昨晩あやかし@シンデレラはいちょう町のライブハウス”NAP”に出かけた。ギターの上手な猪股タケシさんのワンマン・ライブがあったんだ。
猪股さんのギターはイントゥルメンタル。猪股さんは、背が高くイケメン、だからかどうかはわからないけれど、ライブハウス内、綺麗なおねえさんたちが多い。@おばはん遠慮なく混じる。
だって、いつかは弾きたいギター。作りたいCD。
たまたま隣に座ったおばさまはなんと三重県からいらした方だった。
姫「伊勢神宮の近くですか?」(→なんでも神社・仏閣につなげて質問をするおばはん)
このおばさま、再びギター(インストゥルメンタル)を始められたのだそうだ。(昔はフォークギターを弾いていた。)で、ネットで調べていたら、猪股さんのギターに行きついたらしい。年齢はおそらくワタシより下。昔のフォークソングの話をしたら、大体わかるのよね、お・と・し。
左指確認。( おぅ~練習つんでますね~。)このおばさま凝り性で、ギター作りまでお習いしているらしい。つまりは、ネックのまがりを自分でなおせるようになりたい。とか、弦がハイ・ポジションになると指が痛くならないように、かつまた、いい音がでるように手直しするらしい・・・それを、自分で直したいのだそうな。(すご~~。)
二人でなんじゃらかんじゃら盛り上がる、開演までの待ち時間
@@@@@ 猪股タケシさんの ライブ @@@@@
猪股さんの演奏は、ユーチューブにあるんで、自力でお出かけください。ワタシは「 Rord To Sky 」 という曲が好き。
猪股さんのライブは、インストゥルメンタルのギターと語りで構成されている。ワタシは猪股さんのギターも好きだけれど、実はこの語りがすきなんだ。
演奏に関しては、ご紹介することが難しいのだけれど( ユーチューブにアクセスしてね。百聞は一見(一聴)にしかず)この方は大学で文学部に所属し、国文学を専攻したらしい。で、文学青年であったと。なんだかの文芸雑誌にも投稿されたことがあるようなお話でした。( 文学は姫の苦手分野ね。)
ライブでは、へ~っと関心する話が多かったけれど、その中の一つに、猪股さんが子供のころから通っていた早川書店のおじさんのお話が出てきました。早川書店のおじさんは、実はちょこっと名の知れたおじさんでした。猪股さんが、ご紹介くださったようにそのエッセイ 私もすごく気に入ったので、了解はとっていませんが以下に転載させていただきます。
< 早川さんのエッセイ >
本屋の夢ばかり見る。店を閉めてからもう七年も経つのに、いまだに見る。たとえば、妻が通路に編物の本をずらーっと並べてしまうので、何やってんだよと怒ったりするような、そんな夢で、目が覚める。
よっぽど苦労したからだろうか、それとも楽しかったからだろうか。わからない。とにかく、僕の中では、いまだに本屋が続いているのである。
十八歳から二十一歳ぐらいまで、僕は歌を歌っていた。売れなかった。グループは解散し、制作の仕事に回ったが、やめた。勝手な言い草だが、いわゆる、ふざけたり、かっこつけたりする若者の顔が無性に嫌になった。二十三歳だった。早く、おじいさんになりたかった。
ファンであったという人から「もう歌わないんですか?」と尋ねられた時、「なぜ生きているんですか?」と問われているような錯覚に陥ったが、「五十か六十になったらまた歌いますよ」と僕は冗談まじりに答えた。しかし、それは案外本気だった。どんなに月日が流れても、僕は何一つ変わらない。いつの時代も、変わるのは風景だけだ。
二十五歳で店を持った。本屋を選んだのは、風呂屋の番台のように、猫でも抱いていれば、毎日が過ぎていくだろうと思ったからだが、それは、まったくの大きな勘違いであった。
そんな苦労話や笑い話は、『ぼくは本屋のおやじさん』という本に書いたことだが、小さな町の小さな本屋は、本を揃えたくとも、欲しい本は入って来ないのである。考えてみれば、しかたがないことであった。たとえば、初版五千部の本をどうやって全国ニ万軒の書店に行き渡らせることが出来ようか。
