エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XIV-9

2025-02-28 10:34:53 | 地獄の生活
『俺一人だけでも、何とかやっていくのにどれだけ苦労したか分からないのに』と彼は呻くように言いました。『今は一体どうすりゃいいんだ! 一文無しの女というお荷物を抱えて!何という馬鹿げた羽目に陥ったことか!……だが俺には他にどうしようもなかった……こうなるしかなかったんだ!』
 どうして他のやり方が出来なかったのでしょう? 私は何度も何度もその問いを自分に投げかけていたけれど、答えは分かりませんでした。そのうち彼自ら私に明かすときが来るのだろう、と考えていました。
 でも、彼が心配していた貧困に喘ぐ暗い未来は現実のものとはなりませんでした。思いがけない幸運がニューヨークで彼を待っていたのです。彼の親戚の一人が亡くなり、彼に遺産を遺したのです。五万ドル---つまり二十五万フラン、ひと財産です。
 これで彼の恥知らずな泣き言を聞かずに済むようになるであろう、と私は期待しました。確かに泣き言はなくなったけれど、この遺産が入ったことで、今度はこの上なく横柄な非難が始まったのです。
 『運命とは皮肉なものだ』と彼は繰り返し言い続けました。『この金があれば、十万ドルの持参金を持つ娘を見つけることなど簡単に出来たろうに。そしたら結局俺は金持ちになれた筈だ!』
 その後、当然私は捨てられるだろうと思っていました。ところがそうではなかった。到着してすぐ、その月に彼は私と結婚しました。あの国では結婚するのも簡単だったのです。一度口にした約束は守るという最低の誠実さは持っていたのだ、と私は思いました。ところが、そんなことでは全くなかったのです!彼にとって結婚は単なる計算でしかありませんでした。他のことと同じように。
 私たちはニューヨークに留まっていましたが、ある夜、帰ってきたときの彼の顔は真っ青で、すっかり動転していました。その手にはフランスの新聞が握られていました。
 『さぁこれを読んでみろ』 と彼は私にそれを投げてよこしました。
そこには私の兄が命を落としたのではないことが書かれてありました。彼は回復の途上にあり、全快することは確実であると……。
 私は床に頽れ、跪いて涙にくれながら神に感謝しました。私を苦しめていた重い悔恨の鎖から解放されたことを……。
 『ああ、そうだな!』と彼は叫びました。『せいぜい喜ぶがいいだろう……だが、これで俺たちはにっちもさっちも行かなくなってしまった!』2.28
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2-XIV-8

2025-02-25 10:14:47 | 地獄の生活
そんな風に私たちはフランスを後にしました。
 その航海は私にとって長い責め苦の時間でした……。蔑まれ、辱めを受ける初めての体験だったのです。船長のわざとらしい丁寧さ、その部下の馴れ馴れしい態度、最初に甲板に上がったときから乗組員が私に浴びせる皮肉な視線。私の立場は公然の秘密であることは明らかでした。あの下品な男たちは皆、私が夫と呼んでいた男の情婦であり、妻ではないと知っていて、おそらくはっきりと意識してはいなかったでしょうが、私にその罪を残酷に突き付けていたのです。
 最悪なことは、理性が目覚めてきて、私の目は少しずつ開かれ、この品性卑しい男の本性が見えてきたことでした。その男のために私は自分の人生を擲ったというのに。
 彼の方は、それでもまだ完全に自制することを忘れたわけではありませんでした。でも夕食の後、彼はよく友達の船長と一緒に煙草を吹かし酒を飲んでは、酔っ払った状態で私のもとに戻ってくると、奇妙な恐ろしい話をして私をぎょっとさせたものでした……。一度など、いつもより多量に酒を飲んだ彼は、自分が演じている役割をすっかり忘れてしまい、本性を現したのです。
 彼は私たちの『恋物語』が出来の悪いメロドラマみたいになってしまったことを、苦々しい口調で嘆きました。最初は上々の滑り出しだったのに、と彼は言うのです。上手く『順調に』事が運んだ筈なのに、流血で終わるとは!なんたる失態!と。
 しかも、なんというタイミングで起こったことか。あともう少しで目的に達するところだったのに。すべてが上手くいって俺の苦労が報われる寸前だったというのに……、と。
後何週間かあれば彼は私を完全に支配し、両親のもとから家出をするよう説得する……。すぐに大きなスキャンダルになり、私の家族との話し合いが持たれ、取引がなされ、ついに莫大な持参金を持たせて私と結婚させることで事を収めることになる……。
『そしたら俺は大金持ちになったのに』と彼は何度も口にしました。『豪華な四輪馬車でパリの街を乗り回すことになったのに。それが、こんな薄汚れた船に乗って一日二度の食事は塩漬けの鱈だ……しかもそれがお情けと来てる!』
それから酒の酔いも手伝って彼は怒りを爆発させ、冒涜の言葉を吐きながら怒鳴りました。私が彼の計画を台無しにした、と。恋人を作って、それを隠すことも出来ないとは、私ほどの馬鹿女はいない。あらゆることを想定してきた自分だが、その点だけは見逃していた……世の中広しと言えども、知能も知恵もない女はおそらく私ただ一人であろう、たまたま手に入った女がそんな女だったとは……自分は昔から運の悪い男だった……。
ああ、もう疑いの余地はありませんでした。もう無意味な幻想で自分を騙すことは出来ませんでした。真実が白日のもとに晒されたのです。私は一度も愛されたことはなかった、一時間も、一分たりとも。私をうっとりさせた多くの手紙、私を恋に狂わせた情熱溢れる行為の数々は私に向けられたものではなく、私の父の財産に向けられていたのです。
別の日には顔を曇らせている彼の姿を見ました。みるからに不安そうに、彼はアメリカで私たち二人の生活費を稼ぐには何をしたらいいのかを考えている、と言いました。2.25
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2-XIV-7

