エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-XVI-9

2021-11-30 12:08:37 | 地獄の生活

僕は彼女に手紙を託し、彼女はすぐにマルグリット嬢から返事を貰えると約束してくれました。あの邸では今夜お通夜のために皆起きているので、そっと数分間抜け出すことは簡単に出来る筈、と。それで、今夜十二時半の鐘が鳴ったら彼女が庭の小門のところまで出てきてくれ、僕がちゃんとその時間に行けば彼女からの返事が貰える筈です……」

フェライユール夫人はまだ何かあると思い、待っていたがパスカルが何も言わないので尋ねた。

「大変なことになった、とあなたは言ったわね。それはどういうことなの? ……私にはよく分からないのだけど……」

彼は脅すような身振りをした。それから沈んだ声で言った。

「大変なことというのは、僕が陥れられた卑劣な行為を別にして、マルグリットが一か月後に僕の妻になるということなのです。今や彼女は自由な身の上ですからね。自分の意志と心に従って行動することが出来るようになったので」

「なのにあなたは何を嘆いているの?」

「ああ、お母さん!……彼女を妻に迎えることなど出来ますか! 汚された名前を彼女に与えることなど考えられません!……もし僕がこの汚名を晴らすより前に、彼女への愛や僕たちの未来を口にしたとすれば、それは卑劣な行為のように思えるのです、犯罪よりももっと酷い……」

後悔、怒り、そして自分の無力さの自覚により彼は涙を流した。フェライユール夫人はその涙が自分の心に溶かした鉛のようにどろどろと入り込んでくるのを感じたが、彼女は気丈な態度を装った。

「であるからこそ」と彼女は冷静な口調で言った。「いまは一秒でも無駄にしてはなりません。あなたは名誉回復のために自分の持てるあらん限りの力を振り絞らなければならないのです」

「ああ! 復讐は果たしますとも……そうしてみせます……しかし彼女は、その間彼女はどうなるのでしょう? 考えてもみてください、お母さん、彼女はこの世に一人ぼっちで、味方もなく、見捨てられているのです! 正気を保ってなどいられませんよ!」

「その娘さんはあなたを愛している、とあなたは言ったわね。なら、何を心配することがあって? いまや彼女は押し付けられようとしていた執拗な求婚者を厄介払い出来たではありませんか。その、ド・ヴァロルセイ侯爵とかいう人を、そうでしょう?」

この名前を聞くとパスカルの頭に身体中の血が押し寄せた。

「ああ、あの卑怯者めが!」彼は叫んだ。「もし天に神がいるなら……」

「何ていうことを言うの!」とマダム・フェライユールは遮った。「神を冒涜してはなりません。既に神はあなたの側におられるではありませんか! 今、どっちがより苦しんでいると思うの? 自分の潔白で身を護っているあなたと、自分が無意味な犯罪を犯してしまったことを知った彼のどちらが?」11.30

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1-XVI-8

2021-11-29 12:31:23 | 地獄の生活

パスカルがマルグリット嬢のことを酷く話しづらそうにしているのは明らかで、殆ど嫌がっているようにさえ感じられた。真の情熱の奥には常に秘密にしておきたい欲求があり、純潔な愛情にはベールを脱いで明らかにしたくないという恥じらいがあるものだ。フェライユール夫人はこのことを理解できる人間だった。しかし彼女は母親であり、息子が愛情を向ける対象への嫉妬があった。今までは彼女が独占していた息子の心に突然入り込んできたこの競争相手のことを詳しく知りたいと思った……。彼女も女だったので、他の女への敵愾心や疑いの気持ちがあった。そのためパスカルの感じている気まずさに同情することもなく、詳しく話をするよう強要した。

「御者には五フラン渡して急いでくれるよう頼んでいました。馬は速掛けで走っていましたが突然ド・シャルース邸の前まで来ると奇妙な変化が生じたのです……外を見ると邸の前の道には一面に藁が分厚く敷き詰められているのが分かりました……。

そのとき僕の感じた不吉な思いをとても口では説明できません……突然身体中から冷たい汗で吹き出しました。苦しんでいるマルグリットの姿が稲妻の光の中に浮かんで見えるようでした……死にかけている彼女、僕から離れたところで僕の名前を呼びながら……。

馬車が停まるまで待ちきれず、僕は地面に飛び降りました。ド。シャルース邸の門番に亡くなったのは誰なのか尋ねようと駆け出しそうになり、無理やり自分の身体を抑えねばなりませんでした。