時々「俺は本が好きだぞ」みたいなお客さんから、「新聞広告が出ているのに、どうしてないの?」とバカにされることはあったが、そのたびに僕は、街を作るのも、店の棚を作るのも、同じ街に住んでいる人たちなのになーと思った。
幸いいいお客さんに恵まれ、気さくな本屋仲間ともめぐり逢い、本屋は楽しかったが、このまま終っていいのだろうかと思った。もしも、このまま死んでしまったら、自分の身体はちゃんと燃えないのではないかと思った。かつて、音楽を中途半端な状態でやめてしまったという、気持ち悪さがあったからだ。
何かやり残していることがあるような、自分が何者なのかを知りたくなったのだ。笑われても構わない。これから下り坂という時に、今度は若い頃に戻りたくなってしまったのである。
恋をした。僕は再び歌を作るようになった。ブランクとか技術とか才能は関係ない。へただっていい。伝えたいことと、伝えたい人がいれば、歌は生まれて来るのだ。もしも、歌いたいことがなければ、歌わないことが、歌っていることなのだ。僕は「歌わなかった二十数年間、実は歌っていたんだね」と思われるように、歌を歌いたかった。
復活後の最初の仕事はBSテレビの収録だった。僕は緊張のあまり、何度もトチッてしまった。逃げ出したくなるほど恥ずかしかった。ところが、その時、ディレクターから「早川さん、全然おかしくありませんから。僕はこの歌が好きになって、何度も聴けて幸せだと思っているくらいですから。途中でやめてもいいですし、プロとして最後まで歌ってもいいですし、時間はいくらでもありますから」と勇気づけられた。
僕は下を向きながら、ああ、僕の求めている場所はここなのだ、と思った。この綱の上を歩いていけば、そこに、たどりつけるような気がした。本屋での「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」の世界には、そんな感動はなかったからだ。
しかし、それはとんでもない間違いであった。閉店の日、僕は泣いてばかりいた。棚を見ているだけで、涙がこぼれて来た。これまでに、一度も喋ったことのないお客さんからも「寂しい」と言われたり、「残念です」とか「元気でね」と声をかけられた。花束や手紙をもらった。いつもよりずっと長くいて、棚をひとつひとつ丁寧に見て回る人もいた。何も語らず、たくさん本を買っていく人もいた。
本屋での「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」の世界にも感動はあったのだ。小説や映画やステージの上だけに感動があるのではない。こうした何でもない日常の世界に、それは、目に見えないくらいの小さな感動なのだが、毎日積み重なっていたのだということを僕は閉店の日にお客さんから学んだ。
このことは一生忘れない。なにも歌を作ったり、人前で歌ったりすることが素晴らしいことでも、ましてや、かっこいいわけでもない。日常で歌が歌えていれば、それに越したことはない。日常をいきいきと暮らし、毎日が幸せなら、わざわざ歌を作って歌う必要などない。
寂しいから歌うのだ。悲しいから歌うのだ。何かが欠けているから歌うのだ。精神が普通であれば、ちっともおかしくなければ、叫ぶ必要も心をあらわにする必要も楽器を震わせる必要もない。歌わざるを得ないから歌うのだ。
父のこと、母のこと、無くなったお店のこと、両親を支えた姉のこと・・・。
義父のこと、義母のこと、おばちゃんのこと、妹たちの家族のこと・・・。
とうちゃんのこと、子供たちのこと、自分のこと・・・。
いろいろ イロイロ 色々 思いだした。
「 不易流行 」 恩師 上原輝男先生が教えてくれた言葉。 時が流れて行っても変わらないもの。
明日 岡本太郎さんの「 明日の神話 」が渋谷に蘇る。
大阪の万博の「 太陽の塔 」が造られたのとほぼ同時進行で造られたと聞く。その壁画はメキシコで死蔵されていたが、35年の時を経て今、日本の国に蘇る。そこには多くの人々の祈りにも似た働きがあったのだ。
人を動かしていくものは、決して力ではない。
大事なものは何なのか?
