~聴覚障害6級~

話せる。歌える。
聞こえているけど聞き取りにくい。
感音性難聴者が適当に呟きます。

儚い夢

2009年11月13日 | 子ども時代~成人時代
面接で難聴であることの現実を思い知ったのに関わらず、
私は夢を諦めませんでした。

諦めたくなかったんだと思います。
プライドと意地。
身の程知らずもいいところです。


短大卒業ぎりぎりに、市内の保育園の面接を受け、
何とか採用の運びとなりました。
面接の他に、当時流行った有名映画の感想文も採用ポイントでした。

採用面接の内容は、全く記憶にありませんが、
比較的狭い部屋で、園長先生と1対1の面接だっと思います。

狭い空間で1対1。
当時の聴力なら、聞き返すことなく対話ができたのかもしれません。


晴れて子供時代からの夢が叶い、私は希望にあふれていました。
しかし最初の月から、数々の壁にぶちあたりました。


保護者会の進行がうまくいかない。
保護者からの苦情が来る。
子供達の声や言葉が拾えない。
職員会議の内容が理解できない。
ゆえに、会議という場で意見が言えない。
各行事の司会と進行がうまくできない。
職員達とのお茶の時間で雑談ができない。
ゆえに無口でおとなしい人にしかなれない。


どんなに集中しても努力しても、
大勢の人達を前にした広い空間の中で、
言葉を拾うことが困難であることを痛感する毎日でした。

各行事の司会や、職員会議や保護者会の進行など、
いつもぐたぐたになってしまい、
沢山の人達に迷惑をかけていたように思います。


保母として完全に無能でした。
誰しも初めからうまくできるわけがないとしても、
1対何十人の言葉をきちん拾い、
その場その場で対応がする能力が、私には完全に欠けている。


そう言えば、短大時代の保育園や幼稚園などでの実習先でも、
課題に取り組む際、1クラス分の子供達を集中させることが困難でした。

経験を積めばきっとできると思っていたけれど、
現場で働いてみて改めて、自分の力には限界があることを知りました。



一番重要なそれが欠けているのだから、保母には向いていないし、
これ以上、子供達や保護者や職員にご迷惑をかけることはできないと思い、
たった1年で退職しました。

退職の本当の本音は、もうこれ以上、
自分の無能さに傷付きたくなかったからかもしれません。

またひとつ、自分に自信がなくなりました。


職員達からは何ひとつ責められたことはなかったんです。
むしろ、「悩みがあったらいつでも聞くよ。」と言ってくれる先輩もいたし、
雑談に加われない私なのに、舞台や食事会などにいつも誘ってくれ、
皆さん、本当にいい人ばかりでした。


それなのに、私は難聴のことを最後まで言えませんでした。
難聴に気付いて皆さん気を遣って下さっていたのかもしれません。
今さらながら、ありがとうございます。

儚い夢でした。


もしかしたら、私は難聴と言うコンプレックスが、
イコール欠点だと言う思いに凝り固まっていて、
人に心を開けない心の病気なのかもしれません。

難聴を隠していない今でも、人に心を開けない。

自分の弱さを見せたくないプライド。
本当の自分を知られたら、きっと嫌われると言う思い込み。

難聴を自分の最大の欠点だと思う気持ちを取り除くにはどうしたら良いのか。
今もわかりません。
これが克服できない限り、人に心を開くことはないかもしれません。

欠点でなく個性。
難聴と言うコンプレックスなんかくそくらえ。
こんな風に思える時が来るのでしょうか。


保母を退職して、結婚するまでの職場では、
難聴であることを馬鹿にする人と出会いました。
初めてのことです。

耳が聞こえにくいことを笑いながら馬鹿にする大人がいるとは。
何の悪気もなく、何人かの人達から。
今思い出しても悔しくて涙が出てくる経験です。

それについては、また。