いつだったかな~ 遍路にでかけたのは。
そう それは かきの実が熟れる頃だった。
白装束(しろしょうぞく)に身を包むということはどういうことか?というと それは死をかけて とか死んだつもりで とかそういう意味があるんだったと思う。あの世に出かけるときに真っ白いお着物を着せるのと同じなんだ。
尤も当時の私はそんなことなんか考えているわけもなく ただガイド・ブックに従っただけだけど。
杖は お大師様。同行二人のもう一人はお大師様なんだ。だからちょっと休むときも、宿に泊まるときも必ず杖を先に休ませるし大切に扱うんだ。
最初に出会った人たちは おじさんとおばあさん。こちらは(私)一目みればお遍路さまの格好をしているからそれとわかる。四国ではお遍路さんはお大師さまとして大切に扱ってくださるんだ。
そのおじさんは柿の木の枝を一折 手折って 熟れすぎてしまった柿をそのおばあさんに、そしてもう一つを私にくれた。
私は突然のことで びっくりしたがお礼を言ってその場を立ち去った。
しばらく行ったところで道端に腰を掛けて その柿をいただくことにした。実は 柿は好きなくだものではなかったし、だいいち柿の実の皮をむくナイフもない。
仕方がないので 白装束の胸のところでごしごし拭いていただいた。ちょうど小さい小僧がどこかのおうちのりんごを盗みTシャツで拭いて丸かじりするみたいにね。
その柿の何とおいしかったことか、その時から私は柿が好きになったけれど 今だにあんなにおいしい柿を食べたことがない。
私には 遍路をやって忘れられない人がいる。
山下のおじいちゃん。
おじいちゃんと会ったのは一体いつのことだったのだろうか?
お四国巡拝の「発心の道場」(徳島県)「修行の道場」(高知県)、この高知県の室戸岬までは徒歩でくぎり打ちをした。
そこから先は どう頑張っても家に帰りつくことができないから バスでの参拝となる。そのバスの遍路の旅でであったのが山下のおじいちゃんだ。
私は 父を亡くして三年目くらいだったから その山下のおじいちゃんが父のように想えたんだ。山下のおじいちゃんは私がきちんとした装束を身につけていることをいたく気に入ってくださって娘のように可愛がってくださった。
出会ってから間もなく おじいちゃんの身の上話を聞くこととなった。おじいちゃんは 息子さんと奥さんを立て続けに亡くしていた。息子さんはどびの仕事をしていて足場から落ちて即死だったらしい。
私が 驚いたのは次のような事情による。その息子さんのお誕生日が私と全く一緒だったからだ。
何月 何日 それだけでも 1/365 の確率なわけで それが何年まで一緒となると どれくらいの確率になるのだろうか?
( まさか? )
と疑いの目を向けたかどうかは忘れてしまったけれど・・・おじいちゃんは懐から大事そうに息子さんの更新されることのない運転免許証を取り出して見せてくれた。
そこには まぎれもなく自分と同じ誕生日が記録されていた。
占いでは・・・
実は 宇宙盤というのがあって、それを元にして運勢を占っていくんだ。
男と女では全く同じ日に生まれても、逆まわりに運勢が動いていくんだ。
だけど持っている星は全く一緒なので、こういう風に暮らすといいだろう。ということはある程度予測がたつ。
私も 息子さんも親と一緒に暮らさない方がよかったのだと思う。そうすれば早すぎた死はなかったのではないか?と思う。
だけど それは結果論であって 例えそうであってもなくても同じ運命だったのかもしれない。それは誰にもわからないことだ。
今 ここにいた人が さっきまでおしゃべりしていた人が・・・。今朝元気に出かけて行った人が・・・亡くなる。
そういう事だってありえないことではないんだ。
自分自身が 自分の家族が生をいただいている意味はどこにあるのだろうか?
