●東ローマ帝国 - Wikipedia
東ローマ帝国(395年‐1453年)は、 東西に分裂したローマ帝国の東方地域を継承し、オスマン帝国によって滅ぼされるまでの1000年以上にわたって存続した帝国。一般に「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」「中世ローマ帝国」とも呼ばれるが、これらの名称はどれも後世の人間による呼称であり、その政府や住民は自らの国を単に「ローマ帝国」と称していた。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ・イスタンブル)。カール大帝の戴冠以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシア帝国(Empire of Greek)」「コンスタンティノープルの帝国(Empire of Constantinople)」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた。
●ロシア帝国 - Wikipedia
ロシア帝国は、第一次世界大戦中の1917年にロシア革命によって打倒されるまで存在したロシアの政体。帝政ロシアとも言われる。厳密には1721年に、スウェーデンとの大北方戦争に勝利したロマノフ朝のピョートル1世が、元老院からインペラートル(皇帝)の称号を贈られ、国体を帝国と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国」と称したのに始まる。ただし、ロマノフ朝の前王朝リューリク朝のイヴァン3世が15世紀後半にツァーリ(これも「皇帝」と訳しうる)の称号を用いたころには、ロシア(モスクワ大公国)は帝国とみなされるような力を持っていたことから、ロシア帝国という言葉の指す時期は拡大して使われることもある。
ロシア帝国の成立:ロシア帝国は、ルーシの各地に存在した諸公国のうちのひとつから発展したモスクワ大公国に始まる。モスクワ大公国は14世紀から15世紀にかけて、タタールや周辺のルーシ諸国と戦って勢力を拡大し、イヴァン3世のとき、はじめて「ツァーリ」の称号を名乗った。ツァーリというロシア語の称号は、ルーシの社会ではもともと東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝に対して用いられていたものである。通説によれば、1453年にビザンツ帝国のパレオロゴス朝がオスマン帝国に滅ぼされた後、モスクワ大公イヴァン3世はパレオロゴス朝最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪を迎えて結婚し、ツァーリの称号を名乗る正統性を得たとされる。またこの時代には、モスクワにあった東方正教会の府主教座(現モスクワ総主教庁)がコンスタンティノポリス総主教庁から独立を宣言しており、東ローマ帝国の滅亡に伴って、モスクワはローマ帝国のローマ、東ローマ帝国のコンスタンティノポリスに継ぐ「第三のローマ」であるという言説が見られるようになるなど、モスクワ大公国の中で「帝国」を自任する意識が生じていた。
ただ、ツァーリの称号の起源については、当時のルーシでは、サライにいるジョチ・ウルスの「ハーン」をもツァーリと呼んでいた事実を指摘し、単純に東ローマ帝国の継承であるとみなすべきではないという説もある。
●西ローマ帝国 - Wikipedia
西ローマ帝国(395年‐476年)は286年のディオクレティアヌス帝によるローマ帝国の東西分割の後に、帝国の西半分に与えられた名称である。この帝国は3世紀から5世紀までの間、ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治、四分治制)、コンスタンティヌス1世が関わった再統一、ユリアヌスの治世を経て、数度にわたって断続的に存在した。テオドシウス1世が、統一されたローマ帝国を支配した最後の皇帝である。395年にテオドシウス1世が身罷ると、ローマ帝国は最終的に分割された。その後476年9月4日に幼帝ロムルス・アウグストゥルスが、ゲルマン人オドアケルの圧迫を受けて退位すると、西ローマ帝国が滅亡したというのが公式の説であるが、非公式には、480年にネポス帝が崩御した時とされる。西ローマ帝国の滅亡したとき、西ヨーロッパの歴史において新しい時代が、すなわち中世が始まった。
●フランク王国 - Wikipedia
フランク王国は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。ゲルマン系のフランク人サリー支族が建てた王国であることからこの名がある。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギーを領土とした。
800年のクリスマスに、カール大帝はローマ教皇より西ローマ帝国皇帝の称号を得た。カール大帝はフランク人の伝統に即し、3人の嫡男が王国を分割するよう遺言した。 814年にカールが72歳で死去した後、王国は唯一生存していた息子、敬虔王ルートヴィヒ(ルイ1世)に継承された。ルートヴィヒもまた817年に3人の息子たちが王国を分割相続する法律を制定した。