予想もしていなかった問題です。直接自分で行ってマダム・レオンを呼び出して貰うことは出来るだろうか? 答えはノンです。では誰を差し向けたらいいか?こんな時間なので、いつもなら道のどこかにいる使い走りも一人もいません。界隈の酒屋の小僧に頼むことなど出来る筈もなし。ところが幸いにも私を乗せた馬車の御者が---この馬車の御者なのですが---気の利く男で、自分が伝令を引き受けると言ってくれたのです。その間彼の馬を見ていてくれたら、と。

十分後、マダム・レオンが出てきて私の方に歩いて来ました。彼女のことは、マルグリット嬢がリュクサンブールの近くに住んでいたとき一緒のところを何度も見ていたのですぐ分かりました。マダム・レオンの方でも僕がしょっちゅう家の前を通るのを見ていたので、僕のことが髭を落としていてもすぐ分かったようです。

彼女の最初の言葉『ド・シャルース伯爵がお亡くなりになりました』というのを聞いたとき、どれほど重圧から解放されたことか。僕はやっと楽に呼吸が出来るようになりました。

でも彼女はとても急いでいたので、詳しいことは何も教えてくれませんでした……。11.29

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1-XVI-7

2021-11-26 11:32:05 | 地獄の生活

「さぁ話して頂戴」とフェライユール夫人は、御者が馬に一鞭当てた後、息子に言った。

可哀そうな若者は苦悶に心が締め付けられ、話すことが拷問に感じられるほど気持ちが萎えていた。しかし彼は母親を心配させたくなかったし、自分の意志が挫けたのではないかという懸念を与えたくもなかった。彼は茫然自失の状態から無理やり自分を奮い立たせ、馬車のガラガラいう音に負けないよう声を張り上げた。

「僕が家を出てから何をしていたかをお話します。僕の仕事の関係でラ・レボルテ通りには今の僕たちにぴったりの家が三、四軒あることを思い出したんです。それで真っ先に向かったのがそこでした。そこの一軒でアパルトマンが一つ空いていることが分かったので、借りることにしました。今後の行動の妨げにならぬよう六か月間の家賃を前払いしました……これがその領収書です。これから僕たちが名乗る名前宛ての」

彼は紙切れを取り出して見せた。そこにはモーメジャン氏から二期分の家賃三百五十フランを受領したと家主により明記されていた。

「この仕事が終わったので、僕は再びパリの中心まで引き返しました。で、最初に目についた家具商に入りました。僕たちの小さな住まいに必要な家具だけを借りるつもりだったのですが、家具屋の方はあれこれと不都合を並べ立てるのです。家具が心配で堪らないので、保証金を現金で払って貰いたいだとか、営業許可を得ている商人三人を保証人に立てて貰いたいとか……。そうこうしているうちに時間はどんどん経って行くので、僕は最低限必要な家具を購入することにしました。その条件の一つとしてすべての家具が家に十一時まで届けられ、ほぼ所定の場所に設置されることとしました。そのことはきちんと書面にし、違約金三百フランと取り決めたので、きちんとやってくれると確信しています。新しい家の鍵を彼に預けたので、彼は今頃僕たちを待っている筈です」

このようにパスカルはマルグリット嬢への愛情を思う前に、自分の失われた名誉回復を優先させていた。彼がパリという街の与える利点を知りぬいていたため、この安全な住居の確保という問題を数時間のうちに片づけたのであった。

マダム・フェライユールは息子にこんな才覚があったとは思っていなかったのかもしれない。息子の手をぎゅっと握って彼の努力に報いた。

しかしパスカルが何も言わないでいたので彼女は尋ねた。

「それでいつマダム・レオンに会ったの?」

「僕たちの住まいに関する手配がすべて終わった後のことですよ、お母さん……道具商の店から出てきたとき、まだ一時間十五分時間があることがわかりましたが、もうぐずぐずしていられません。お母さんをお待たせしてはいけないので、クールセル通りまで馬車を走らせました」11.26

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1-XVI-6

2021-11-25 11:31:29 | 危機一髪

「あら、あなただったの!」とマダム・フェライユールは言った。

「見つけてきました……考えていた住処です」

「どこなの?」

「ああ、残念ながらかなり遠くです……僕たちの良く知っている人たちから何里も離れた場所です……人通りも殆どないところで反乱の道(ベルサイユからサンドニ、コンピエーニュまでの道。1750年、子供が警察に連行されたのに怒った母親の呼びかけで暴動が起き、当時の国王ルイ15世が住んでいたベルサイユから娘のいるサン・ドニまで行くのにパリを避けてこの道を通ったことからこの名で呼ばれるようになった)沿いの一角で、アズニエール通りと交差する地点の近くです……お母さんには住み心地が悪いかもしれませんが、とても小さな庭があるので少しは慰められるかと……」