少なくともいろいろ家庭内諸事情があったとしても たとえ価値観が違ったとしても 出かけるその時には笑顔で送り出さなくてはいけないのだろうな。そんなことを思う。
マンマミーヤが学校から帰ってきたら ジャパンを除く三人で主人の実家にでかけよう!もうすぐ 「 敬老の日 」だ。
親孝行はできるうちにやっておくほうが よい。
遍路道には・・・実に不思議なめぐりあい というものが存在するんだ。こころを向けたときに 神様とか仏様というのは何かしら生きるヒントなり 暖かいひとや自然とのふれあいの時を下さるのだろうと思う。
尤も その反面 信じられないほどの難行、苦行になることもあるらしい。それはただ今のその人に何が必要なのか、ということを考えてあたえられる修行なのだろう。
お大師さんは 暖かいけれど、非常に厳しい人でもあるらしい。
>写真は 「 川崎大師 」 の境内にある 八十八ヶ所を巡拝できる場所。正面は若き日のお大師さん。お大師さんは健脚だったらしい。足腰が丈夫になるように願ってわらじにお水をかける。
逆打ちをすると (=八十八ヶ所目のお寺から巡る)とお大師さんに会えると言われている。何でも五倍くらいの苦労を伴うらしい。
そう それは かきの実が熟れる頃だった。
白装束(しろしょうぞく)に身を包むということはどういうことか?というと それは死をかけて とか死んだつもりで とかそういう意味があるんだったと思う。あの世に出かけるときに真っ白いお着物を着せるのと同じなんだ。
尤も当時の私はそんなことなんか考えているわけもなく ただガイド・ブックに従っただけだけど。
杖は お大師様。同行二人のもう一人はお大師様なんだ。だからちょっと休むときも、宿に泊まるときも必ず杖を先に休ませるし大切に扱うんだ。
最初に出会った人たちは おじさんとおばあさん。こちらは(私)一目みればお遍路さまの格好をしているからそれとわかる。四国ではお遍路さんはお大師さまとして大切に扱ってくださるんだ。
そのおじさんは柿の木の枝を一折 手折って 熟れすぎてしまった柿をそのおばあさんに、そしてもう一つを私にくれた。
私は突然のことで びっくりしたがお礼を言ってその場を立ち去った。
しばらく行ったところで道端に腰を掛けて その柿をいただくことにした。実は 柿は好きなくだものではなかったし、だいいち柿の実の皮をむくナイフもない。
仕方がないので 白装束の胸のところでごしごし拭いていただいた。ちょうど小さい小僧がどこかのおうちのりんごを盗みTシャツで拭いて丸かじりするみたいにね。
その柿の何とおいしかったことか、その時から私は柿が好きになったけれど 今だにあんなにおいしい柿を食べたことがない。
私には 遍路をやって忘れられない人がいる。
山下のおじいちゃん。
おじいちゃんと会ったのは一体いつのことだったのだろうか?
お四国巡拝の「発心の道場」(徳島県)「修行の道場」(高知県)、この高知県の室戸岬までは徒歩でくぎり打ちをした。
そこから先は どう頑張っても家に帰りつくことができないから バスでの参拝となる。そのバスの遍路の旅でであったのが山下のおじいちゃんだ。
私は 父を亡くして三年目くらいだったから その山下のおじいちゃんが父のように想えたんだ。山下のおじいちゃんは私がきちんとした装束を身につけていることをいたく気に入ってくださって娘のように可愛がってくださった。
出会ってから間もなく おじいちゃんの身の上話を聞くこととなった。おじいちゃんは 息子さんと奥さんを立て続けに亡くしていた。息子さんはどびの仕事をしていて足場から落ちて即死だったらしい。
私が 驚いたのは次のような事情による。その息子さんのお誕生日が私と全く一緒だったからだ。
何月 何日 それだけでも 1/365 の確率なわけで それが何年まで一緒となると どれくらいの確率になるのだろうか?
( まさか? )
と疑いの目を向けたかどうかは忘れてしまったけれど・・・おじいちゃんは懐から大事そうに息子さんの更新されることのない運転免許証を取り出して見せてくれた。
そこには まぎれもなく自分と同じ誕生日が記録されていた。
占いでは・・・
実は 宇宙盤というのがあって、それを元にして運勢を占っていくんだ。
男と女では全く同じ日に生まれても、逆まわりに運勢が動いていくんだ。
だけど持っている星は全く一緒なので、こういう風に暮らすといいだろう。ということはある程度予測がたつ。
私も 息子さんも親と一緒に暮らさない方がよかったのだと思う。そうすれば早すぎた死はなかったのではないか?と思う。
だけど それは結果論であって 例えそうであってもなくても同じ運命だったのかもしれない。それは誰にもわからないことだ。
今 ここにいた人が さっきまでおしゃべりしていた人が・・・。今朝元気に出かけて行った人が・・・亡くなる。
そういう事だってありえないことではないんだ。
自分自身が 自分の家族が生をいただいている意味はどこにあるのだろうか?
少なくともいろいろ家庭内諸事情があったとしても たとえ価値観が違ったとしても 出かけるその時には笑顔で送り出さなくてはいけないのだろうな。そんなことを思う。
マンマミーヤが学校から帰ってきたら ジャパンを除く三人で主人の実家にでかけよう!もうすぐ 「 敬老の日 」だ。
親孝行はできるうちにやっておくほうが よい。
遍路道には・・・実に不思議なめぐりあい というものが存在するんだ。こころを向けたときに 神様とか仏様というのは何かしら生きるヒントなり 暖かいひとや自然とのふれあいの時を下さるのだろうと思う。
尤も その反面 信じられないほどの難行、苦行になることもあるらしい。それはただ今のその人に何が必要なのか、ということを考えてあたえられる修行なのだろう。
お大師さんは 暖かいけれど、非常に厳しい人でもあるらしい。
>写真は 「 川崎大師 」 の境内にある 八十八ヶ所を巡拝できる場所。正面は若き日のお大師さん。お大師さんは健脚だったらしい。足腰が丈夫になるように願ってわらじにお水をかける。
逆打ちをすると (=八十八ヶ所目のお寺から巡る)とお大師さんに会えると言われている。何でも五倍くらいの苦労を伴うらしい。