~聴覚障害6級~

話せる。歌える。
聞こえているけど聞き取りにくい。
感音性難聴者が適当に呟きます。

素晴らしいサイト

2009年11月17日 | インターネット上のこと
難聴関連の生い立ちを綴ってみました。

24才で結婚してからも、
日々の生活の中や子育て関連などで、
難聴から生ずる様々な支障は勿論あります。

それはまた少しずつちょこちょこと綴ることにします。


今日は、素晴らしいサイトについて。


つい先日、久し振りに、中度難聴者の老舗サイトを、
拝見させていただきました。

私がこうやってブログで語っていることが馬鹿みたいに思えるくらい、
素晴らしいサイトです。
管理人さんが難聴者としてのあらゆることを綴っていらっしゃいます。

専門的なことから、補聴器のこと、雑感、
聞こえ具合、聞き取れない時のお願い方法など。
どの手記も、管理人さんの素晴らしいお人柄と本物の知性を感じます。


私がインターネットを始めたのは、今から11年半以上前。
私のマニアックな趣味関連で、
当時、どうしてもインターネットの世界の中で、
情報収集とネットワークを得たかった。

ネットの世界を楽しんでいた矢先、9年程前でしょうか。
この素晴らしいサイトを知りました。
難聴者の方とお知り合いになれる場でもありました。

管理人さんは、真の人格者だと思います。
メールで何度かお話ししましたが、本当に器の大きな方でした。

今も稼動しているのかはわかりませんが、
当時、管理人さん運営の中度難聴者のメーリングリストがあり、
私も登録していました。

指定メールアドレスにメールを送ると、
登録者全員にそのメールが届くシステムです。

私も趣味関連で、メーリングリストを運営していたことがありますが、
匿名掲示板やブログやmixiが普及してから、
急激に廃れたシステムになり、自然消滅してしまいました。


当時の難聴者の集まるメーリングリストのメンバーは、
主に手帳のない難聴者でした。
手帳を取得できていても、
年金など支給されない等級の方もいらっしゃたかと思います。

聞こえの分析や、それに生ずる対人関係、
難聴にまつわる様々なお話しなどをメールで話し合ったりして、
とても有意義に感じられたのですが、
どうしても精神衛生上耐えられないことがあり、
登録を辞めてしまいました。

それにともなって、この素晴らしいサイトとも遠ざかってしまいました。

mixiに登録していた頃も、それ関連のコミュなどあったようですが、
あえて避けてしまいました。

今も、匿名掲示板の難聴関連スレッドを見ると、
何となく気分が落ち込みますし、
この素晴らしいサイトの掲示板は何となく読むに至らない。

管理人さんの手記だけは、心穏やかに読めるのですが…。


その原因は、ある特定個人の価値観の問題なので、
ここではあえて書きません。
メーリングリストからのメールで、
その方の価値観を知り、愕然とし、モヤモヤが募りました。
ある意味、不正行為ですから。

その価値観の方が難聴者にいらっしゃることが、ショックで許せなかった。
それがトラウマなのか、難聴者の集まる場所に今も行けません。


正直、ネット上であっても、今は難聴の仲間はいらない。


その分、22年来の趣味の世界ではネット上に仲間がいる。
年齢も生い立ちも住んでいる場所も違うけれど、友達もいる。
趣味の世界が一番楽しい。
今はそれで十分。

来月、その仲間と22年来の憧れの人に会いに行きます。
46才にして、夜の歌舞伎町初体験です。

カウンターの向こうに、憧れの人がいるらしい。
話すこともできるらしい。
カラオケで歌ってくれることもあるらしい。

たぶん、会話は聞き取れないと思うので、
健聴の友達にフォローもらいます。
友達と言っても、私より1回り以上、年下の方ですが。

憧れの人にもちゃんと聞き取れないことを言うつもり。

万が一、フォローも聞き取れないことも考えて、
筆記でも対応できるように、メモとペンも持って行こうかな。


いつか、趣味の仲間と同じように難聴の方とお知り合いになって、
色んなことを語ることができる日がやってくるのかな。

馬鹿にする人

2009年11月15日 | 子ども時代~成人時代
自分に自信を失くし夢に破れた私は、
規模が巨大な職場に身を置きました。

大勢の中でもくもくと働ければ、もうそれでいいと思うようになりました。

もくもくと働くと言えども、
色んな場面で職場の人とのコミュニケーションが必要です。


ある時、私の母親と同じくらいの当時40代の女性社員が、
「ほら、○○さんってつんぼでしょ。ハハハハハハハ。」と、
私に聞こえるような大声で周りの人に言ったのです。