2025-02-19 11:09:01 | 地獄の生活
ウィルキー氏はある種の気詰まりをはっきりと感じていた。彼は自分が貴族らしい振る舞いをしなければならないと思っていたことを忘れ、もはやド・コラルト氏のこともド・ヴァロルセイ侯爵のことも頭から消えていた。マダム・ダルジュレが言葉を切ると、彼は座っていた姿勢からまっすぐ立ち上がり、少し茫然としながら言った。
「驚いたなぁ、いや、驚きました!」
しかしマダム・ダルジュレは先を続けていた。
「このように私はとんでもない、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのです……。あなたには全てを包み隠さず、無益な正当化などせずに話しています。お聞きなさい、私の罰がどのようなものだったか……。
ル・アーブルに到着した次の日、アルチュール・ゴルドンは大変な失態を犯してしまったと私に打ち明けました。あまりに逃亡を急いだため、彼がパリで所有しているお金をかき集めてくる時間がなかった、と。それに彼が頼りにしていた街の金融業者にも断られてしまったので、ニューヨークまでの渡航費用がない、と言うのです。
この苦境に私はどうしていいか分かりませんでした。私の受けた教育は、私のような境遇の娘は誰でもそうだったけれど、馬鹿げたものでした。世間のことは何も知らず、生活することや、そのための苦労、貧乏がどんなに厳しく呵責のないものか、に全く無知でした。世の中に金持ちと貧乏人がいることを知らないわけではなかったし、お金は必要なもので、お金のない者はそれを手に入れるためにどんな卑しいことでもするということも知っていました……。でもそういったことはただ漠然と頭にあっただけで、お金をどれほど持っているか、が人生の重要な問題を左右するほどのものだとは思っていなかったのです。
そんな訳なので、アルチュール・ゴルドンのこの告白の後に続いてどんな要求がなされるのか、予想することも出来ませんでした。で、ついにアルチュールは明け透けに、いくらかお金を持っていないか、少なくとも何かお金に替えられる宝石などを持ってきていないか、と私に尋ねたのです。
私は身に着けていたすべてのものを彼に差し出しました。数ルイのお金が入っていたバッグ、指輪、それに綺麗なダイヤモンドの十字架の付いた首飾りを……。
たったそれだけだったので、忌々しさのあまり彼は酷い言葉を投げつけました。私は震えあがったのだけれど、彼の悪辣さのすべてを読み取ったのはずっと後になってからでした。
『恋人に会いに行く女というものは』と彼は怒鳴りました。『全財産を常に身に着けているべきだ……何があるか分からないだろう!』
お金がないため、私たちはル・アーブルで釘付け状態になりました。アルチュール・ゴルドンは街を歩き回っているとき港で彼の昔の仲間の一人に出くわしたのです。それは三本マストのアメリカ船の船長をしている人でした。アルチュールが苦境を話すと、その人は親切にも週末に出航する予定のその船に私たちをただで乗せてくれると言ってくれたのです。2.19