自己のうちなる本当の「 声 」にいつもいつも耳を傾けていなくてはならない。
そう思った。
>早川義夫さん・・・「 ジャックス 」 というバンドを組んでいた。
ワタシは早川さんの作った「 サルビアの花 」という曲をギターを弾いてうたったことがある。確か 山崎ハコという名前の女性の歌手だったと思う。
猪股さんのギターはイントゥルメンタル。猪股さんは、背が高くイケメン、だからかどうかはわからないけれど、ライブハウス内、綺麗なおねえさんたちが多い。@おばはん遠慮なく混じる。
だって、いつかは弾きたいギター。作りたいCD。
たまたま隣に座ったおばさまはなんと三重県からいらした方だった。
姫「伊勢神宮の近くですか?」(→なんでも神社・仏閣につなげて質問をするおばはん)
このおばさま、再びギター(インストゥルメンタル)を始められたのだそうだ。(昔はフォークギターを弾いていた。)で、ネットで調べていたら、猪股さんのギターに行きついたらしい。年齢はおそらくワタシより下。昔のフォークソングの話をしたら、大体わかるのよね、お・と・し。
左指確認。( おぅ~練習つんでますね~。)このおばさま凝り性で、ギター作りまでお習いしているらしい。つまりは、ネックのまがりを自分でなおせるようになりたい。とか、弦がハイ・ポジションになると指が痛くならないように、かつまた、いい音がでるように手直しするらしい・・・それを、自分で直したいのだそうな。(すご~~。)
二人でなんじゃらかんじゃら盛り上がる、開演までの待ち時間
@@@@@ 猪股タケシさんの ライブ @@@@@
猪股さんの演奏は、ユーチューブにあるんで、自力でお出かけください。ワタシは「 Rord To Sky 」 という曲が好き。
猪股さんのライブは、インストゥルメンタルのギターと語りで構成されている。ワタシは猪股さんのギターも好きだけれど、実はこの語りがすきなんだ。
演奏に関しては、ご紹介することが難しいのだけれど( ユーチューブにアクセスしてね。百聞は一見(一聴)にしかず)この方は大学で文学部に所属し、国文学を専攻したらしい。で、文学青年であったと。なんだかの文芸雑誌にも投稿されたことがあるようなお話でした。( 文学は姫の苦手分野ね。)
ライブでは、へ~っと関心する話が多かったけれど、その中の一つに、猪股さんが子供のころから通っていた早川書店のおじさんのお話が出てきました。早川書店のおじさんは、実はちょこっと名の知れたおじさんでした。猪股さんが、ご紹介くださったようにそのエッセイ 私もすごく気に入ったので、了解はとっていませんが以下に転載させていただきます。
< 早川さんのエッセイ >
本屋の夢ばかり見る。店を閉めてからもう七年も経つのに、いまだに見る。たとえば、妻が通路に編物の本をずらーっと並べてしまうので、何やってんだよと怒ったりするような、そんな夢で、目が覚める。
よっぽど苦労したからだろうか、それとも楽しかったからだろうか。わからない。とにかく、僕の中では、いまだに本屋が続いているのである。
十八歳から二十一歳ぐらいまで、僕は歌を歌っていた。売れなかった。グループは解散し、制作の仕事に回ったが、やめた。勝手な言い草だが、いわゆる、ふざけたり、かっこつけたりする若者の顔が無性に嫌になった。二十三歳だった。早く、おじいさんになりたかった。
ファンであったという人から「もう歌わないんですか?」と尋ねられた時、「なぜ生きているんですか?」と問われているような錯覚に陥ったが、「五十か六十になったらまた歌いますよ」と僕は冗談まじりに答えた。しかし、それは案外本気だった。どんなに月日が流れても、僕は何一つ変わらない。いつの時代も、変わるのは風景だけだ。
二十五歳で店を持った。本屋を選んだのは、風呂屋の番台のように、猫でも抱いていれば、毎日が過ぎていくだろうと思ったからだが、それは、まったくの大きな勘違いであった。
そんな苦労話や笑い話は、『ぼくは本屋のおやじさん』という本に書いたことだが、小さな町の小さな本屋は、本を揃えたくとも、欲しい本は入って来ないのである。考えてみれば、しかたがないことであった。たとえば、初版五千部の本をどうやって全国ニ万軒の書店に行き渡らせることが出来ようか。
