エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-2-19

2020-08-22 09:49:20 | 地獄の生活

しかし、何も恐れることはなかった。今は堂々としているべきときだ。

「ご主人のことはもう良いではありませんか」と彼は言った。「印紙付きの用紙を買って戻って来られたのなら、私も無駄足を踏んだのではなかった、ということになります」

ヴァントラッソンは用紙を一枚だけでなく、二枚買ってきていた。酔っ払いの思考とはこのようなものである。粗悪なペンと泥水のようなインクが探し出して来られ、フォルチュナ氏は決まった様式に従い、証書の文言をしたためた。しかし、債権者の名前を記さねばならなかったのだが、自分の名前を書きたくなかったので、(ヴィクトール)シュパンの名前を記しておいた。シュパンはこのとき戸口でずぶ濡れで凍えそうになっており、自分にこのような役割が振り当てられているとは夢にも思わなかった。

「シュパン、てお名前なんですね」とおかみさんがその名前を記憶に刻みつけようと、繰り返した。「ヴィクトール・シュパンね!この人に会うことになるんですね……」

書面は作成され、ヴァントラッソンを起こして署名させなければならなかったが、彼はおとなしく署名し、妻もまた夫のものに添えて自分の署名をした。そこでフォルチュナ氏は口実として役に立ってくれた小切手を引き換えに手渡した。

「それでは、くれぐれも」と彼は帰るためにドアを開けながら、今一度念を押した。「毎月必ずなにがしか返金をお忘れなきよう……」

「あいよ、心配はいらないよ!」ヴァントラッソンのおかみさんは呻るように口の中で言った。

それは彼の耳に入らなかった。彼の横で一緒に歩き始めたシュパンもまた聞いてはいなかった。

「ああ、やっと出てきましたね、旦那、あんまり長いんで、賃貸契約でもしてるんじゃないかと思いやしたよ……今度来るときは小型コンロでも持って来なくちゃね……」

真実を追求することを固く心に誓った者は深いもの思いに囚われるものだが、今のフォルチュナ氏がまさにそれであった。彼の意識からは外界のことが一切消えていた。来るときは希望に胸を弾ませていてのに、帰途を辿る今は意気阻喪していた。暗闇も泥も、再び降り始めた雨も意に介せず、彼は道の真ん中を歩いていた。鉄格子の前で、シュパンは彼を立ち止まらせ、馬車が彼らを待っていることを思い出させねばならなかった。

「ああ、そうだったな……」と彼は答えた。

彼は馬車に乗り込んだが、明らかに上の空だった。帰る道すがら、彼はまるで容器に一杯詰まった液体が口からこぼれるように、独り言をつぶやいていた。そのうちの数語がシュパンの耳に入った。

「なんということだ……なんという! 七年間うまくやって来たというのに、こんなわけの分からんことは初めてだ……ああ、俺の四万フランの運命は大いに危ういな。確かに俺は、相続人たちがその存在すら知らなかった金を見つけてやったことがある。だが、いつもなにかしら手がかりがあったものだ……。ところが今度は何一つない。真っ暗闇で光は一筋も見えない。なにか分かりさえしたらなぁ! それにしても、名前も分からない人間をどうやって探したらいいんだ? ヨーロッパか? アメリカか? ああ頭が変になりそうだ。ド・シャルース伯爵の何百万て金は一体誰のところへ行くんだ!」

馬車がブルス広場でいきなり停まったので、フォルチュナ氏は現実に引き戻された。

「さぁ二十フラン渡すよ、ヴィクトール」と彼はシュパンに言った。「御者に払いを済ませるんだ。残りは取っといていいよ」

そう言って、彼は敏捷に地面に降り立った。彼の家の前に二人乗りの箱馬車が停まっており、二頭の高価な馬が繋がれていた。

「ド・ヴァロルセイ侯爵の馬車だ!」フォルチュナ氏は呟いた。「辛抱強く待っていてくれたんだな。俺を待って、というより俺の一万フランを待っていたんだ。それじゃ会うとしよう!」8.22