ルートヴィヒが840年に死亡した後、息子の1人ロタール1世が権力を掌握して皇帝となったものの、2人の弟は兄に反旗を翻して軍事的勝利を得た。その結果3年後の843年、ヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は東、中、西の3つに分割された。ほんの一時期、カール3世(肥満王)が統一したこともあるが、ごく短期間で崩壊した。これは実質的なフランク王国の終焉を意味した。
うち、西フランク王国はのちのフランスに相当し、東フランク王国は後の神聖ローマ帝国からドイツにつながっていく。一方、ロタールが得た中フランク王国(のちに「ロタールの王国」と言う意味の独:ロートリンゲン 仏:ロレーヌの語源となった)は、オランダからライン川流域を経てイタリアに至る細長い地域で、帝国の2つの首都(ローマとエクス・ラ・シャペル)を含んでいたものの、地域的な一貫性に乏しく、統治は困難を極め、まもなく北部の領土は東西フランク王国によって分割吸収された(870年のメルセン条約)。中フランク王国は後にイタリアに集約され、神聖ローマ帝国時代には、皇帝のイタリア王国の王位として兼任される様になった。
●神聖ローマ帝国 - Wikipedia
神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)は、中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた政体。帝国というよりは実質的に大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のオーストリア帝国(当事はオーストリア大公領およびハプスブルク家支配地域)やプロイセン王国などドイツ諸国家が成長していった。ドイツ帝国とも呼ばれ、1806年帝国解散の詔勅はこの名で行われた。もともとは古代のローマ帝国やカール大帝のフランク王国の後継帝国を意味していた。そのため、この政体の君主は正式に言うと初期にはフランク王、後にはローマ王であり、この肩書きを得た者がローマで戴冠し、ローマ皇帝に就任したのである。
962年オットー1世(大帝)がローマ教皇ヨハネス12世により、古代ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まる。もっとも神聖ローマ皇帝の初代はゲルマン部族国家の王で最初にローマ教皇権と結託してローマ皇帝の帝冠を頂いたカール大帝であるという思想・理念もある。
もともとザクセン部族大公権を権力の母体としてその歴史を開始しており、ザクセン人の伝統はフランク人と違って非常時以外には王を戴かぬ選挙王制だったため、当初から帝権は弱体で、封建領主の連合体という側面が強かった。その上歴代皇帝は、「ローマ帝国」という名目の為にイタリアの支配権を唱え、度々侵攻した(イタリア政策)。このためドイツでの帝権強化にまで手が回らず、他国に比べ中央集権化が遅れた。
1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも皇帝が選ばれもしない大空位時代となり、帝国としての実体をまったく成さない状態となった。14世紀のカール4世 (在位;1347年 - 1378年)による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権、独自の外交権等の強大な自治権が与えられ、帝国は事実上分裂した。後にはオーストリア大公家ハプスブルク家が帝位を事実上世襲するようになり、この間にドイツ語圏以外の帝国領はほとんど失われ(ボヘミアは例外)、16世紀には、国号も「ドイツ人の神聖ローマ帝国」という、もはや「ローマ帝国」としての意味をまるで成していないものとなり、ローマ教皇による戴冠も行われなくなった。
17世紀に起きた内戦(宗教戦争、事実上国家間戦争)、三十年戦争により国内は荒廃し、1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)によって封建領主の独立主権が認められ、帝国は300の領主国家に分裂した。(このためウェストファリア条約は帝国の死亡証明書とも呼ばれる。)そして神聖ローマ帝国は全く名目だけの存在となり、フランスの思想家ヴォルテールによって「神聖ではないし、ローマ的でもない。それどころか帝国ですらない」と皮肉られる有様であった。
19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、ナポレオンがフランスの属国的なライン同盟を結成し、帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。
1871年にドイツが国民国家のドイツ帝国として統一されたのち、神聖ローマ帝国はドイツに成立した最初の帝国として知られるようになった。後にナチスが政権を握ると、彼らは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ”第三帝国”と呼び習わした。
●ハルキ神学校の再開問題と聖ソフィア大聖堂の返還問題:コンスタンティノポリス総主教庁とトルコの対立
・トルコのキリスト教徒は選挙の後でより多くの権利を望む Turkish Daily News 2007年3月14日
<要約>