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2-XIV-6

2025-02-14 10:48:38 | 地獄の生活
とうとう根負けして彼は降参しました。つまり、降参する振りをしたのです。感謝と愛の言葉をふんだんに浴びせて……。それが私の理性を狂わせることになると計算の上です。
『ああ、それでは、お受けしましょう!』と彼は叫びました。『私たちを見、聞き、裁いてくださる神の御前で私は誓います。この世で最も崇高かつ類まれなる献身に対し、男が為し得るすべてのことを私はいたします』 と。
そして私の上に屈みこむと、彼は私の額に口づけをしました。彼から受けた最初の口づけを。
『しかし、逃げなくてはなりません!』と彼はてきぱきと言いました。『今や私には守るべき幸福がある。これからは何人たりとも邪魔はさせない。私たちを引き裂くようなことはさせない。一刻も早く逃げなくては。私の国であるアメリカまで行きさえすれば、その瞬間から私たちは自由の身です……但し、もちろん、私たちは追われるでしょう。もう既に追手が迫っているかもしれません。貴女は社会的に大きな力を持つ家柄の令嬢なのに、私は何もない人間。私たちは一捻りで潰されます……貴女はどこかの修道院の奥に閉じ込められ、私には盗賊か殺人者の汚名が着せられるでしょう』
私の頭に浮かんだのは、たった一言だけ。
『逃げましょう!』
こうなるだろうということは、彼には分かりすぎるほど分かっていたのです。
それというのも、門のところに一台の馬車が停まっていましたが、それは私をド・シャルース邸まで乗せていくためのものではありませんでした……その証拠に、その馬車には既に彼の旅行鞄と荷物が積みこまれてありました。それに、御者には予め指示を与えてあったのか、一言も言葉を交わすことなく、馬車はまっすぐル・アーブル駅に向かったのです。
このような些細な事がはっきり思い出されて全てが氷解したのは、それから何か月も経った後のことでした……そのときには気がつかなかったのです。私はとてもそんな状態ではなく、ショックで何も見えなかった。持って生まれた気質と一緒に、自分の自由な意志というものが私から飛び去ってしまったのです。
私たちが鉄道の駅に着いたとき、列車がまさに発車しようとしていました。私たちは乗り込みました。
神は妻たる女に言われたではないか。『お前の夫に従うため、お前はすべてを捨てるのだ。故郷も両親の家も家族も友人もすべて……』 私はつまらないへ理屈で自分の心に蓋をしようとしていました。彼こそ自分の夫なのであり、全ての人の中から心が本能的に選んだ人なのだから、彼に従い、彼と運命を共にすることは自分の義務なのだ、と。それで私は逃げたのです。自分の兄の亡骸を背後に残して行くのだと信じて……」2.14
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2-XIV-5

2025-02-09 10:47:18 | 地獄の生活
『貴女の兄上が床の上に倒れたのを見て、私は恐ろしさに動転し、自分が何をしているかも分からないまま貴女を腕に抱え、ここに連れてきたのです……。でも怖がらないで。貴女が私の家にいるのは貴女の自由意志ではないことは重々承知しています……。馬車が下で待っています。貴女の御命令ひとつでご両親の待つド・シャルースの舘に連れていってくれるでしょう。今夜起きた恐ろしい出来事については、なんらかの言い逃れがなされるでしょう……。陰口は叩かれても、貴女ほどの名門の令嬢の名誉を傷つけることは出来ない筈です……』
彼の声は氷のようで、有罪判決を受けた者のような口調でした。死刑執行人に運命を握られ、最後の望みを述べるときのような。
私は頭が変になりそうでした。
『で、貴方は?』と私は叫びました。『貴方は一体どうなるの?』
彼は首を振り、人を寄せ付けないような悲しみの表情を浮かべていました。
『私ですか! 私などはどうでもいいのです。私はもう終わりです。それでいいのです。貴女なしで生きて行く人生に何の意味があるでしょう!』
ああ、あの男は私の心をよく知っていました。彼にとって娘を誘惑することは財産を手に入れる手段に過ぎなかった。どういう声を出せば私の心を震わせることができるか、よく知っていたのです。
私は眩暈に襲われました。それは狂気の一種でもあり、英雄的精神でもあったでしょう。私は彼に身を投げかけ、両腕で抱きしめました。
「それなら私も一緒に死にます!」と私は叫びました。「運命が私たちを結び付けたのですもの。この世では死以外のなにものも私たちを分かつことはできません……貴方を愛しています! 私も共犯者です! 兄の血は貴方だけでなく私たち二人の上に降りかかっています!」
このとき彼の顔を見た人がいたとすれば、そこに悪魔的な微笑が浮かぶのを見たことでしょう……。
でも彼は否定しました……。
彼は私を道づれにすることに、見せかけの拒否をしました。自分のような危険で破滅的な男の運命に私を結び付けることはできない、と。今までに降りかかったどんな不幸よりも恐ろしい今回の不幸が、自分は運命に呪われた男であることを証明している。それによって私には死ぬほどの悲しみが与えられ、自分には永遠の悔恨が続くのだ、と。
でも彼が私を遠ざけようとすればするほど、私はますます頑なに彼について行く決心を固めていました。犠牲がどれほど恐ろしいものかを彼は分からせようとしましたが、却って私はそれを貫くことが尊い行為なのだと思い込んでしまったのです……。2.9
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