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1-2-18

2020-08-21 09:25:23 | 地獄の生活

「それじゃ、あのお嬢様は一体誰なんです?」

「さあねえ……あたしゃ知りませんよ。どんなご様子のお嬢様なんです?」

「背はかなり高くて、髪は褐色です」

「お年は?」

「十八か十九といったところでしょう」

ヴァントラッソン夫人は、指を折りながら懸命に素早く計算をしていた。

「九と四で十三」彼女は口の中で呟いていた。「それに五で十八になる……そうだ、そうだよ!計算は合う! 考えてみなくちゃいけないね」

「何とおっしゃいました?」

「あ、いや、何でもありませんよ。ちょっと頭の中で考えていただけで。お宅様はそのお嬢様のお名前をご存じで?」

「マルグリットというお名前です」

ヴァントラッソン夫人の顔が曇った。

「違う……そんな名前じゃなかった」彼女の声は殆ど聞き取れないほどだった。

フォルチュナ氏はじれったさのあまり地団駄を踏む思いだった。このいやらしい女は、正確なことは知らぬまでも、何かぼんやりした疑いを持ったに違いない。どうやって口を割らせたらいいものか、警戒心を起こさせてしまった今となって? 何らかの術策を考えている暇はなかった。このみすぼらしい店の戸が開き、主人のヴァントラッソンが敷居の上に姿を現したのだ。出かけたときはほろ酔い加減だったが、戻ってきた彼は酩酊状態だった。どたどたした足取りで、よろめきながら彼は入ってきた。

「まあ、このならず者めが!」金切り声で夫人が叫んだ。「この悪党!飲んできたんだね!」

彼はなんとか平衡を保ちながら、酔っ払い特有の落ち着きを持って妻をじろじろと眺めまわした。

「ええ、何だって!それがどうしたっていうんだ?」 彼は言い返した。「友達と楽しくやっちゃいけねえってのか? 二週間分の給料が出たばかりの二人に会ったんだよ。誘いを断るなんてこと出来るか?」

「あんた、まっすぐ立ってることも出来ないじゃないか」

「そいつは、まぁその通りだな」と彼は答えた。それを証明するかのように、彼は椅子の上に倒れ込んだ。夥しい悪口雑言がヴァントラッソン夫人の口から発せられたが、フォルチュナ氏には『盗人』と『警察の犬』以外の言葉は殆ど聞き取れなかった。しかし彼女が夫と自分に向かって代わる代わる投げつける目つきから推して、その意図するところはほぼ明らかだった。

「お前さん、幸運だったね」と彼女の目は語っていた。「うちの人がこんな状態でさ。そうじゃなきゃ、お前はこっぴどくやられてるところさ……」

「ああ、俺はすんでのところで難を逃れたんだ!」と偽の執達吏見習いは思っていた。8.21

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1-2-17

2020-08-20 08:15:08 | 地獄の生活

「なんと! 名前すら分からない!」

「そのとおりです」

困惑を取り繕うことは出来なかったものの、フォルチュナ氏は立ち上がって自分の顔を暗がりで隠すだけの冷静さは失っていなかった。しかし彼から漏れた低い叫び声と落胆の身振りをヴァントラッソン夫人は見逃さなかった。彼女はハッとし、このときから自称執達吏見習いの男に強い警戒心を抱き、じっと観察するのをやめなかった。彼はすぐにカウンター近くの椅子に座り直し、まだ少し蒼ざめてはいたが、一見極めて平静そうに見えた。彼にはまだ二つ質問が残っており、そのうちの一つでも答えが得られたなら光明がさすであろうと思われた。自分の素性がばれるかもしれない危険を、彼は敢えて冒すことにした。今となっては、そんなことはどうでもいいではないか。信じるに足りると思われる情報を既にここで得られたではないか?

「奥さん、あなたのお話が私にとってどれほど大きな意味を持っているか、言葉で言えないほどです」と彼はぶっきらぼうに言い始めた。「こうなったら告白しますが、私はシャルース伯爵を少し存じ上げております。現在のお住まいであるクールセル通りの伯爵の邸に何度もお伺いしたことがあります」

「え、あなたが!」と夫人は叫び、フォルチュナ氏の身なりをじろじろと眺め渡した。

「ええ、そうです。ですが、もちろん主人に用を言いつかって、でございますよ。私がド・シャルース邸を訪問するたびに、若いお嬢様にお目にかかったので、伯爵の令嬢であろうと思っておりました。それは間違いだったのですね、伯爵は一度も結婚なさったことがないのですから……」