約二億五千万人と推定される全世界の東方正教会信者の精神的指導者であるコンスタンティノポリス総主教庁のバルトロメオス1世総主教が、訪問中のオーストリアで3月12日にトルコでは少数派のキリスト教徒の権利が損なわれていると発言。昨年のローマ法皇ベネディクト16世のトルコ訪問以後も状況は変わっておらず、5月の大統領選挙で状況が改善することを願うと主張している。
バルトロメオス1世総主教は、イスタンブール郊外の島にあるハルキ神学校の再開運動を続けており、トルコ政府による神学校の閉鎖が続いていることでトルコでのコンスタンティノポリス総主教庁の存続が危うくなっていると言う。「我々が我が国の変化を願うのは、外国やブリュッセルの圧力ではなく、それがトルコ人に必要だからだ。我々はトルコ社会の一部で、トルコで生まれ、トルコで学び、トルコで働いており、恐らくトルコで死ぬだろう。だから、我々は二流市民ではなく、多数派と同等の権利を持つ市民であると感じたいのだ。」
・プーチン大統領がバチカン訪問、ローマ法王と会談 2007.03.14- CNN/AP
・ベネディクト16世、東方教会を訪問 - トルコ 2006年 12月 01日
【私のコメント】
<西ローマ帝国の正統な継承国家:フランク王国-神聖ローマ帝国・ハプスブルグ家-ナチスドイツ-欧州連合>
ローマ帝国は395年に東西に分裂する。西ローマ帝国は476年に滅亡するが、800年にフランク王国のカール大帝がローマ教皇から西ローマ帝国皇帝の称号を授かることで再興される。その後、フランク王国はドイツ・フランス・イタリアの三国家に分裂し、その中でドイツ国家が神聖ローマ帝国として西ローマ帝国の正統を継承することになる。後にはオーストリアのハプスブルグ家がこの帝位を独占するが、1806年にナポレオンの侵攻により神聖ローマ帝国は完全に崩壊する。これらの国家はローマ教皇庁と強く結びついた国家であったことが特徴である。
1871年に成立したドイツ帝国はプロテスタント主導である点で、従来のローマ帝国の継承国家とは異なる。オーストリア人ヒトラーによって指導されローマ教皇庁の支持を受けたナチスドイツ(第三帝国)は正統なローマ帝国の継承国家である。
第二次大戦後、西ドイツはプロテスタントの旧プロイセン地域を切り離し、強固なカトリック地域であるバイエルンのキリスト教政党である中央党を母胎としたキリスト教民主同盟・社会同盟によって政治的に再建されていく。同じくカトリック国家であるフランスとイタリアにベネルクス三国を巻き込んで結成されたEUの前身である欧州鉄鋼石炭共同体は、ナチスドイツの跡を継ぐ、正統な西ローマ帝国の後継国家である。そして、その後欧州共同体はプロテスタント地域に加え、ギリシャ・ルーマニア・ブルガリアなどのかつて東ローマ帝国に所属していた地域をも版図に含めつつある。
<東ローマ帝国の正統な継承国家:モスクワ大公国-ロシア帝国-ロシア連邦>
東ローマ帝国はローマ的色彩を失い、ギリシャ人の帝国と見なされていたが、ローマ帝国の伝統と文化を継承してきた国家でもある。この国が1453年に滅亡した後、モスクワ大公イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪を迎えて結婚していること、ロシア正教がコンスタンチノープルの東方教会にルーツを持つこと、ロマノフ王朝の「ロマノフ」が「新しいローマ」を意味することから、モスクワ大公国とその後継のロシア帝国は東ローマ帝国の正統な継承者を自認していたと思われる。無宗教のソ連という中断期間を経て復活したロシア連邦もまた、間違いなく東ローマ帝国の継承国家である。
<宗教での東西ローマ帝国の正統な継承者:コンスタンティノポリス総主教庁・ローマ法王庁>
このような歴史的経緯を見るとき、プーチン大統領のバチカン訪問(2007年3月)、ローマ法王の東方教会訪問(2006年11月)は東西ローマ帝国の継承者の合従連衡という意味合いを持つと思われる。そして、コンスタンティノポリス総主教庁のバルトロメオス1世総主教が、訪問中のオーストリアで「トルコでは少数派のキリスト教徒の権利が損なわれている」と発言した事件(2007年3月)は、1453年にトルコ人に滅ぼされて滅亡した東ローマ帝国の文化的継承者が、かつての西ローマ帝国の継承国家の本拠地(そこはオスマントルコに1529年と1683年の二回包囲された経験があり、東ローマ帝国と同様の滅亡寸前の危機を経験していることからトルコへの敵愾心は非常に強いと想像される)に乗り込んで迫害の事実を叫び戦争による報復を訴えたに等しい。第一次世界大戦直前と同様に、現在のバルカン半島は小さな引き金でいつ大戦争が開始されてもおかしくない危機的情勢にあるように思われる。
395年に東西に分裂したローマ帝国は、断絶の期間を経て今やEUとロシア連邦という二つの継承国家として復活しつつある。西ローマ帝国の宗教的中核であったローマ法王庁は健在である。唯一、異邦人トルコ民族の弾圧下に苦しんでいるコンスタンティノポリス総主教庁はこれらの組織と頻繁に接触するだけでなく、EUに乗り込んで弾圧を糾弾している。これらの事実を総合して考えると、EUとロシア連邦が共同でトルコを攻撃し、コンスタンチノープルを奪還してコンスタンティノポリス総主教庁を救うことを現在計画しているのではないかと想像される。そして、近い将来にロシア連邦もEUに加盟して、一六世紀ぶりにローマ帝国が統一を迎えることが予想される。ただし、一六世紀前とは異なり、その版図は南部の北アフリカと小アジアの大部分を失い、その代わりに東方でカムチャッカや沿海州までの広大なロシア地域を含むものになると思われる。