どうやら、健聴者なら聴こえるくらいの小さい声で、
ちょっと離れた場所から私の名前を何度か呼んだらしいのです。

勿論、私は聴こえなかったから振り向かなかった。
それを何度か試していたようです。

私は反論できなかった。
苦笑いしてごまかすしかできなかった。

その後もその女性社員は、
何度も小さい声で少し離れた距離から色々話し掛けてきたりして、
聞き取れない私のことを笑っていることはわかっていました。

そんな私を見て、
「そういうことするもんじゃないよ。」と言ってくれた先輩達がいました。

今思えば、みんな私の難聴に気付いていたんでしょうね。

「○○さんは、もしかして耳が遠いの?」と、
こっそり聞いてくれた先輩には、「はい。」と言えました。
しかし、だからどうして欲しい、どう接して欲しいなど、
明確なことは言えませんでした。


部署が変わっても、同じようなことをして試して、
「○○さんって、耳が遠いんだねぇ。」とニヤニヤと笑いながら、
話し掛けてきた同年代の女性社員もいました。


勿論、耳が遠いことは事実で、本当のことを言われたまでです。
隠しているわけではなくて、あえて言わなかっただけ。

仕事にはそれほど影響も出ていませんし、
迷惑は掛けていないと思っていました。
そう思い込んでいただけかもしれませんが。

そう言えば、男性社員からは、そのようなことをされたことは、
一度もありませんでした。
人の欠点を笑うと言う卑屈なことは、
やはり女性同士だからなんでしょうか。


難聴って、馬鹿にされなきゃならない障害なのでしょうか。
名前を呼んで聴こえてなくて振り向かなかったことが、
そんなに面白いんでしょうか。

志村けんさんがおばあちゃんに扮して、
耳が遠いリアクションのコントがありますが、
耳が遠いことで笑いが取れるってことですよね。

つまり、馬鹿にしても良いってことでしょうか。

難聴者以外にとっての難聴への理解度は、
ハゲやデブで笑いを取っている芸人さん達と同じような感覚の、
気軽な障害なんでしょうか。

笑い飛ばせれば、どんなに楽か。


聾の方々は、幼いうちから手話での会話を習得しますし、
難聴者よりは障害が理解されやすいためか、
馬鹿にする人はいませんよね。

むしろ、音のない世界で頑張る姿に励まされるとか感動するとか、
手話を習って社会との架け橋を作りたい、
などと思う心が芽生える方々もいらっしゃる。


難聴者は手話などの教育を受けて来なかった人がほとんど。
音も聴こえるし、環境と声の質によっては聞き取れていることも多い。
ゆえに、言葉の習得もできていますから話すことができる。

理解が得にくく、誤解も多い。


そう言えば、子供の頃、母親の言ってることが聞き取れなかった時、
「つんぼっ。」と怒鳴られたことがありました。

時代も関係しているかもしれませんが、
私の親世代は、私のくらいの聞こえの悪さくらいは、
たいしたことないと思っていたんでしょうか。


難聴は耳の聞こえが悪いだけではないこと。

対人関係やコミュニケーション能力。
耳から入る情報。

それらが少しずつ欠けてしまい、それによって自信を喪失したり、
偏屈な考えを持ってしまったり、気持ちが歪んでしまったり、
生きていく上で、様々なことに支障が起こる。


私の両親は、難聴から生ずる支障についての理解がありませんでした。
だから私は、成人するまで、
自分の能力を勘違いしていたのかもしれません。

難聴なんてたいしたことないから、
頑張れば普通の人と同じように何でもできると。


社会に出て、自分の能力の限界を知り、
意地悪な人に出会ったことで、
難聴から生ずる様々な支障をやっと理解しました。

儚い夢

2009年11月13日 | 子ども時代~成人時代
面接で難聴であることの現実を思い知ったのに関わらず、
私は夢を諦めませんでした。

諦めたくなかったんだと思います。
プライドと意地。
身の程知らずもいいところです。


短大卒業ぎりぎりに、市内の保育園の面接を受け、
何とか採用の運びとなりました。
面接の他に、当時流行った有名映画の感想文も採用ポイントでした。

採用面接の内容は、全く記憶にありませんが、
比較的狭い部屋で、園長先生と1対1の面接だっと思います。

狭い空間で1対1。
当時の聴力なら、聞き返すことなく対話ができたのかもしれません。


晴れて子供時代からの夢が叶い、私は希望にあふれていました。
しかし最初の月から、数々の壁にぶちあたりました。


保護者会の進行がうまくいかない。
保護者からの苦情が来る。
子供達の声や言葉が拾えない。
職員会議の内容が理解できない。
ゆえに、会議という場で意見が言えない。
各行事の司会と進行がうまくできない。
職員達とのお茶の時間で雑談ができない。
ゆえに無口でおとなしい人にしかなれない。