彼はここで言いさした。驚きと怒りでヴァントラッソン夫人は窒息しそうに見えたからである。理由は分からないながら、彼女は自分が明らかに一杯食わされていたことを理解したのだった。もし彼女が最初の衝動に身を任せていたなら、フォルチュナ氏に飛び掛かっていただろう。彼女が自分を抑え、自制する努力をしたのは、ひとえに後でもっと良い仕返しをしてやろうと思ったからである。

「伯爵邸に若いお嬢様ですと」彼女は口の中で呻るように言った。「それは信じがたいことですね。あたしは一度も気がつきませんでした。人がそういう話をしているのも聞いたことがありません……一体いつからいらっしゃるので?」

「六、七カ月前からです」

「そういうことなら、全くあり得ない話ではないですね。あたしゃここ二年というもの伯爵邸に足を踏み入れたことがないのでね……」

「思いついたのですがね。その若い娘さんはシャルース伯爵の姪御さんではないでしょうか、エルミーヌ様のお嬢様では?」

ヴァントラッソン夫人は首を振った。

「それはないでしょう」彼女の口調はきっぱりしていた。「伯爵は、自分にとって妹はあの夜に死んだのだ、と言っておられましたからねえ……」8.20

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1-2-16

2020-08-19 08:15:48 | 地獄の生活

自称執達吏見習いはもはや乗合馬車の心配などしていなかった。そのことは明らかだったので、ヴァントラッソン夫人はホッとし、また気を良くもしていた。

「で、エルミーヌ嬢の方はどうなりました?」と彼は尋ねた。

「それがね!どこを通って、どこに行ったか誰も知らないんですよ。その後どうなったのかも……」

「探そうとはしなかったのですか?」

「まぁ、そんなことはありませんですよ。フランス中の警察官がどれだけ長い間彼女の捜索をしたことか。それに外国でも。ところがたった一つの足取りも掴めなかったんですよ。レイモン様はド・シャルース伯爵になられ、妹様をたぶらかした男を見つけた者に法外な懸賞金を約束なさったんです。その男を殺すつもりでね。伯爵自身、何年も探しておられましたよ。でも無駄でした」

「では、その娘さんの消息は全く掴めなかったので?」

「ええ、そうなんです。ああ、でも二度……言っときますけど噂ですよ。その事件のあった次の日、ご両親が彼女からの手紙を受け取ったということです。許しを請う手紙を。五、六か月後、また新たに手紙が来て、お兄様が一命を取り留めたことは知っているとのことでした。もう一度謝罪があって、ご自分が馬鹿だったと悔いておられたとのことです。自分の愚かさのために罰が下って、それは惨めな状態であると……。更に、ご自分と家族との絆は完全に断たれてしまったので、今後は自分の消息を聞くことはないであろう、自分のことは最初から存在しなかったものとして忘れてくれるように、とも付け加えてあったそうです。それだけでなく、自分は家の恥だから、自分の子供たちは決して彼女の名前を知ることはなく、彼女自身シャルースという名前を二度と口にしない、とまで言明したそうです」

誘惑され、一時の気の迷いのために自分の人生と幸福を犠牲にしてしまった娘という、いつの時代にも繰り返される悲しい物語であった。悲劇であることは間違いないが、毎日のように起きている平凡な出来事でもあった。この安アパートの女管理人自身、彼女に言わせると騙された当人であるから、その口から語られると、その俗っぽさが更に嘆かわしいものに聞こえるのだった。

このような訳であるから、イジドール・フォルチュナ氏を知る者が、このような平凡な出来事に心を動かされる彼を見れば不思議に思ったことであろう。フォルチュナ氏はとりわけ現実家で通っており、涙もろい者たちが大騒ぎすることにも動じないのを自分でも自慢にしていたからだ。

「可哀想な娘さんだ!」 ここで何か相槌を打つ必要があると判断した彼はこう言った。それから、無造作な口調で付け加えたが、それは尋常ならざる彼の不安を思わず漏らしていた。