最近、江田島孔明氏は北方領土へのイスラエル国民引き取りという私案を提案している。彼の真意は不明だが、それは決して日本の国益には繋がらない様に思われる。イスラエルを建国したアシュケナジーの祖先であるハザール人がユダヤ教を国教として選択したのは、東のイスラム教国家と西のキリスト教国家に挟まれた苦境を乗り切るという政治的目的によるものであったことが重要だと思われる。これは全く根拠のない私の妄想だが、例えば近未来にEUとロシアの連合軍によるトルコ攻撃が実行されてボスポラス・ダーダルネス両海峡沿いの地域から全てのトルコ人が追放された後に、海峡の北西側(ヨーロッパ大陸側)がコンスタンティノポリス総主教庁の領土(バチカン市国の東方教会版、あるいは再興された東ローマ帝国を意味する)となり、海峡の南東側が新イスラエルの領土として用意されるという様なシナリオはあり得るかもしれない。縮小したトルコは欧州とアラブ・ペルシャ世界の緩衝国家となり、更に新イスラエルは欧州とトルコの間の緩衝国家となるのだ。
東ローマ帝国(395年‐1453年)は、 東西に分裂したローマ帝国の東方地域を継承し、オスマン帝国によって滅ぼされるまでの1000年以上にわたって存続した帝国。一般に「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」「中世ローマ帝国」とも呼ばれるが、これらの名称はどれも後世の人間による呼称であり、その政府や住民は自らの国を単に「ローマ帝国」と称していた。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ・イスタンブル)。カール大帝の戴冠以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシア帝国(Empire of Greek)」「コンスタンティノープルの帝国(Empire of Constantinople)」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた。
●ロシア帝国 - Wikipedia
ロシア帝国は、第一次世界大戦中の1917年にロシア革命によって打倒されるまで存在したロシアの政体。帝政ロシアとも言われる。厳密には1721年に、スウェーデンとの大北方戦争に勝利したロマノフ朝のピョートル1世が、元老院からインペラートル(皇帝)の称号を贈られ、国体を帝国と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国」と称したのに始まる。ただし、ロマノフ朝の前王朝リューリク朝のイヴァン3世が15世紀後半にツァーリ(これも「皇帝」と訳しうる)の称号を用いたころには、ロシア(モスクワ大公国)は帝国とみなされるような力を持っていたことから、ロシア帝国という言葉の指す時期は拡大して使われることもある。
ロシア帝国の成立:ロシア帝国は、ルーシの各地に存在した諸公国のうちのひとつから発展したモスクワ大公国に始まる。モスクワ大公国は14世紀から15世紀にかけて、タタールや周辺のルーシ諸国と戦って勢力を拡大し、イヴァン3世のとき、はじめて「ツァーリ」の称号を名乗った。ツァーリというロシア語の称号は、ルーシの社会ではもともと東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝に対して用いられていたものである。通説によれば、1453年にビザンツ帝国のパレオロゴス朝がオスマン帝国に滅ぼされた後、モスクワ大公イヴァン3世はパレオロゴス朝最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪を迎えて結婚し、ツァーリの称号を名乗る正統性を得たとされる。またこの時代には、モスクワにあった東方正教会の府主教座(現モスクワ総主教庁)がコンスタンティノポリス総主教庁から独立を宣言しており、東ローマ帝国の滅亡に伴って、モスクワはローマ帝国のローマ、東ローマ帝国のコンスタンティノポリスに継ぐ「第三のローマ」であるという言説が見られるようになるなど、モスクワ大公国の中で「帝国」を自任する意識が生じていた。
ただ、ツァーリの称号の起源については、当時のルーシでは、サライにいるジョチ・ウルスの「ハーン」をもツァーリと呼んでいた事実を指摘し、単純に東ローマ帝国の継承であるとみなすべきではないという説もある。
●西ローマ帝国 - Wikipedia
西ローマ帝国(395年‐476年)は286年のディオクレティアヌス帝によるローマ帝国の東西分割の後に、帝国の西半分に与えられた名称である。この帝国は3世紀から5世紀までの間、ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治、四分治制)、コンスタンティヌス1世が関わった再統一、ユリアヌスの治世を経て、数度にわたって断続的に存在した。テオドシウス1世が、統一されたローマ帝国を支配した最後の皇帝である。395年にテオドシウス1世が身罷ると、ローマ帝国は最終的に分割された。その後476年9月4日に幼帝ロムルス・アウグストゥルスが、ゲルマン人オドアケルの圧迫を受けて退位すると、西ローマ帝国が滅亡したというのが公式の説であるが、非公式には、480年にネポス帝が崩御した時とされる。西ローマ帝国の滅亡したとき、西ヨーロッパの歴史において新しい時代が、すなわち中世が始まった。