時々「俺は本が好きだぞ」みたいなお客さんから、「新聞広告が出ているのに、どうしてないの?」とバカにされることはあったが、そのたびに僕は、街を作るのも、店の棚を作るのも、同じ街に住んでいる人たちなのになーと思った。
幸いいいお客さんに恵まれ、気さくな本屋仲間ともめぐり逢い、本屋は楽しかったが、このまま終っていいのだろうかと思った。もしも、このまま死んでしまったら、自分の身体はちゃんと燃えないのではないかと思った。かつて、音楽を中途半端な状態でやめてしまったという、気持ち悪さがあったからだ。
何かやり残していることがあるような、自分が何者なのかを知りたくなったのだ。笑われても構わない。これから下り坂という時に、今度は若い頃に戻りたくなってしまったのである。
恋をした。僕は再び歌を作るようになった。ブランクとか技術とか才能は関係ない。へただっていい。伝えたいことと、伝えたい人がいれば、歌は生まれて来るのだ。もしも、歌いたいことがなければ、歌わないことが、歌っていることなのだ。僕は「歌わなかった二十数年間、実は歌っていたんだね」と思われるように、歌を歌いたかった。
復活後の最初の仕事はBSテレビの収録だった。僕は緊張のあまり、何度もトチッてしまった。逃げ出したくなるほど恥ずかしかった。ところが、その時、ディレクターから「早川さん、全然おかしくありませんから。僕はこの歌が好きになって、何度も聴けて幸せだと思っているくらいですから。途中でやめてもいいですし、プロとして最後まで歌ってもいいですし、時間はいくらでもありますから」と勇気づけられた。
僕は下を向きながら、ああ、僕の求めている場所はここなのだ、と思った。この綱の上を歩いていけば、そこに、たどりつけるような気がした。本屋での「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」の世界には、そんな感動はなかったからだ。
しかし、それはとんでもない間違いであった。閉店の日、僕は泣いてばかりいた。棚を見ているだけで、涙がこぼれて来た。これまでに、一度も喋ったことのないお客さんからも「寂しい」と言われたり、「残念です」とか「元気でね」と声をかけられた。花束や手紙をもらった。いつもよりずっと長くいて、棚をひとつひとつ丁寧に見て回る人もいた。何も語らず、たくさん本を買っていく人もいた。
本屋での「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」の世界にも感動はあったのだ。小説や映画やステージの上だけに感動があるのではない。こうした何でもない日常の世界に、それは、目に見えないくらいの小さな感動なのだが、毎日積み重なっていたのだということを僕は閉店の日にお客さんから学んだ。
このことは一生忘れない。なにも歌を作ったり、人前で歌ったりすることが素晴らしいことでも、ましてや、かっこいいわけでもない。日常で歌が歌えていれば、それに越したことはない。日常をいきいきと暮らし、毎日が幸せなら、わざわざ歌を作って歌う必要などない。
寂しいから歌うのだ。悲しいから歌うのだ。何かが欠けているから歌うのだ。精神が普通であれば、ちっともおかしくなければ、叫ぶ必要も心をあらわにする必要も楽器を震わせる必要もない。歌わざるを得ないから歌うのだ。
父のこと、母のこと、無くなったお店のこと、両親を支えた姉のこと・・・。
義父のこと、義母のこと、おばちゃんのこと、妹たちの家族のこと・・・。
とうちゃんのこと、子供たちのこと、自分のこと・・・。
いろいろ イロイロ 色々 思いだした。
「 不易流行 」 恩師 上原輝男先生が教えてくれた言葉。 時が流れて行っても変わらないもの。
明日 岡本太郎さんの「 明日の神話 」が渋谷に蘇る。
大阪の万博の「 太陽の塔 」が造られたのとほぼ同時進行で造られたと聞く。その壁画はメキシコで死蔵されていたが、35年の時を経て今、日本の国に蘇る。そこには多くの人々の祈りにも似た働きがあったのだ。
人を動かしていくものは、決して力ではない。
大事なものは何なのか?
自己のうちなる本当の「 声 」にいつもいつも耳を傾けていなくてはならない。
そう思った。
>早川義夫さん・・・「 ジャックス 」 というバンドを組んでいた。
ワタシは早川さんの作った「 サルビアの花 」という曲をギターを弾いてうたったことがある。確か 山崎ハコという名前の女性の歌手だったと思う。