エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-XII-8

2021-06-30 11:38:33 | 地獄の生活

 「言語道断!」彼は呻っていた。「身の毛もよだつとはこのことじゃ! 常軌を逸した無分別を犯した旧友、その娘が可哀想なことに!三十年もの付き合いだというのに! このように見捨てるとは!実に、実に、けしからん!……ああ可哀想な娘!純金のような心を持った、天使のように美しい娘が! この情け容赦ないパリという街はこの娘をたちまち餌食にするだろう……そんなことは許しておけるものか……老兵たりといえどここにこうして、身を挺してお前を守り抜こうぞ!」

 彼は再びマルグリット嬢の前に立った。情に脆いと同時に粗暴な男の並外れた大声で彼は怒鳴った。

 「マルグリット嬢!」

 「は、何でしょう?」

 「わしの息子ギュスターヴ・ド・フォンデージを知っておるな?」

 「将軍がド・シャルース伯爵に何度かその方のお話をなさっていたのを覚えています」

 彼は猛烈な勢いで口髭を捻りあげた。動揺した時とか困惑したときの彼の癖なのである。

 「わが息子は」彼は言い始めた。「二十七歳、現在軽騎兵隊の中尉であるが、大尉への昇進を約束されておる……抜擢じゃ! なかなかの男前で将来出世するじゃろうて。爪の先までやる気に溢れておるからな。ま、言いにくいことでもずけずけ言うのがわしの性分じゃから言うが、やつはちと精神が散漫なところがある……が、頭はもう一つかもしれぬが、気は良い男だ、全くのところ! じゃから、気立ての優しい物の分かった娘ならあの呑気者をちゃんとした男にし、またとない夫に仕立て上げるじゃろう……」

 彼は二度三度と指を襟と首の間に差し挟むと、息を詰まらせたような声で言った。

 「マルグリット嬢、謹んでお願いしたい。わが息子ギュスターヴ・ド・フォンデージ中尉の妻となってくださらぬか」

 マルグリット嬢の目に怒りの炎が燃え上がった。そして先ほどと同じように、この上なく冷淡な口調で答えた。

 「光栄に存じます、将軍、あなた様にそのように仰って頂いて……ですが私の身の振り方はもう決まっているのでございます」

 ド・フォンデージ氏が口がきけるようになるまでたっぷり十秒は掛かった。

 「さようか!……そうであるか!」とついに彼は並々ならぬ狼狽とともに呟いた。「これはまた迂闊なことであった!……普段ならばこんなことはせぬのじゃが……可愛い娘よ、お前の心痛に思いを致すべきであった! 一旦は拒絶したが再び思い直してみてはくれぬか……ギュスターヴが気に入らぬということであれば、仕方あるまい、別のもっと良い男を考えよう。ド・シャルースの最も古き友人はお前を見捨てたりはせぬぞ……。今晩、家内に会いに来るとよい。あれは気の良い女だ。お前たち、女同士のお喋りをすれば良い。さすれば、お互い気心も知れる。さぁどうだ。返答をしなさい。どうしたのだ?」

 このように執拗に言い立てられ、マルグリット嬢の苛立ちは頂点に達した。ついに彼女は言った。6.30

コメント

1-XII-7

2021-06-29 08:59:42 | 地獄の生活

ド・フォンデージ氏はびくっと身を震わせ、顔が蒼ざめた。そして自信なさげな声で言った。

 「なんと!なんという戯言を言っておる……あのシャルースだぞ、そんなことが!そんなことがあってたまるか!」

 「伯爵は馬車の中で発作に倒れられたのです。五時に歩いて外出なさいましたが、七時前に意識不明の状態で運び込まれました。どこに行ってらしたのか、誰にも分からないのです」

 「分からないのか……分からないのか……」

 「はい、悲しいことに。亡くなられる前になにか意味不明のことを呟いておられた他には、何もはっきりしたことは仰らずじまいでした」

 それからすぐにマルグリット嬢は二十四時間前に繰り広げられた陰々たる場面を手短に語り始めた。彼女が語る内容にこれほど気を取られていなかったら気がついたことであろうが、将軍は話しを聞いていなかった。彼は、治安判事からは仕切り棚で隔てられたド・シャルース伯爵のデスクの傍に座り、デスクの上に肘を乗せ、マダム・レオンが先ほど持ってきたばかりの伯爵宛ての手紙の束を機械的に手で弄んでいた。が、すぐに彼の全注意を否が応でも奪うような一通を発見した。彼がそれを手に取り貪るような眼で凝視したとき手は震え、拳固に握り締められた。顔は蒼ざめ、目が霞み、呼吸は激しくなって音を立て、冷たい汗が髪の付け根から吹き出した。もし治安判事がこの様子を見ていたなら、何か只ならぬ恐ろしいことがこの紳士に起こり彼を動揺させていることが分かったろう。たっぷり五分は経った頃、誰にも見られていないことを確かめると、彼はその手紙をポケットにすばやく滑り込ませた。マルグリット嬢は話を終えた。

