっていいほど質は違う。子供たちはもっともっとまともだった。)を立て直すために何とか良い授業をしたいと考えていた私は、教材を持ってその年の夏合宿に臨んだ。

何の教材を持っていったか忘れてしまったが、その時の恩師のコメントはいまも忘れられないほど強烈なものだった。(・・・こんな感じ)


上「 前々から 君に何かを言ってあげたいと思っていたが・・・

 君の学ぶ姿勢は,中学生のそれと同じである。君はもらってばかりだ。そりゃあ児言態の先生方は親切だからいろいろと教えてくれるだろうけれど・・・。

 ・・・私はこれこれ こう考えました。だけど、ここでどうしてもわからなくなりましたからどうぞ皆さんお知恵を貸してください。というのならわかる。

 云々・・・

正直言って当時、何で怒られているのかが全くわからなかった。みなさんと同じように教材を用意して、みなさんと同じようになぜその教材を持参したのかを伝える。同じことをしたまでだ。

だけど今頃になってやっと気づいた。そこに自分がいなかったのだということに。苦しんで苦しんで闘う自分がそこにいなかったんだってことに。

学問の分野でいうと哲学になるのだろうか?よくわからないけれど、自分がどこに向かって生きていくのか、生きていきたいのか?そこが問題なのだと思う。
この研究会では、教材を使って、子供たちとともに、「自分」を考えていくんだ。

私はあまりの悔しさに研究会の皆さんの中で泣いた。皆さんと同じように一生懸命やっているのに・・・。それまでの私は人前で泣いたことなどなかった。自慢にも何にもならないけれど 小学校~大学にいたるまで私は卒業式で泣いたことがない。軍人の家庭で育つということはそういうことなのかも知れない。人前では自己の感情は押し殺して生きていたのだと思う。

自分自身を表現することは許されることではなかった。父に気に入られる自分自身になるのにはどうしたらいいのだろうか?母が父に「お前の教育が悪い。」とおこられないようにするためにはどうしたらいいのだろうか?

そんなことを考えつつ、他方自分が自分自身であるためにはどうしたらいいのだろうか?その間の葛藤の中で私は生きてきた。

上原先生に叱られて 私は一つの「こだわり」から脱出できたと思う。それまでの私は中身がピーマンであることをどこかひたかくしにして生きていたんだ。化けの皮がはがれた時に、剥がされたときに、新たな一歩が始まったのだと思う。

私はこの時の恩師の指導をただ今も本当に感謝の気持ちで受け取っている。本当に楽になったんだ、自分自身が。

教育というのは 知識を与えることではなくて、子どもの「こだわり」、つまずいている場所を発見してそれを正してやることなのだと思う。

その時に、自分というものを表現しなければ(してくれなければ)対話はなりたたないし、教育もなりたたない。そしてそれは普段の姿 形を見なくては見誤るのだ。

この時の、たった一つの教えを与えるのに上原先生は実に、じっと五年間に渡って私を観察し、そして矢を放ったんだ。

やっぱり 本物の先生だったなあ と今も思う。
 
原爆にあって 「 いのちをいただいている。」ということがどういうことなのかを知っていた先生だったから このような指導ができたのだと思う。

私たち研究会の先生方にいつもおっしゃっていたことは・・・
「私心を 捨てろ!」
ということだった。

まさに先生ご自身もそのような生き方をなさったし、研究会の生き残りの先生方もそうやって生きてこられたのだと思う。

 今 思う。

 細々と( 実際には太いんですけどね)細腕繁盛記のようでいいから 
 
 師のあとをついて 生き、行きたい。

>> 毎日 アクセスしてくださったあなた様へ

   本当に  ありがとう! 

   恩師のご著書 「 忘れ水 物語 」は 近々 2007、8、6日 に移動します。( 総集編 )

>写真は以前のもの。 マンション近くの アメリカン・ディエゴ 剪定されて花開けなかったつぼみ。 葉の裏にせみのぬけがら。
 
   お題 「 行く 夏  ありがとう! い の ち 」 



  


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