エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XII-11

2024-08-31 10:25:08 | 地獄の生活
普通はそこまで馬鹿な要求はしないものですよ。確かに私は外国人や、いわゆるナワーブ(インドのイスラム王朝時代の高官、大富豪のこと)との取引はしていますが、連中ときたら、文明とはまず無縁で、毎年パリにやって来るのは彼らの金塊を溶かすためです。とても正気とは思えぬほどの散財をして、物価を押し上げ、我々パリに住む者にとって暮らしを困難にしている。我々は彼らのように財産を二年で使い尽くそうなどとは考えないですからね。……こういう手合いがこの街の、そしてこの時代の疫病神で、ごくごく稀な例外を除いて彼らが益する相手というのは、世界各国を渡り歩くいかがわしい女たち、ペテン師、レストラン経営者、悪質な馬商人たちだけですからね」
パスカルは同意するような仕草でこの罵りを聞いていた。が、実際は、ほんの今しがた男爵邸で会った、かの外国人カミ・ベイのことしか考えていなかった。レースで賞を獲得した名馬を買ったつもりでいたら、実は駄馬を押し付けられた、という話を彼は苦々しげにしていた……。
「この口うるさい買い手というのは」とパスカルは思っていた。「ひょっとしてカミ・ベイなのか? これほど追い詰められている侯爵ならこういった詐欺に手を染めることもあり得たのではないだろうか? 発覚すればたちまち軽罪裁判所送りになるというのに……」
スポーツ業界においては、ヴァロルセイがかなり良心に悖る行為をしたことは囁かれていた。彼が自分の所有する馬ドミンゴをわざと負けさせ、彼の馬に賭けた人々に大損をさせたという非難を受けたことがあったではないか?
しばしの沈黙の後、侯爵は大きなため息を吐いた。
「やれやれ、終わった!」と彼は呟き、傍らに置いてあった新聞の束を紐で括った。
次に彼は呼び鈴を鳴らし、召使が現れるとこう言いつけた。
「さぁ、これをカミ大公の元に届けてくれ。グランドホテルにおられる筈だ。急いでくれよ」
パスカルの勘は当たっていた。だが彼は眉一つ動かさず、内心こう思っていた。
「これは耳寄りな情報だ。今日のうちにもこれについてちょっと調べてみよう……」
ド・ヴァロルセイ侯爵の頭上に暗雲が立ち込めていることは疑うべくもない。彼はそのことを知っているのか? 何らかの疑いは感じているに違いない。しかし彼は最後の最後まで一歩も譲らないと決めている。それに真正のギャンブラーが皆そうであるように、掛け金が手元にある限りは、最後にすべてをかっさらう可能性がある、と自分に言い聞かせ、負けを見ないのだ……。
彼は立ち上がり、いやな仕事を一つ片づけた後のように、伸びをした。そして暖炉を背に凭れかかるとパスカルに話しかけた。
「さて、モーメジャンさん、ご用件を承りましょうか……」
彼の無造作な態度と軽い口調は完璧に演じられていたようであったが、よく観察すればそうではないことが分かった。彼が何気なさそうに発した次の言葉も同様であった。
「トリゴー男爵から預かったお金を持参なさったのですね?」
パスカルは首を振り、残念さを滲ませながら答えた。
「遺憾ながら、侯爵、そうではないことをお伝えに参ったのです」8.31
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2-XII-10

2024-08-25 07:49:28 | 地獄の生活
気楽な遊び人は、信仰心も持たず戒律も守らず、良心も道徳心さえも持たないことを自慢たらしく誇ったりし、神も悪魔も恐れない。しかしそれでも、生まれて初めて明確な犯罪に手を染めるとなると、激しい苦しみに身を引き裂かれる思いをするものだ。はっきりと法に触れ、発覚すれば陪審団の裁判に委ねられ、漕役刑に処せられる可能性のある犯罪に……。
ド・ヴァロルセイ侯爵が、いかさまゲームのために隅に切り込みを入れたカードを共犯者であるド・コラルト子爵に手渡したその日以来も、どれほど多くの犯罪に関わったか、誰が知ろう?