どんなに集中しても努力しても、
大勢の人達を前にした広い空間の中で、
言葉を拾うことが困難であることを痛感する毎日でした。

各行事の司会や、職員会議や保護者会の進行など、
いつもぐたぐたになってしまい、
沢山の人達に迷惑をかけていたように思います。


保母として完全に無能でした。
誰しも初めからうまくできるわけがないとしても、
1対何十人の言葉をきちん拾い、
その場その場で対応がする能力が、私には完全に欠けている。


そう言えば、短大時代の保育園や幼稚園などでの実習先でも、
課題に取り組む際、1クラス分の子供達を集中させることが困難でした。

経験を積めばきっとできると思っていたけれど、
現場で働いてみて改めて、自分の力には限界があることを知りました。



一番重要なそれが欠けているのだから、保母には向いていないし、
これ以上、子供達や保護者や職員にご迷惑をかけることはできないと思い、
たった1年で退職しました。

退職の本当の本音は、もうこれ以上、
自分の無能さに傷付きたくなかったからかもしれません。

またひとつ、自分に自信がなくなりました。


職員達からは何ひとつ責められたことはなかったんです。
むしろ、「悩みがあったらいつでも聞くよ。」と言ってくれる先輩もいたし、
雑談に加われない私なのに、舞台や食事会などにいつも誘ってくれ、
皆さん、本当にいい人ばかりでした。


それなのに、私は難聴のことを最後まで言えませんでした。
難聴に気付いて皆さん気を遣って下さっていたのかもしれません。
今さらながら、ありがとうございます。

儚い夢でした。


もしかしたら、私は難聴と言うコンプレックスが、
イコール欠点だと言う思いに凝り固まっていて、
人に心を開けない心の病気なのかもしれません。

難聴を隠していない今でも、人に心を開けない。

自分の弱さを見せたくないプライド。
本当の自分を知られたら、きっと嫌われると言う思い込み。

難聴を自分の最大の欠点だと思う気持ちを取り除くにはどうしたら良いのか。
今もわかりません。
これが克服できない限り、人に心を開くことはないかもしれません。

欠点でなく個性。
難聴と言うコンプレックスなんかくそくらえ。
こんな風に思える時が来るのでしょうか。


保母を退職して、結婚するまでの職場では、
難聴であることを馬鹿にする人と出会いました。
初めてのことです。

耳が聞こえにくいことを笑いながら馬鹿にする大人がいるとは。
何の悪気もなく、何人かの人達から。
今思い出しても悔しくて涙が出てくる経験です。

それについては、また。

成人まで

2009年11月11日 | 子ども時代~成人時代
都立高校卒業後、短大の保育科に入学しました。

これまた難聴の自覚なしの身の程知らずな私は、
保母さんになりたかったのです。
今現在で言う保育士ですね。

怖いもの知らずと言うか、
若さゆえに自分の力を過信していたのかもしれません。


短大では、ピアノの授業以外の影響はほとんどなかったと思います。
高校までのように、席が決められていませんから、
いつも講義は一番前の席を陣取っていたからです。

ダンスの授業も、音は聴こえますからリズムは取れる。
ダンスは得意分野でした。

ピアノの授業では、個人でピアノを弾いている時に、
先生の「はい、そこまで。」と言う声がわからないことが多かったんですが、
これはピアノに集中していると誰でもよくあることでした。



短大2年の秋。
難聴の現実を思い知ったことがありました。
今でも思い出したくない場面です。

短大では担任などから選考されて、
3ヶ所にある付属幼稚園に就職できるシステムがありました。
その年度は、10人程が就職できると言うことで、
12人が選考され、私もその中に入ることができました。

選考は面接のみ。


面接の順番が来て、部屋に入ると、
がらんとした広い部屋に、面接官が10人ほど。
面接官と私との距離は5メートル以上ある。
一番遠い面接官とは10メートル位の距離。