●フランク王国 - Wikipedia
フランク王国は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。ゲルマン系のフランク人サリー支族が建てた王国であることからこの名がある。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギーを領土とした。
800年のクリスマスに、カール大帝はローマ教皇より西ローマ帝国皇帝の称号を得た。カール大帝はフランク人の伝統に即し、3人の嫡男が王国を分割するよう遺言した。 814年にカールが72歳で死去した後、王国は唯一生存していた息子、敬虔王ルートヴィヒ(ルイ1世)に継承された。ルートヴィヒもまた817年に3人の息子たちが王国を分割相続する法律を制定した。
ルートヴィヒが840年に死亡した後、息子の1人ロタール1世が権力を掌握して皇帝となったものの、2人の弟は兄に反旗を翻して軍事的勝利を得た。その結果3年後の843年、ヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は東、中、西の3つに分割された。ほんの一時期、カール3世(肥満王)が統一したこともあるが、ごく短期間で崩壊した。これは実質的なフランク王国の終焉を意味した。
うち、西フランク王国はのちのフランスに相当し、東フランク王国は後の神聖ローマ帝国からドイツにつながっていく。一方、ロタールが得た中フランク王国(のちに「ロタールの王国」と言う意味の独:ロートリンゲン 仏:ロレーヌの語源となった)は、オランダからライン川流域を経てイタリアに至る細長い地域で、帝国の2つの首都(ローマとエクス・ラ・シャペル)を含んでいたものの、地域的な一貫性に乏しく、統治は困難を極め、まもなく北部の領土は東西フランク王国によって分割吸収された(870年のメルセン条約)。中フランク王国は後にイタリアに集約され、神聖ローマ帝国時代には、皇帝のイタリア王国の王位として兼任される様になった。
●神聖ローマ帝国 - Wikipedia
神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)は、中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた政体。帝国というよりは実質的に大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のオーストリア帝国(当事はオーストリア大公領およびハプスブルク家支配地域)やプロイセン王国などドイツ諸国家が成長していった。ドイツ帝国とも呼ばれ、1806年帝国解散の詔勅はこの名で行われた。もともとは古代のローマ帝国やカール大帝のフランク王国の後継帝国を意味していた。そのため、この政体の君主は正式に言うと初期にはフランク王、後にはローマ王であり、この肩書きを得た者がローマで戴冠し、ローマ皇帝に就任したのである。
962年オットー1世(大帝)がローマ教皇ヨハネス12世により、古代ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まる。もっとも神聖ローマ皇帝の初代はゲルマン部族国家の王で最初にローマ教皇権と結託してローマ皇帝の帝冠を頂いたカール大帝であるという思想・理念もある。
もともとザクセン部族大公権を権力の母体としてその歴史を開始しており、ザクセン人の伝統はフランク人と違って非常時以外には王を戴かぬ選挙王制だったため、当初から帝権は弱体で、封建領主の連合体という側面が強かった。その上歴代皇帝は、「ローマ帝国」という名目の為にイタリアの支配権を唱え、度々侵攻した(イタリア政策)。このためドイツでの帝権強化にまで手が回らず、他国に比べ中央集権化が遅れた。
1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも皇帝が選ばれもしない大空位時代となり、帝国としての実体をまったく成さない状態となった。14世紀のカール4世 (在位;1347年 - 1378年)による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権、独自の外交権等の強大な自治権が与えられ、帝国は事実上分裂した。後にはオーストリア大公家ハプスブルク家が帝位を事実上世襲するようになり、この間にドイツ語圏以外の帝国領はほとんど失われ(ボヘミアは例外)、16世紀には、国号も「ドイツ人の神聖ローマ帝国」という、もはや「ローマ帝国」としての意味をまるで成していないものとなり、ローマ教皇による戴冠も行われなくなった。
17世紀に起きた内戦(宗教戦争、事実上国家間戦争)、三十年戦争により国内は荒廃し、1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)によって封建領主の独立主権が認められ、帝国は300の領主国家に分裂した。(このためウェストファリア条約は帝国の死亡証明書とも呼ばれる。)そして神聖ローマ帝国は全く名目だけの存在となり、フランスの思想家ヴォルテールによって「神聖ではないし、ローマ的でもない。それどころか帝国ですらない」と皮肉られる有様であった。
