エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-VIII-13

2023-07-28 12:38:41 | 地獄の生活
きっとそうであって欲しいと彼女は願っていたのだった……。彼女が突然思いついたこの計画の成否はこれらの点に掛かっていた。それでもまだある懸念が彼女の希望に影を落としていた。その心配を振り払おうと決心したのだが、いざ口を開こうとすると、今度はいろんな不安材料が頭に浮かび、彼女は躊躇した。今言おうとしているのは、彼女の計画の核心に触れる部分だったからだ……。しかし必要なことは聞かねばならない。彼女はためらいを押し殺し、やや上ずった声で言った。
「もう一つお尋ねしなければならないことがありますの。私は何も知らない女ですので、お教え頂きたいのです……。私がここに持っている手紙は、明日差出し主に戻され、多分焼却されることになります。もし、今後訴訟という事態になり、私があることを申し立てたら、相手方は否定するでしょう。そしてこの手紙が私の申し立てを証明してくれる筈です。その際、裁判官は貴方様の写真を証拠として認めてくれるでしょうか?」
写真家はしばし沈黙した。今やマルグリット嬢の行動の意味を彼は理解した。彼女が正確な複写に拘ったのが何故か、ということも……。しかしこれは彼が今から行おうとしている仕事に思いがけぬ重大さを与えることにもなり、ある意味では彼の責任というより良心が関わってくる問題だと彼は判断した。
『恐喝』というものがますます盛んに行われ、それがひとつの流行の稼業となっている時代にあっては、犯罪を露見するような書簡の忌まわしい取引が殆ど公然と行われている。手紙の内容を保存することがどれほどの効力を持つか、を見ず知らずの女に示すことに抵抗を感じるのは当然のことであった。しかもその手紙というのは、書き手が消滅させようとしているような代物だ、と彼女自身が白状しているではないか。
それで彼は考えている間もマルグリット嬢を子細に観察した。彼女の心の隅まで見通せることを期待しているかのように……。この高貴で清純な額を持った、目に誠実さが輝いているこの若い美しい娘が卑劣で陰険な裏切りの行為を画策しているなどということがあり得るであろうか……。いや、彼にはそうとは信じられなかった。このような顔の持ち主が嘘を吐くようなら、一体誰を信用すればいいというのか。ある一つの問題点が浮かび、彼は決心した。彼は証拠品をどうにでもできる立場にある。その手紙の内容によっては、官憲に引き渡すか、消滅させるか、どちらかにすればよい。
「私の複写は法的な証明になります」と彼は答えた。「それに付け加えて申しておきますが、私の撮った写真を基に裁判所が裁定を下したことは過去にもございます……」7.28

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2-VIII-12

2023-07-23 09:54:02 | 地獄の生活
「貴方にお願いしたいことがあるんです。とても大事なことです」
「この私に?」
彼女はポケットからド・ヴァロルセイ侯爵の手紙を取り出し、相手に見せた。
「貴方にこの手紙の写真を撮って頂きたいのです。どうかお願いです……今すぐに、私の目の前で、です。これには二人の人間の名誉が掛かっています。今こうしている一瞬一瞬がそれを危険に晒しているのです!」
マルグリット嬢を突き動かしているものの激しさは誰の目にも明らかだった。彼女の頬は真っ赤になり、全身がぶるぶると震えていた。それでいて、彼女は誇り高い態度を崩さなかった。高潔な思いの一途さが彼女の大きな黒い目を輝かせており、その口調の静かさに彼女の強い心が感じられ、正義のために最後まで戦うという決意がにじみ出ていた。
若い娘の恥じらいと恋する者の逞しさという相反する力が彼女の中でせめぎ合い、不思議な心を打つ魅力を醸し出していたので、その写真家は断る気になれなかった。いかにも突飛な要求ではあったが、彼は躊躇しなかった。
「喜んでご要望にお応えしましょう、マダム」と彼は頭を下げながら答えた。
「まぁ! なんと言ってお礼を申し上げたらいいか……」
彼は最後まで聞かなかった。四、五人の客が順番の来るのを今か今かと待っているサロンに戻って行くことは出来なかったので、従業員の一人を呼び必要な機材を急いで持ってくるよう命じた。マルグリット嬢は言いさしたままだったが、彼が指示を出し終わった後すぐに口を開いた。
「貴方様はちょっと性急すぎるのではございませんか。私の説明をまだ聞いておられません。ひょっとしたら私の望むことは不可能かもしれません。私は何の予備知識もなく、自分の思いつきで、たまたまここに参ったのでございます。貴方様に仕事をご依頼する前に、果たして私の要求に応えて頂けるものかどうか、知らなければなりません……」
「お話しください」
「こちらで撮って頂く写真は実物そっくりに出来ましょうか?」
「もちろんでございます」
「書かれた文字についても、ですか? すべて忠実に?」
「文字であっても同じ、すべて忠実に写ります」
「こちらで撮られた手紙の写真を、それを書いた本人に見せたとして……」
「原本を突き付けられたと同様、自分のものでないと否認することはできないでしょう」
「で、写真に撮られたという跡は残らないのですね?」
「全く残りません」
マルグリット嬢の唇に勝利の微笑みが浮かんだ。7.23