こういったことを別にしても、この破産状態にある侯爵の日々の暮らしはかなり悲惨なものであった。借金の取り立てに来る者たちの目から見せかけの栄華を守ろうとする必死の努力は、難破した者が漂流物に懸命にしがみつこうとするのと同じようなものであった。フォルチュナ氏に対して認めたことがあったように、このような豪華絢爛たる住居に住みながら、時にポケットには一スーの現金もなく、三十人もの召使の冷ややかな視線に曝されながら、驚くべき嘘で固めた日々を送るのは地獄の責め苦に耐えるようなものではなかったか。自分の立場がいかに頼りないものかを思うときの彼の苦悩は、鉱夫のそれに匹敵していたのではないだろうか。採掘坑の底から地表へ引き上げられるとき、彼が命を預けている綱の麻糸が緩み、一本また一本と千切れ飛ぶのを見ているときのような。坑の入口まで、果たして残っている糸が持ちこたえてくれるかどうか自問するときのような。
パスカルは敵のこの苦悩を間近で手に取るように観察することができた。そして恰も天から降り注ぐ露が彼自身の苦しみを和らげてくれているように感じていた。復讐のときが始まろうとしていた……。
しかし侯爵の言う「すぐに」が十五分にもなろうとしていた。しかも中々終わりそうにない……。
「一体何をやってるんだろう?」とパスカルは訝しく思い、彼の動きを一つも見逃すまいと目で追った。
侯爵はスポーツ新聞に取り囲まれていた。テーブルの上、椅子の上、果ては床の上にまで集めた新聞紙が散らばっていた。彼は一枚ずつ新聞を取り上げて開いては、素早く馴れた様子で目を走らせ、彼の望む内容であるか否かによって、投げ捨てたり、赤鉛筆で印をつけた後、積み上げた山に加えるということを繰り返していた。
更に数分が経過すると、さすがに、パスカルが痺れを切らしているのではないかと怖れたのでもあろう、彼は口に出して言った。
「真に申し訳ない。こんな風にお待たせして。しかし、これを待っている人がおりまして、やってしまわねばならぬのです……」
「ああ、どうぞ、お続けください、侯爵」とパスカルは答えた。「わたくし、今日は偶々急ぐ用はございませんので……もし何でしたら、早目の昼食を取りに出てもよろしゅうございますが」
これは儀礼的な申し出だった。侯爵はこれに対して何か応えねばならないと感じたのであろう、読んではメモを書き込むという作業を続けながら、目下の相手に親切ぶるときの態度で説明した。
「私がやっているのはですね、新聞の切り抜き作業みたいなものなのですよ。数日前、私は所有している競走馬のうち七頭を売却したのですが、そのうちの二頭は実に傑出した馬でした。で、購入した相手は、当然ながら、それぞれの馬の正確で法的な証明力のある戦績報告書---馬の履歴書みたいなものです---を受け取ったわけです。ところがこの相手の方はそれだけでは満足できない、と言い出して、各馬のレース参加、優勝、敗北などを細かに報じたスポーツ紙を集めて提出して貰いたいと頑なに主張するのです。8.25
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2-XII-9

2024-08-18 08:03:39 | 地獄の生活
「侯爵はこちらでお待ちでございます」
この声は戦闘開始を告げる太鼓の音のように、パスカルの心を鼓舞させた。しかし彼の冷静さは全く変わることがなかった。
「さぁいよいよ来たぞ、決定的な瞬間が」と彼は思っていた。「僕に見覚えがなければいいのだが……」
彼はしっかりした足取りで下男の後に続いた。
家にいるときはいつもそうするように、ド・ヴァロルセイ侯爵は寝室に離接した小部屋である喫煙室に居た。彼はテーブルを前にして座り、一心にスポーツ新聞を整理しているふりをしていた。傍にはマディラワインの瓶と、四分の三が空になったグラスが置かれていた。
召使が「モーメジャン様でございます!」と告げると、彼は顔を上げ、パスカルと目が合った。しかし彼の目に動揺はなく、顔の表情も変わらず、いつもの高慢で揶揄するような冷ややかな顔つきのままであった。侯爵が何の懸念も抱かなかったことは明らかであった。彼が卑怯な手を使って抹殺しようとしたその男、そして彼の命を脅かすであろう最も危険なその男パスカルが目に前にいるとは思ってもいない……。
「モーメジャンさん」と彼は言った。「トリゴー男爵の実務を担当しておられるという……」
「さようでございます、侯爵」
「どうぞお掛けください……いまこれを片づけますから……すぐにご用件を伺います」
パスカルは座った。
彼が危惧していたのは、自分の幸福と未来を打ち砕き、自分を社会的に葬ろうとした悪党を目の前にしたとき、果たして自制心を保っていられるかどうか、ということであった。自分から名誉が奪われることは人生を失うことより耐え難いことであったが、そればかりか世にも邪な奸計を用いて、自分の愛する女性、マルグリット嬢を今まさに奪おうとしているこの男を……。