19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、ナポレオンがフランスの属国的なライン同盟を結成し、帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。
1871年にドイツが国民国家のドイツ帝国として統一されたのち、神聖ローマ帝国はドイツに成立した最初の帝国として知られるようになった。後にナチスが政権を握ると、彼らは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ”第三帝国”と呼び習わした。
●ハルキ神学校の再開問題と聖ソフィア大聖堂の返還問題:コンスタンティノポリス総主教庁とトルコの対立
・トルコのキリスト教徒は選挙の後でより多くの権利を望む Turkish Daily News 2007年3月14日
<要約>
約二億五千万人と推定される全世界の東方正教会信者の精神的指導者であるコンスタンティノポリス総主教庁のバルトロメオス1世総主教が、訪問中のオーストリアで3月12日にトルコでは少数派のキリスト教徒の権利が損なわれていると発言。昨年のローマ法皇ベネディクト16世のトルコ訪問以後も状況は変わっておらず、5月の大統領選挙で状況が改善することを願うと主張している。
バルトロメオス1世総主教は、イスタンブール郊外の島にあるハルキ神学校の再開運動を続けており、トルコ政府による神学校の閉鎖が続いていることでトルコでのコンスタンティノポリス総主教庁の存続が危うくなっていると言う。「我々が我が国の変化を願うのは、外国やブリュッセルの圧力ではなく、それがトルコ人に必要だからだ。我々はトルコ社会の一部で、トルコで生まれ、トルコで学び、トルコで働いており、恐らくトルコで死ぬだろう。だから、我々は二流市民ではなく、多数派と同等の権利を持つ市民であると感じたいのだ。」
・プーチン大統領がバチカン訪問、ローマ法王と会談 2007.03.14- CNN/AP
・ベネディクト16世、東方教会を訪問 - トルコ 2006年 12月 01日
【私のコメント】
<西ローマ帝国の正統な継承国家:フランク王国-神聖ローマ帝国・ハプスブルグ家-ナチスドイツ-欧州連合>
ローマ帝国は395年に東西に分裂する。西ローマ帝国は476年に滅亡するが、800年にフランク王国のカール大帝がローマ教皇から西ローマ帝国皇帝の称号を授かることで再興される。その後、フランク王国はドイツ・フランス・イタリアの三国家に分裂し、その中でドイツ国家が神聖ローマ帝国として西ローマ帝国の正統を継承することになる。後にはオーストリアのハプスブルグ家がこの帝位を独占するが、1806年にナポレオンの侵攻により神聖ローマ帝国は完全に崩壊する。これらの国家はローマ教皇庁と強く結びついた国家であったことが特徴である。
1871年に成立したドイツ帝国はプロテスタント主導である点で、従来のローマ帝国の継承国家とは異なる。オーストリア人ヒトラーによって指導されローマ教皇庁の支持を受けたナチスドイツ(第三帝国)は正統なローマ帝国の継承国家である。
第二次大戦後、西ドイツはプロテスタントの旧プロイセン地域を切り離し、強固なカトリック地域であるバイエルンのキリスト教政党である中央党を母胎としたキリスト教民主同盟・社会同盟によって政治的に再建されていく。同じくカトリック国家であるフランスとイタリアにベネルクス三国を巻き込んで結成されたEUの前身である欧州鉄鋼石炭共同体は、ナチスドイツの跡を継ぐ、正統な西ローマ帝国の後継国家である。そして、その後欧州共同体はプロテスタント地域に加え、ギリシャ・ルーマニア・ブルガリアなどのかつて東ローマ帝国に所属していた地域をも版図に含めつつある。
<東ローマ帝国の正統な継承国家:モスクワ大公国-ロシア帝国-ロシア連邦>
東ローマ帝国はローマ的色彩を失い、ギリシャ人の帝国と見なされていたが、ローマ帝国の伝統と文化を継承してきた国家でもある。この国が1453年に滅亡した後、モスクワ大公イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪を迎えて結婚していること、ロシア正教がコンスタンチノープルの東方教会にルーツを持つこと、ロマノフ王朝の「ロマノフ」が「新しいローマ」を意味することから、モスクワ大公国とその後継のロシア帝国は東ローマ帝国の正統な継承者を自認していたと思われる。無宗教のソ連という中断期間を経て復活したロシア連邦もまた、間違いなく東ローマ帝国の継承国家である。
<宗教での東西ローマ帝国の正統な継承者:コンスタンティノポリス総主教庁・ローマ法王庁>
このような歴史的経緯を見るとき、プーチン大統領のバチカン訪問(2007年3月)、ローマ法王の東方教会訪問(2006年11月)は東西ローマ帝国の継承者の合従連衡という意味合いを持つと思われる。そして、コンスタンティノポリス総主教庁のバルトロメオス1世総主教が、訪問中のオーストリアで「トルコでは少数派のキリスト教徒の権利が損なわれている」と発言した事件(2007年3月)は、1453年にトルコ人に滅ぼされて滅亡した東ローマ帝国の文化的継承者が、かつての西ローマ帝国の継承国家の本拠地(そこはオスマントルコに1529年と1683年の二回包囲された経験があり、東ローマ帝国と同様の滅亡寸前の危機を経験していることからトルコへの敵愾心は非常に強いと想像される)に乗り込んで迫害の事実を叫び戦争による報復を訴えたに等しい。第一次世界大戦直前と同様に、現在のバルカン半島は小さな引き金でいつ大戦争が開始されてもおかしくない危機的情勢にあるように思われる。
