やはり自分は、ネコだと自覚しているらしい。
名前でなくても、ネコで通じるようだ。
水を飲みに来たので、家人が「ネコちゃん」と、声をかけると、反応したという。
明治の文豪の小説は、「吾輩は猫である、名前はまだない」で、始まった。
別に、ことさらな名前は必要ない。愛称をつけたければ、それはそれでいい。
しかし、ネコが自分の名前だと気がつくまで、少し時間がかかるのではないか。
ならば「吾輩も猫である」。
猫の目と言うが、今の政府の政策は、ころころと「猫の目」のように変わる。
生物学的に言って、猫の目は、そんなにめまぐるしく変わるのか、実態は知らない。
場当たり的に、変えるので猫の目どころではない。
それも、問題が起きる都度、〇〇委員会などと、いくつもの委員会を作って審議はすれど、解決できないで、引き続き検討と言うことで、うやむやのうちに、消え去る。
自分が何の委員会で、何のために活動しているか、全く自覚のない議員が多いのではないか。
国会で、居眠りしている議員は、眠り猫ほどの価値もない。
今後も、吾輩のネコ目線で、人間社会を観察してみようと思う。