広すぎる空間と、面接官と距離がありすぎることで、
これは質問が聞き取れないなと一瞬にして悟り、
一瞬にして絶望しました。

面接を甘く見ていた私に罰が当たったんだと思います。


面接内容はほとんど覚えていないのですが、
「聞き取れませんでしたので、もう一度お願いします。」を、
2回ほど言ったことと、
これ以上、聞き返すことはできないと思い、
質問を勘で憶測して答えてしまった記憶があります。

相当、感じ悪かったと思います。


今思えば、面接で聞き返すと言う行為は、
それだけでも不採用決定ですね。
人の話しを聞いていないと判断されてしまうのだから。

まして幼稚園教諭の採用面接だけに、
わざわざ難聴の者を雇うことはないでしょう。
難聴であることを、また言えませんでした。


結果は勿論、不採用でした。
同じクラスから受けた人は採用だったので、
その後、何となくお互い気まずい思いがありました。


でも、不採用で良かった。
採用されたとしても、付属幼稚園で勤まる自信はない。



こんな苦い経験をしたと言うのに、私はさらに身の程知らずだった。
若さゆえの馬鹿さと傲慢さだったのかもしれない。

子供時代

2009年11月09日 | 子ども時代~成人時代
私の耳が少々遠いことが判明したのは、
私の記憶では小学校低学年でした。

学校の身体検査のひとつの聴力検査で判明しました。

私の母親が近隣の国立病院に連れて行ってくれ、
再検査をした記憶がかすかにあります。
小学校2年生の頃だったと思います。

子供だったので確かな記憶が全くないけれど、
医師が検査結果を見て、
「日常生活には支障はないでしょう。」と診断されたと母親から聞きました。

聴力が若干弱い程度なので、治療方法もなく、
補聴器をすすめられるわけでもなく、
普通(健聴)の子供の中で、普通の子供として過ごしてきました。


比較的活発な子供だったためか、学校でも塾でも遊びでも、
特に支障は感じることはなかったと思います。

たぶん子供時代の私は、
今よりもずっと聴力が良かったのではないかと思うのです。

当時、ピアノやギターを弾いたり、合唱団に入ったり、
放送部を務めたり、
陸上の選手として学校代表で区の大会に出場したり、
学級委員にも選ばれたりしていましたから、
難聴の自覚はあまりなかったのかもしれません。


健聴の子と同じようには「聞き取れていない」と自覚したのは、
地域の小中学校を得て、都立高校に入学した頃でしょうか。

ずっと難聴の自覚がなく活発に過ごしていたせいか、
私の両親も、私の難聴に対して重要視しておらず、
先生にも私の難聴の件を報告していなかったようです。

そのため、席がうしろになることもあり、
授業の内容が半分も理解できない。

急に勉強が難しくなったと感じたのですが、
今思えば「聞き取れていない」ことも影響していたのかもしれません。


ヒアリング(リスリング)のテストは、
何度再試験を受けても合格できませんでした。

難聴であることを改めて思い知ったものです。

中学生の時に受けた英検のヒアリングテストでは、
ちゃんと聞き取れて合格していたので、
もしかしたら、高校に入ってから聴力ががくんと落ちたのかもしれません。

しかし、私は難聴であることを英語の先生に言えなかった。
合格できない言い訳にしている気がして。
手帳もない、補聴器もしていないのだから。

再試組の馬鹿さに先生もあきれて、
同じ問題を出すようにしてくれたおかげで、
何とか合格できるようになったことを覚えています。

お馬鹿のレッテルを貼られたような気持ちでした。



難聴であることが、最大のコンプレックスであり、
そして自分の最大の欠点に思えること。
そんな思いを今も克服できないこと。

それがまたさらに、コンプレックスになっている。
心のバランスへの悪循環。

障害を受け入れているつもりでも、
健聴と同じつもりでいる自分がかすかに存在する。
プライドが高いんでしょうか。



初投稿の「はじめに。」の記事で、
専門的なことは書かないと偉そうに書いたけれど、
本当は、専門的なことを何も知らないんです。
ずっと、健聴の中で過ごして、自分もそのつもりでいたから。



手話はできない。
話せる。
聴こえているけど聞き取れていない。
でも、聞き取れていることもある。

理解していただくには何とも面倒くさくて中途半端。


昨日もカウンター越しにべらべら説明し始めた方に、
「耳が悪くて聞き取れないのでゆっくり話して下さい。」
とお願いしたのですが、全く同じ調子で話しを続けていて、
結局、内容はほぼ何もわかりませんでした。

耳から入る情報がこうして少なくなっていくのですね。
人の話しが理解できないなんて、頭が悪いと解釈されるのですね。

毎日こういうことばかりです。
あーあ。