395年に東西に分裂したローマ帝国は、断絶の期間を経て今やEUとロシア連邦という二つの継承国家として復活しつつある。西ローマ帝国の宗教的中核であったローマ法王庁は健在である。唯一、異邦人トルコ民族の弾圧下に苦しんでいるコンスタンティノポリス総主教庁はこれらの組織と頻繁に接触するだけでなく、EUに乗り込んで弾圧を糾弾している。これらの事実を総合して考えると、EUとロシア連邦が共同でトルコを攻撃し、コンスタンチノープルを奪還してコンスタンティノポリス総主教庁を救うことを現在計画しているのではないかと想像される。そして、近い将来にロシア連邦もEUに加盟して、一六世紀ぶりにローマ帝国が統一を迎えることが予想される。ただし、一六世紀前とは異なり、その版図は南部の北アフリカと小アジアの大部分を失い、その代わりに東方でカムチャッカや沿海州までの広大なロシア地域を含むものになると思われる。
最近、江田島孔明氏は北方領土へのイスラエル国民引き取りという私案を提案している。彼の真意は不明だが、それは決して日本の国益には繋がらない様に思われる。イスラエルを建国したアシュケナジーの祖先であるハザール人がユダヤ教を国教として選択したのは、東のイスラム教国家と西のキリスト教国家に挟まれた苦境を乗り切るという政治的目的によるものであったことが重要だと思われる。これは全く根拠のない私の妄想だが、例えば近未来にEUとロシアの連合軍によるトルコ攻撃が実行されてボスポラス・ダーダルネス両海峡沿いの地域から全てのトルコ人が追放された後に、海峡の北西側(ヨーロッパ大陸側)がコンスタンティノポリス総主教庁の領土(バチカン市国の東方教会版、あるいは再興された東ローマ帝国を意味する)となり、海峡の南東側が新イスラエルの領土として用意されるという様なシナリオはあり得るかもしれない。縮小したトルコは欧州とアラブ・ペルシャ世界の緩衝国家となり、更に新イスラエルは欧州とトルコの間の緩衝国家となるのだ。
そんな事を中東で言ったらまず大騒動です。
沖縄人でさ樺太には住みたくないでしょう。
地の果てのセントヘレナへの流刑ですよ。
真意は日本の孤立政策ではないかと思います。
そうすれば日本は武装中立になるからです。
ICBMやSLBM大国への道って奴かな。
独立系のジャーナリスト、トニー・ゴスリングの情報によると、2007年のビルダーバーグ会議は噂どおりに、トルコのイスタンブールで5月31日から6月3日に開催されることが決まったとのことです。
http://amesei.exblog.jp/5097689/
【私のコメント】
私が最近非常に注目しているイスタンブールでビルダーバーグ会議とは驚きだ。コンスタンティノポリス総主教庁のバルトロメオス1世総主教か、あるいはその代理人が出席することになるのだろうか?
私が予想しているようにもしイスタンブール奪還戦争が起きるなら、それはビルダーバーグ会議の後になると思われる。
2007年4月5日 田中 宇
http://tanakanews.com/070405iran.htm
これらの話からは、やはりアメリカがイランを空爆しそうな兆候があると感じられる。
空爆が行われるのかどうか、まだ注目し続ける必要がある。
G7に産油国代表が参加へ=「オイルマネー」で意見交換
4月7日3時0分配信 時事通信
13日にワシントンで開かれる先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)
に、サウジアラビアなどの産油国の代表が参加することが6日、明らかに
なった。産油国代表はG7討議終了後の夕食会に合流し、G7各国代表らと
世界の金融市場に還流するオイルマネーなどについて意見交換する予定だ。
最近のG7では、その時々の国際情勢を踏まえて、新興市場国など先進7カ国
以外の国や地域の代表を招いて個別問題について意見交換を行っている。
今回参加するのは、サウジとアラブ首長国連邦(UAE)、ロシアの3カ国。
産油国との意見交換は昨年開かれたワシントンG7以来1年ぶりとなる。
1453年コンスタンチノープルの陥落による東ローマ帝国の滅亡は、地中海貿易を独占していたベネチアを困らせることになりました。ベネチア商人、つまりは国際金融資本の源流がスペインに移動して、スペイン王家に働きかけ、新航路の開拓を促します。この結果、大航海時代が始り、これが近代への時代の扉を開く。新レコンキスタはこれを「元に」戻す作業にもみえます。
ヨーロッパ世界それも、カトリックがトルコの追い落としを画策しているとすれば、現在からだけではなく、第一次世界大戦後から検証する必要があるかもしれません。確か、第2次世界大戦では、トルコは中立を守っていますが、この経緯の検証も重要と思われます。
実際、オスマントルコの滅亡後も、トルコが現在にまで存在しているのは、国際金融資本の方針と合致していたからともいえるのですが、米国のイラク攻撃がこの方針の変更だとすると、トルコに関して、国際金融資本が方針を変えたのか、それともそうせざるを得なかったのでしょうか?