「もしも頭に血が上ってしまったら」と彼は考えていた。「こいつに飛び掛かって絞め殺す力はある……」
さぁどうだ!……いや、大丈夫だ。
彼の脈拍は平常より速く打つこともなく、彼は完璧な平静さ---強者の沈着さ---をもってド・ヴァロルセイ氏を密かに観察し始めた。
もし彼が侯爵を初めて見たのが一週間前だとすれば、あの上流階級の輝きを体現したような彼がたった一週間でいかに変わり果てたか、を目の前にして愕然としたことであろう。今の彼はかつての彼自身の影でしかなかった。特にこの時間は下男の手によってインチキとも言える化粧を施して貰う前だったので、彼の時期尚早の老いを隠すことはできず、ぞっとするような相貌を呈していた。
彼の土色の顔は憔悴し、ところどころに鉛色のしみが浮き出ており、瞼は赤く腫れあがって、睡眠不足を物語っていた。いつもは皮肉を湛えている高慢な唇、それが今は垂れ下がっていた。眉間に寄せられた皺は深い畝を作っており、少ししかない髪の毛は前日のポマードがまだ残っていて固まっていたため、禿げ頭を隠しおおすには不十分であった……。
しかしそれらよりもっと顕著だったのは、彼のどんよりとした生気のない目であり、そこからどうしようもない疲労感が滲みだしていた。おそらくそれを吹き飛ばさんとして、マディラワインの大きなグラスに頼ったのであろう。それというのも、ここ一週間彼はぞっとするような恐怖に苛まれていたからである。8.18
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2-XII-8

2024-08-12 11:12:14 | 地獄の生活
パスカルは喜びに身を震わせた。
「運は僕の味方をしている!」と彼は思った。「カミ・ベイのおかげで男爵邸で十五分ほど足止めを喰らったが、あれがなければ、あの憎きド・コラルトとここで鉢合わせしていたろう。そしたらすべてがおじゃんになるところだった……」
そして彼はこの思いを抱いて意気揚々と邸へと近づいていった。
「侯爵は本日非常に多忙で」と鉄格子の扉の前に立っていた召使の一人が彼に言った。この男がド・ヴァロルセイ付きの下男であった。「貴方のお相手をする時間はないと思います」
しかし彼がモーメジャンという名前の書かれた名刺を取り出し、『トリゴー男爵の代理として』という鉛筆の添え書きがしてあるのを見ると、下男の横柄な態度が魔法のように一変した。
「ああ、そうでしたか!それなら話は違います!」と彼は言った。「トリゴー様からのお使いの方が見えたらすぐにお通しするよう申しつかっておりまして……もう貴方様のことは救世主のように待ち望んでおられます……どうぞこちらへ。私の口から主人に伝えますので……」
そして実際、彼はお喋りを中断し、先に立って案内した。男爵邸と同じようにド・ヴァロルセイ邸もまたすべてが大変な富を物語る壮大さであった。が、よくよく観察してみると、銀器とリュオルス洋銀(銅・ニッケル・銀の合金で、開発者のリュオルス侯爵の名に因んでこう呼ばれた)の違いのようなものが感じられた。ヴィル・レヴェック通りの男爵邸での贅沢さはどっしりした現実的な性格を帯びていたが、シャンゼリゼー通りの侯爵邸ではそうではなかった。家というのは、多かれ少なかれ、その主の人と為りを反映しているものだ……。貴族の中でも高い地位にある侯爵の舘ではあったが、どんなに低い身分の人々にも影響を与えずにはおかないこの時代の特徴といったものがそこにも刻み込まれていた。
「お入りください」とドアを開けながら下男は言った。「私は主人を探して参ります……」
パスカルは広々とした豪華なサロンに入った。が、その豪華さはどことなく精彩を欠いていた。絨毯は確かに見事なものではあったが、ところどころに染みが着いていた。夏の間、窓のブラインドを常に閉めておくという手間をかけることはしなかったらしく、カーテンが陽に焼けて色褪せしていた。サロンで目を惹くものは、夥しい数のカップ、皿、小立像といったものであり、銀であれ、金であれ、それぞれまとめて飾られていた。それらがすべてのテーブルに乗せられていた。それぞれのオブジェに刻まれた文字を読むと、それらはド・ヴァロルセイ侯爵所有の馬が獲得したものであることが分かった。何年の何月何日にどこで行われたどのような競技会であったか、及び優勝した馬の名前も記されていた。これぞ侯爵の栄光を語る陳列品であった。それはまた、彼が巨大な富の大半をそこに費やしたことをも示すものであった。
パスカルはこれらのものには興味がなく、やがて待たされることに苛立ちを感じ始めた。