フェライユール夫人は気力を振り絞って立ち上がった。

「住むところなんてどこでも構いませんとも!」と彼女は遮って言った。そしてちょっと無理をした感のある陽気さで付け加えた。「そこに長く居ることにはならないでしょうし……」

しかし息子の方は、この楽観的見通しにはとても同調できないというように悄然と黙したままだった。母は普段の息子の表情を知り尽くしているので、彼の眼の中に新たな心配の色を見て取った。

「どうしたの?」彼女は自分でも不安が抑えきれなくなり尋ねた。「何があったの?」

「それが……大変なんです」

「今度は何だって言うの?」

「僕はクールセル通りまで行ってきたんです。マダム・レオンと話をしに……」

「で、彼女は何て?」

「ド・シャルース伯爵が今朝亡くなったと……」

フェライユール夫人はふうっと息を吐いた。彼女は全く別のことを予想していたのだ。この人物の死がどういう意味を持つのか、彼女には与り知らぬことだった。しかし今彼女が大いに気を揉んでいたのは、百人もの人がひっきりなしに通るこの待合室で、こんな立ち話をしていることこそとんでもない軽率さであり大きな危険を招く行為だということであった。彼女は息子の腕を引っ張りながら言った。

「さぁ、ここから出ましょう……」

パスカルは乗って来た馬車を待たせていた。御者に彼らの新しい住所を告げると、母を先に乗せ、自分も後から乗り込んだ。11.25

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1-XVI-5

2021-11-24 12:07:32 | 地獄の生活

夫の死は息子の不名誉ほどには苦い涙を彼女に流させなかった。ウルム通りから西駅までの道のりを、この謙虚でありながら偉大な母親はくじけることなく苦痛に耐え抜いた。彼女は誇り高く、またその根拠は正当なものであったが、家を出る際に浴びせられた激しい悪意に満ちた視線は彼女の脳裏を離れなかった。隣人の何人かによって投げつけられた聞くに堪えない悪口がまだ耳の中で鳴り響いていた。卑劣な喜びは他人の不幸から生まれるものだ。

「あの嘘涙ったら!」という言葉が聞こえた。「茶番だよ!……息子とどっかで落ち合うのさ。息子がくすねた金でアメリカに行って馬車を乗り回すんだろうさ……」

噂というものはとかく物事を大袈裟にし歪曲するものだが、憎しみと嫉妬がダルジュレ邸での途方もない騒ぎをもはやあり得ない程度にまで増幅させていた。五年前からパスカルは毎夜賭けゲームに通いつめ、稀代のいかさま師である彼は何百万という金を懐にしていたという話がウルム通りでは真実として通っていた……。

そうこうするうちにマダム・フェライユールは鉄道の駅に近づいていた。馬車はアムステルダム通りの急坂を上り、やがて駅の前に到着した。

フェライユール夫人は気持ちを励まし、取り決めた時間どおりに、荷物をロンドン行きのプラットホームまで運ばせ、出発は翌日であると告げ、駅員から荷物の預かり証を受け取った。漠然とした不安が彼女に取り付いて離れなかった。行き交う人々の顔を観察し、よほどの偶然が重ならない限りパスカルの計略が見抜かれる筈はないと知りつつも、見張られているのではないかと恐れていた。

しかし疑わしい人間は一人も見当たらなかった。ただ何人かのイギリスからの旅行者がおり、馬鹿馬鹿しく浪費をするくせに一方では滑稽なほどしみったれな彼らは、可哀そうな荷物取り扱い係に与えるチップを四スーにするかどうか大声で議論していた。

半分安心して、マダム・フェライユールは駅の大時計のある前庭を足早に横切り、郊外線の大きなコンコースに続く階段を上った。落ち合う場所としてパスカルが指定したのはここだった。が、どこを見回しても息子の姿は見えなかった。が、この遅刻に彼女はさほど心配もしなかった。彼がするべきことをまだ終えていなかったとしても驚くには当たらない。疲れがどっと押し寄せ、彼女は出来るだけ暗い場所を選んでベンチに座った。そして絶えず集散を繰り返す群衆をぼんやりと目で追っていた。と、男が一人いきなり彼女の前で立ち止まったので、彼女ははっと身を震わせた。しかしその男はパスカルだった……。彼は髪を短く切り、顎鬚をそり落としていた。

このように短髪で髭もなく、白いモスリンのネクタイの代わりに茶色のマフラーを首に巻きつけていたので、母親でさえ最初は誰か分からなかった。11.24

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