> イスラエルを建国したアシュケナジーの祖先であるハザール人がユダヤ教を国教として選択したのは、東のイスラム教国家と西のキリスト教国家に挟まれた苦境を乗り切るという政治的目的によるものであったことが重要だと思われる。これは全く根拠のない私の妄想だが、例えば近未来にEUとロシアの連合軍によるトルコ攻撃が実行されてボスポラス・ダーダルネス両海峡沿いの地域から全てのトルコ人が追放された後に、海峡の北西側(ヨーロッパ大陸側)がコンスタンティノポリス総主教庁の領土(バチカン市国の東方教会版、あるいは再興された東ローマ帝国を意味する)となり、海峡の南東側が新イスラエルの領土として用意されるという様なシナリオはあり得るかもしれない。
実は、同じような妄想を考えてみました。
国際金融資本が独仏など、EU圏内に本拠を移し、独仏+カトリックと国際金融資本との間になにかの妥協があったのではないでしょうか?有力なフランスの大統領候補をみると、これを疑いたくなります。もしそうだすると、トルコを追放することと、イスラエルの滅亡、ドイツの名誉回復はセットになっているのではないかと思ったりもします。このユダヤ人の受け入れ先として、将来、現在のイラク領にできるであろうクルド国家が受け入れれば、話としては良くできています。いわば、江田島構想の中東版です。将来的にイスタンブールがコンスタンチノープルになったときには、ここを都市国家として、キリスト教徒でもイスラム教徒でもないユダヤ人が管理するとするというのが「落としどころ」になるわけです。
またドイツで暮らすイスラム教徒はトルコ系が多いので、クルド独立とトルコ内戦で帰国を促すことになります。またイスラエル滅亡の際に、かつての「ナチスの役割」をイランやシリア、イスラム過激派などに行わせることで、ヨーロッパ世界に住むイスラム教徒に圧力を加えることもできます。
> 2007年のビルダーバーグ会議はイスタンブールで開催
なにやら妄想とは言えないかもしれません。
問題となるのがこの地域の軍事力です。今のところ独仏だけで黒海周辺まで軍事力を及ぼすのは難しそうで、ロシアを何らかのかたちで組ませないいけないでしょう。米国はクルド国家の建設までは関与できそうですが、その後の維持は困難です。
こうなると中東だけなく、イタリア半島の東の世界も英米中心の枠組みから独仏露中心の枠組みに移るはずです。
国際金融資本と独仏の関係は、米国や英国の場合とは違ってくるかもしれません。特にホロコーストの歴史的な再評価が行われた場合、ユダヤ人にとってドイツやフランスは居心地の良い場所にはならないでしょう。西ヨーロッパ以外で受け入れ先が必要になってきます。上のシナリオだとある程度の期間保証できる軍事力さえあれば、ユダヤ人受け入れは可能です。
1453年以前の世界に戻すというのは、ヨーロッパからイスラム教徒を追い出すことだけなく、国際金融資本のありかたもということになるでしょうか?
そもそも、トルコはEUに加盟したいならば、キプロスを承認し、アルメニアに虐殺の補償するだけではなく、コンスタンティノポリスのキリスト教世界(ギリシャ)への返還が不可欠である。
なお、個人的には、キプロスとギリシャの合併を支持します。
2007-04-05 20:43:23
ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報 : 飛んでイスタンブール―ビルダーバーグ2007
独立系のジャーナリスト、トニー・ゴスリングの情報によると、2007年のビルダーバーグ会議は噂どおりに、トルコのイスタンブールで5月31日から6月3日に開催されることが決まったとのことです。
http://amesei.exblog.jp/5097689/
>2007年のビルダーバーグ会議はイスタンブールで開催 (princeofwales1941)
2007-04-05 20:43:23
ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報 : 飛んでイスタンブール―ビルダーバーグ2007
独立系のジャーナリスト、トニー・ゴスリングの情報によると、2007年のビルダーバーグ会議は噂どおりに、トルコのイスタンブールで5月31日から6月3日に開催されることが決まったとのことです。
http://amesei.exblog.jp/5097689/
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この時期に、トルコは大統領選挙と総選挙を向かえるのでしょうか? 私はAKPが大幅に議席を減らす一方、CHPも伸び悩み、小党分立状態になると思います。
ただ、トルコの選挙は大政党に有利な10%阻止条項があるため、五党体制ぐらいになるでしょう。