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2-VIII-11

2023-07-19 12:48:19 | 地獄の生活
「ノートルダム・ド・ロレッタ通りを下りて行きゃ、すぐのところにありますよ」と彼はついに答えた。「坂を下り切ったところの左手にカルジャット写真館てのがあります」
「ありがとうございます!」
食料品屋の主人は店の敷居のところに立って彼女の姿を目で追った。
「どこのお邸のお嬢さんか知らねぇが」と彼はひとりごちた。「あまりものを知らないんだな」
彼女の様子はいかにも異様で、しかも猛烈な速さで歩いていたため、通りすがりの人々が振り返るほどであった。彼女もそれに気づき、意識的に歩調を緩めるようにした。やがて教えられた場所の近くまで来ると、馬車の出入りできる大きな門の両側に、たくさんの肖像写真が額縁に入れられているのが見え、その上に『E・カルジャット』という名前があった。
マルグリット嬢は中に入っていった。大きな中庭の右手に建物からエレガントに張り出した部分があり、ドアの前に一人の男が立っていた。彼女はその男に近づき、尋ねた。
「カルジャットさんは?」
「はい、こちらです」と男は答えた。「マダムは写真をお求めですか?」
「はい」
「それでは、どうかこちらからお入り願えますか? さほどお待ちになることもございませんでしょう。肖像写真をお求めのお客様が四、五名いらっしゃるだけですから」
四、五人も! どれくらいの待ち時間になるであろう、半時間か、それとも二時間? マルグリット嬢には見当がつかなかった。彼女に分かっているのは、一刻もぐずぐず出来ないということだった。彼女のいない間にマダム・レオンが帰ってきて何もかもばれてしまうかもしれない。おまけに、今になって思い出したが、彼女は引き出しを閉めることすら忘れて飛び出してきてしまった!
「私、待てないんです」と彼女はぶっきらぼうに言った。「カルジャットさんにお会いしなければなりません、今すぐ!」
「ですが、マダム……」
「今すぐと申しているじゃありませんか。さぁすぐに知らせに行ってください……そうして貰わねば!」
彼女の口調は非常に断固としており、その視線には有無を言わさぬ威厳があったので男はもう躊躇しなかった。彼はマルグリット嬢を小部屋に通すとこう言って出て行った。
「どうぞ掛けてお待ちください。すぐに知らせて参ります……」
彼女は座った。というより脚がぐにゃりとなり、倒れ込んだのだ。自分の行動の異様さに思いが至り、その結末に疑いを抱き始め、自分の大胆さに自分でも驚いた。しかし、これからどう言えばいいか、考える暇はなかった。一人の男が入って来た。まだ若く、口髭とルイ13世ひげ(下唇のすぐ下に蓄えられた房状になった髭)を蓄え、天鵞絨の上着を着ていた。彼はマルグリット嬢にお辞儀をすると、いくらか驚いた様子で言った。
「私にお話しがおありだとか?」7.19
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2-VIII-10