「少なくとも、ド・シャルース嬢をかどわかした男が誰か、ぐらいは分かったのですか?」

「いいえ、全然。何者なのか、何をしていた人間なのか、どこから来たのか、若いのか、年寄りなのか、エルミーヌ嬢とどうやって知り合ったのか、全くの謎なのですよ。そのうちに噂はいろいろと流れましたよ。外国人だとか、アメリカから来たとか、船の船長だとか。でも、そんなのは噂にすぎなくて。本当のところは、誰もその名前すら分からないということです」8.19

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1-2-15

2020-08-18 08:37:29 | 地獄の生活

「ええ、そうです。そんなある夜、庭師が庭の奥にある離れ家で大きな物音がするのを聞いたんです。この離れ家というのはかなりの広さで、あたしも入ったことがあります。その中にサロンもあれば、玉突き場、フェンシングの練習場もあるっていう。で、当然庭師は何事かと思い、見に行こうとしたんです。彼が外に出たちょうどそのとき、二つの人影がすぐそばを通って木立の下に消えていった、ってことです。で、彼は後を追いかけたけれど、何も見つからなかった、と。その人影は庭の小さな戸口を通って出てしまった後で……。」その話をあたしにしてくれた庭師は、それはこっそり外出して行く召使たちだと思ったんで、騒ぎ立てることをしなかったのだ、と繰り返してました。それでも離れ家へは行ってみたそうですが、灯りも点いてなかったし、しいんとしてたので、戻って寝たそうで……」

「それはエルミーヌ嬢が恋人と一緒に逃げたときのことだったのですね」とフォルチュナ氏が言った。

ヴァントラッソン夫人は、オチを先に言われた役者のように、いまいましそうな様子を見せた。

「ちょっと待ってくださいな」 彼女は答えた。「今話しますから。夜が過ぎ、朝になり、朝食の時間になりました。が、エルミーヌ嬢は姿を現しません。部屋のドアを叩いても返事がない。ドアを開けると、彼女の姿はなく、ベッドも寝た形跡がありません。一体どういうことでしょう? 屋敷全体が大騒ぎになりました。お母様はお嘆きになる、お父様は怒りと苦しみで気が狂ったようになっておられる……。そこで当然のごとくエルミーヌ嬢のお兄様が呼ばれることになりましたが……彼もまたご自分の部屋におられません。ベッドも寝た形跡がない。誰もが仰天してしまいました。そのとき、先ほどの庭師が進み出て前夜のことを話したのです。皆が離れ家に走っていくと、なんということでしょう。レイモン様が仰向けに床に倒れておられました。ご自分の血の海に浸かり、身体は硬直し冷たくなって動かない……まるで死体のようだったんです。片方の手はフェンシングの剣をまだ掴んでいました。身体を持ち上げ、お部屋のベッドに運び、医者が呼びにやられました。肩に二箇所刃を受けており、喉にも一か所、それにもう一か所胸の真ん中にも……。レイモン様は一か月以上生死の境を彷徨っていました。その後、事の顛末を語る力を取り戻すのに、もう六週間掛かったんです。

なんでも窓辺で葉巻をくゆらせていたとき、庭に女の姿を見たように思われたのだそうです。妹様のことが頭に浮かんだので、飛ぶように階段を駆け下り、離れ家にそっと忍び込むと、エルミーヌ嬢の傍に全く見たことのない若い男が立っているのが見えたそうです。レイモン様はその男を殺すことも出来た筈ですよね。何も不都合はなかった筈です。ところが、そうする代わりに彼は剣で決闘をしよう、と言ったのだそうです。その場に剣があったので、二人は闘いました。続けざまに二度切り付けられ、彼は倒れました……。そして相手はレイモン様を殺したと思い、エルミーヌ嬢と共に逃げたのです」

ヴァントラッソン夫人はここで一息つこうと思ったことであろう。おそらく一口飲み物も口にしたかったであろう。が、フォルチュナ氏は急いでいた。今にも夫のヴァントラッソンが帰ってくるかもしれない。

「それから?」と彼は尋ねた。

「それからはですね、もうほんとに! レイモン様は回復し、三か月後には立てるようになりました。でもご両親の方は心に受けた打撃が大きくて、立ち直ることが出来なかったのです。自分たちがあまりにも頑固で厳しくしたために娘を失うことになった、と思われていたのかもしれません。辛い後悔ですね。みるみるうちに日に日に衰弱され、翌年、お二人は二カ月を挟んで次々と亡くなられました」8.18

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