 「これでお分かりでしょう、おじ様、お金持ちになるどころか、私には安住の地もパン一切れもない身なのです……」

 将軍は立ち上がり、書斎の中をでたらめに歩き回り始めたが、彼の全身から痙攣のような激しい興奮が漲っていた。

 「そのとおりだ」と彼は心ここにあらずといった様子で繰り返した。「この娘は無一文の身となり、すべてを失った……不幸の極みだ……」

 それから突然マルグリット嬢の前で立ち止まり、腕組みをしたまま尋ねた。

 「お前はこれからどうなるのだ?」

 「神様は私をお見捨てにはなりませんでしょう、将軍」

 彼は踵を返し、また歩き回り始めた。両手を振り回し、怒りに我を忘れ、その割にはすらすら出て来る罵り言葉の独り言を口にした。6.29

コメント

1-XII-6

2021-06-27 10:08:11 | 地獄の生活

 ド・フォンデージ夫人、別名『将軍夫人』は細い鼻ときゅっと結んだ薄い唇を持った気難しい女性だったが、彼女の夫はそう見せているほどには恐ろしい人間ではない、と言っていた。彼は切れ者と言われることはなく、事業に関することには一切耳を貸さないと公言していた。彼の懐具合については誰もはっきりしたことは知らなかった。が彼には晩餐に招いてくれる多くの友人がおり、有力な知人を持っていることでは定評があった。

 ド・フォンデージ氏はド・ヴァロルセイ侯爵とは親密な間柄であったにも拘わらず、彼に一瞥もくれずまっすぐマルグリット嬢のところへ行った。そして両腕で彼女を抱え胸に抱きしめ、口づけをする格好で彼のごわごわした口髭を彼女の顔に押し当てた。

 「気をしっかり持つのですぞ、嬢ちゃん!」彼は呻るように言った。「しっかり! 打ちのめされてはならぬ。このわしをご覧。わしをお手本にするのだ……」

 そう言って彼は後ろに下がった。彼がストイックな軍人精神と友人としての悲しみをなんとか融和させようと必死に努力する様は異様でもあり滑稽でもあった。すぐに続けて彼は言った。

 「わしのことを恨んでおるじゃろうな、こんなに遅うなってしもうて! わしの所為ではないのじゃ。お前からの使いがわしのところへ来たとき、わしはド・ロッシュコート夫人に招かれておってな……帰宅したらどうじゃ、恐ろしい知らせが待っておった!……大砲でドカンとやられたようじゃった!……三十年来の友人が、全く遺憾千万なことじゃ!……わしは彼の最初の決闘のときの介添え人じゃった、あのシャルースの。樫のように頑丈な男であった。わしら全員を埋葬するまで長生きする筈であったのに。だがしかしそのような定めでもある……最上の兵士は隊列の先頭を行進するものじゃ」

 ヴァロルセイ侯爵は何度も立ち去ろうとして足踏みをしていた。治安判事は陰に隠れてしまっていたし、マルグリット嬢は黙っていた。将軍が話している間は口を挟むことが出来ないことを習慣で知っていたからだ。

 「幸いにも」と将軍は尚も言葉を続けていた。「シャルースという男は周到な男じゃった。彼はお前を心から愛しておったのじゃよ、嬢ちゃん、彼の意志は遺言という形で示されておることじゃろうな」

 「伯爵の意志ですか!」

 「おお、そうとも、しれっとした顔のおちびさん、わしに隠しだてしようとしても無駄じゃよ。わしはすべて知っておるからな。ああ、お前を嫁に欲しいとヨーロッパ中から引く手あまたになる。そうとも、求婚者が列をなすぞ」

 マルグリット嬢は悲し気に頭を振った。

 「将軍、あなたは間違っておられます。伯爵は私に何の遺言も残しませんでした。なんらの準備もしておられなかったのです……」6.27

コメント

1-XII-5

2021-06-24 09:47:22 | 地獄の生活

彼は茫然自失の態であった。自分が拒否されることなどある筈がないという確信を持ってやって来たかのように。彼の視線は一点に定まらず、マルグリット嬢と治安判事の間を行ったり来たりしていた。治安判事の方はまるでスフィンクスのように平然としていた。やがてヴァロルセイ侯爵の目はマルグリット嬢の足元にある赤鉛筆で印をつけられた新聞の上に止まった。

