この祖父が死んだのは大正十二年、軽便鉄道竣工は大正四年九月だから、祖父もこの軽便を見ている。
しかし、祖父は生涯、この軽便に乗らなかったという。警察官として、公務の場合もあっただろうと思うのに、頑なに何かを守ったとしか言いようがない。刑事としての腕利きを見込まれて、所轄外の警察に何度も出張している。そのような時はどうするのかと言えば、当時、阪鶴鉄道と呼ばれた、大阪、舞鶴間を走った交通機関は何の抵抗もなく利用している。すると、祖父も、この旧城下を煤煙で汚すことを嫌った保守派の一人だったのだろうか。
篠山が離合集散して、完全に幕藩時代と決別するのは、明治四年九月六日であったと思う。もちろん、軽便鉄道はおろか、鉄道馬車さえ、まだついていない。
この日、華族条例によって、旧藩公は、東京移住を決定、次のような告諭文を残している。
「 我等今般帰京後、於各、猶又朝旨を遵奉し、私見を去り、県令を重んじ、いやしくも県下に在る者、先知は後知を覚し(さとし)、迷誤なくいよゝ恪勤(かくきん)して県令に従はしむるを以て、祖先累世の恩に報ずることをせば、我等の大幸これに出でず、万一、己(をのれ)の私見を執(と)り、朝廷御役人に遠慮するものあらば、大罪身を容るる所なし。よろしく、微衷を察し、鎮静奉命せんことを希望す。
この事、深く関心候につき、重ねて申し諭し候也。
辛未九月
追て、秋冷の時分、各々保護し候やう存じ候。」
この文章のどこにも、新時代到来の足音を聞きつける歓喜の声は発せられてはいない。むしろ、御一新という兇暴な権力の前に虐げられた敗者の声を殺した嗚咽があるというのは言いすぎだろうか。
しかし、祖父は生涯、この軽便に乗らなかったという。警察官として、公務の場合もあっただろうと思うのに、頑なに何かを守ったとしか言いようがない。刑事としての腕利きを見込まれて、所轄外の警察に何度も出張している。そのような時はどうするのかと言えば、当時、阪鶴鉄道と呼ばれた、大阪、舞鶴間を走った交通機関は何の抵抗もなく利用している。すると、祖父も、この旧城下を煤煙で汚すことを嫌った保守派の一人だったのだろうか。
篠山が離合集散して、完全に幕藩時代と決別するのは、明治四年九月六日であったと思う。もちろん、軽便鉄道はおろか、鉄道馬車さえ、まだついていない。
この日、華族条例によって、旧藩公は、東京移住を決定、次のような告諭文を残している。
「 我等今般帰京後、於各、猶又朝旨を遵奉し、私見を去り、県令を重んじ、いやしくも県下に在る者、先知は後知を覚し(さとし)、迷誤なくいよゝ恪勤(かくきん)して県令に従はしむるを以て、祖先累世の恩に報ずることをせば、我等の大幸これに出でず、万一、己(をのれ)の私見を執(と)り、朝廷御役人に遠慮するものあらば、大罪身を容るる所なし。よろしく、微衷を察し、鎮静奉命せんことを希望す。
この事、深く関心候につき、重ねて申し諭し候也。
辛未九月
追て、秋冷の時分、各々保護し候やう存じ候。」
この文章のどこにも、新時代到来の足音を聞きつける歓喜の声は発せられてはいない。むしろ、御一新という兇暴な権力の前に虐げられた敗者の声を殺した嗚咽があるというのは言いすぎだろうか。