2023-07-16 14:28:34 | 地獄の生活
手紙を元通りにしまって、何事もなかったかのように今まで通りお馬鹿さんを演じ続けるか? いや、そんなことは出来ない。侯爵の犯罪を立証するこのような明々白々な証拠をみすみす逃してしまうなどとは狂気の沙汰であろう。しかし、この手紙をどこかに隠せば当然大騒ぎになり、捜索がなされるであろう。ド・ヴァロルセイ侯爵は打撃を受けるだろうが、完膚なきまでにというわけではないだろう。そしてジョドン医師を抱き込んでの陰謀も誰にも知られることなく終わってしまうことだろう。
最初に浮かんだのは、かの老治安判事に助けを求めに行くことだった。しかし彼にすぐ会うことは出来るだろうか? 彼が住んでいるのはかなり遠く、時間は切迫している……。それでは、あの万相談を引き受けてくれる便利屋のもとに馳せ参じるのは? それとも公証人? あるいは裁判官? この手紙を見せることは出来る、筆写して貰うことも出来る……だが駄目だ。そのやり方では役に立たない。侯爵の力をもってすれば否定することは造作もないことだろう……。
彼女は絶望に襲われ、自分の無能さを呪っていたそのとき、闇を切り裂く稲妻のようにある考えが閃いた。
「ああパスカル! わたしたち、助かる方法があるわ!」と彼女は叫んだ。
すぐさま、それ以上考えることはせずに彼女はマントを羽織り、無造作に帽子を選び、被ってしっかり紐を結んだ。そして誰にも一言も告げず家を出た。
不幸にも彼女はこの界隈に不案内だったので、ピガール通りとノートルダム・ド・ロレッタ通りの交差する角まで来ると、はたと当惑してしまった。道に迷ってしまうのではないかと恐れながらも、彼女は曲がり角の一角を占めている食料品屋に入って行き、震える声で尋ねた。
「恐れ入りますが、ご主人、この近所に写真館があったら教えていただけませんか?」
いかにも惑乱した様子でこういう質問をされ、店の主人はからかわれているのではないかと疑って彼女をじろじろと見た。7.16
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2-VIII-9

2023-07-13 10:14:33 | 地獄の生活
『我が味方の心強き協力により』と手紙は続いていた。『この気位高き娘を非常に危険かつ悲惨な状況に置き、一人では脱出できぬと思われるその状況の中で、あわやというその瞬間に小生が駆け付け彼女を救い出す……さすれば感謝の念が必ずや奇跡を導くことであろう。それはこちらにとり祝着至極……』
『すべては順調に運ぶものと存ずる。しかしながら、ド・C氏を臨終まで診られた医師、貴下は確かドクター・ジョドンとか申されたと記憶しておるが、その方の御助力あれば尚更に事は上首尾に運ばんものと存ずる。かの御仁はどのような方でおられるか? もしも数千フランの札束で心動かさるる人物ならば、これはもうはっきり断言いたそう。この件はもう成功したも同然、と……』
『貴下のこれまでの振る舞いは真に見事なもの。必ずやその報償は貴下の期待以上のものとなろう……。親愛なるマダム、小生が恩を忘れぬ男であることが分かって頂けよう。F夫妻にはこれまで通り小細工を弄させておくがよろしい。必要ならば彼らの味方であるかのように振る舞うもよし……彼らのことは心配するに足らぬ……彼らが何を目論んでおるか察しはついておる……彼らが何故息子と彼女を結婚させたいかも……彼らが邪魔になれば、すぐさまコップを割るごとく木っ端みじんにしてくれよう……』
『今後の貴下の行動方針について書面で伝えることは可能といえども、直接面談は必須と存ずる。従って、明後日、火曜日、三時から四時の間貴下をお待ち申す。必ずジョドン医師に関する情報を忘れず持参くだされたく。
早々、V……』
追伸として次のような文言があった。
『当方に来訪の際、この書面を持参されたし。貴下の立ち合いのもと、我ら両者でこれを焼却いたしたいと存ずる……努々、貴下を疑うものではないことをここに断言する。紙切れほど信用のならないものは外になしと存ずる故なり……』
一分以上も、マルグリット嬢は立ち尽くしていた。ド・ヴァロルセイ侯爵の破廉恥な図々しさに圧倒され、この手紙の漠然とではあるが実に明確な内容、その各行が彼女の将来を脅かすものであることに茫然としていた。現実の酷さは彼女の不安を遥かに上回るものだった。
しかし状況の深刻さを理解した彼女は、茫然自失の状態を振り払った。この一瞬一瞬がいかに貴重であるか、すぐにこの場で決断を下すことがいかに重要か分かったからだ。しかし何をどうすべきか?7.13
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