 「希望を持つことも許されませんか?」彼は呟くように言った。

彼女は答えなかった。彼は理解し、出て行こうとしたそのとき、突然ドアが開いて下男が告げた。「ド・フォンデージ様でございます」

 マルグリット嬢は指で治安判事の肩をつついた。

 「ド・シャルース伯爵のお友達がいらっしゃいました」と彼女は言った。「今朝使いを出しておいたのです」

 六十代と思われる男が姿を現した。背が高く、火打石のようにぎすぎすした身体は『I』の文字のように真っ直ぐで、群青色の丈長のフロックコートを極端なまでにきちっと身に纏い、日焼けしてざらざらした首は七面鳥の首を思わせ、サテンの固く高い襟の中でかろうじて首を回せるという状態だった。褐色の肌の色、赤鼻、ブラシのように刈り上げた髪、もじゃもじゃの眉毛の下に光っている小さな目、そしてヴィクトール・エマニュエル風の巨大な口髭を見れば誰しも『これぞ軍人だ』と言うであろう。

 ところがそうではなかった。ド・フォンデージ氏は軍隊に所属したことは一度もなかった。彼がまだ二十代だった頃、友人たちが『将軍』というあだ名をつけたのはもっぱら彼の喧嘩っ早い性格をからかうためであった。しかしそのあだ名は定着した。冗談だったものがいつしか真面目に取られるようになり、皮肉が肩書となった。人はド・フォンデージ氏とは呼ばず、専ら『将軍』で通った。『将軍』として招かれ、来訪を告げられるときもこの名前であった。多くの人々が彼は実際に将軍だったと思っていたし、彼自身もそう思い込んでいた節がある。もうかなり前から彼は自分の名刺に『将軍A・ド・フォンデージ』と書いていた。この異名が彼の人生に及ぼした効果は絶大なものだった。

 彼はその名に恥じぬべく、ふさわしい者になろうと努力した。ある性格を作り上げ、その通りの人間になることが彼の目的となった。因習的な男でありベテラン軍人、似ても焼いても食えないしたたかさと人の好さ、がさつさと善良さ、繊細さと鈍感さを合わせ持ち、子供のように純真でかつ黄金のように立派という男に。彼は神を讃える言葉と罵り言葉を同時に口にした。腹の底から声を出し、喋るときには風車の羽根のように両腕を振り回した。6.24

コメント

1-XII-4

2021-06-22 08:38:34 | 地獄の生活

彼の方は、この上なく威厳に満ち、かといって率直さに欠けることもない口調で言葉を続けた。

 「私がどういう人間か、申し上げねばなりませんか、お嬢様?……いや、それは不要でしょう……ド・シャルース伯爵が承認してくださったという、その一事で十分でございましょう……純潔で汚名にまみれたことのないフランスの中で最も偉大な家名の一つ、それが私の名前です……私の財産が若気の至りで多少減じはしましたが、それでもまだ我が家柄の体面を保つに決して不足はありません……」

 マルグリット嬢はまだ声を出せずにいた。答えるべき言葉がみつからず、冷静さは消し飛んで、彼女の舌は糊付けされたかのように口の中に貼り付いていた。

 彼女は困惑の視線を老判事に向け、介入してくれるよう懇願する合図を送ったが、彼の目はじっと指輪に注がれたまま物思いに沈んでおり、まるでその輝く宝石によって催眠に掛けられたかのようであった。

 「私が不幸にも貴女様の御不興を買ったことはよく分かっております」侯爵は尚も続けていた。「ド・シャルース伯爵もそのことはお隠しになりませんでした。ああ、私は貴女様の前で世にも愚かなことを言ってしまい、貴女様に酷く軽蔑されてしまいました……お許しください……あのときはまだ分かっていなかったのです。後になって貴女様の知性の高さ、お心の高貴さを知るまでは……。私は大して考えもなく今どきの若い女性に対する言葉遣いをしてしまいました。贅沢と虚栄に血道をあげ、結婚とは家庭の束縛からの解放にすぎないと考えるような……」

 彼はまるで感情の昂ぶりのため息が詰まるかのように、また自分を抑えきれないかのように途切れ途切れに話していた。またあるときは声がか細くなり殆ど聞き取れぬほどであった。

 しかし彼にこのように話を続けさせること、そして彼女がじっと聞いているというそのことが、マルグリット嬢を縛ることにもなりかねない。彼女はそのことに気がついたので、力を振り絞った。

 「どうか、侯爵」彼女は遮って言った。「お気持ちはよく分かりました……有難いと思っております……でも私の身の振り方は私一人で決めるものではなく……」

 「お嬢様、お願いでございます。今日いますぐお返事はなさらないでください。貴女様がお持ちの反感を消し去る時間を少し頂ければよいのです」

 彼女は首を振り、きっぱりと言った。

 「私、反感は持っておりません、侯爵。ですが、もう随分前から私の将来は決まっているのでございます……決定的に」6.22

コメント