「ヴァロルセイの奴、駆け引きをしているな」と彼は思った。「待ってました、という印象を与えたくないんだ。だが残念なことに、召使がばらしてしまったんだがな」
やがてついに現れたのは召使だった。8.12
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2-XII-7

2024-08-06 15:33:11 | 地獄の生活
これまでの彼は行動を起こすことに臆病になり、何にも確信が持てず、ぐらぐらと動揺していた。が、どこをどのように攻撃すべきかが分かった今、戦いを始める時が到来したのである。不屈のエネルギーが彼の内に湧き上がり、彼をブロンズ像のように強固にした。もはや何ものにも気を削がれたり、邪魔されたりすることはない。心弱い者たちが怖気づく場所、つまり戦場に臨むときに初めて持てる力を発揮する剛直な指揮官のように、パスカルは頭の中の霧が晴れ、思考力にスイッチが入り、新たな明晰さが与えられたように感じた。
彼がこれから行使しようとしている武器は確かに彼の気に入らぬものであった。しかしそれを選んだのは彼ではない……。彼の敵は裏表のある態度と狡知に富んだ術策のみを武器としているのであるから、パスカルもまた策略と奸計で彼らを出し抜こうと考えた。
ド・ヴァロルセイ邸までの道を速足で歩きながら、彼は頭の中で自分の使える手段を数え上げ成功の可能性を再検討していた。何も忘れてはいないだろうか、うっかり何かの用心を怠って足元を掬われることはないだろうか、と……。もし彼が失敗することがあるとしても---失敗することがあると本当には思っていなかったにせよ、その可能性があることは彼も認めていた---その責めを自分に向けなければならないことは避けたかった。「こんなこと、誰にも予想なんて出来るもんか!」などと言って自分を慰めようとするのは愚か者だけだ。賢い人間はあらゆる場合を想定するものだ……。そしてパスカルはすべてを予見したと考えた。今朝、出かける前、彼は身なりを整えるのに細心の注意をした。彼が最初のときに身に着けた身分の低い者の服装はもはや適切ではない、と感じた。トリゴー男爵の実務を担当している者が貧しい身なりをしていてはおかしい。暖炉に近づけば身体が温まるように、百万長者と付き合っていれば自ずとその色に染まるものだからだ。
彼はあまりにエレガント過ぎず、かといってみすぼらし過ぎることもない黒い服をきちんと着込み、上品な白いネクタイを結び、髭を剃り、髪は短く、金融顧問ならばこのようであろうと想像される重々しい抜け目のなさを漂わせた。ただ、差し迫った深刻な心配事がただ一つだけあった……。
ド・ヴァロルセイ氏は彼に見覚えがあるのではなかろうか。そんなことはない筈だと彼は自分に言い聞かせた。しかし確信は持てなかった。間違っているかもしれない……。そのことを思うと不安になり、変装しようかと考えた。が、よく考えてみて、このやり方は除外することにした。不完全な変装は却って注意を惹き、警戒心を呼び覚ますことになる。そもそも本当に外見を作り変えることなど出来るものであろうか? そんなことは出来る筈がない。変装を見事にやってのける人間がこの世にどれぐらいいるものだろうか? しかも、それには十分な経験も必要であろう。警察には二、三人、役者には五、六人変装の名人がいると言われてはいるが、パスカルは変装のプラス面とマイナス面をじっくり突き合わせ、結局今のままの姿を侯爵の前に曝すことに決めた。
道で知り合いに偶然出くわしたり、彼の足取りを掴もうと捜索をし始めた人々の誰かに出会ってしまう危険性も確かにある。しかし髭をばっさり剃り落したおかげで、彼の人相は相当変わったし、彼の速い歩き方をもってすれば、人に見咎められることはなかろうと考えた。
しかしド・ヴァロルセイ邸に近づき、シャンゼリゼー通りの突き当りまで来ると、彼は慎重に歩を緩め、周囲を見回すために立ち止まりさえした。その邸は中庭と庭園に挟まれ、三階建てで非常に広く、とても美麗に見えた。中庭の両側には趣味の良いあずまやが並んでおり、それぞれ厩と馬車置きになっていた。半開きになった鉄格子の前には五、六人の朝の制服を着た召使たちがお喋りをしながら、一匹のテリヤの大型犬をからかって遊んでいた。
これらのことを観察するのに時間を取ったことはパスカルにとって良いことだった。何も怪しいものは見当たらない、と自分に言い聞かせたその瞬間、召使たちがさっと二手に分かれ、人の姿が見えた。鉄格子の扉は全開になり、ド・コラルト氏その人が非常に年若い金髪の青年に腕を貸しながら出て行った。青年は反り返った口髭を持ち、特に自惚れた態度が目立っていた。これら二人の紳士は凱旋門の方角に向かって行った。8.6
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