エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

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2024-01-27 16:46:24 | 地獄の生活
というわけでマルグリット嬢は誰にも気づかれることなく家を出ることが出来た。それはまた、もし帰宅の際誰かに見られたとしても、どれくらいの時間外出していたかを知られずに済むということでもあった。彼女が外に出た途端、ピガール通りを一台の馬車がやって来たので彼女は呼び止め、乗り込んだ。
彼女が今取っている行動は彼女にとって非常に苦痛の伴うものであった。若い娘であり、元来大変内向的な性格の彼女が、見ず知らずの他人に、自分の心の奥の最も秘めておきたい感情、すなわちパスカル・フェライユールへの愛情、を曝け出すなどということが簡単にできる筈もない……。しかし、ド・ヴァロルセイ侯爵の手紙の複製を作って貰おうと写真家のカルジャット氏のもとを訪れた昨日に較べれば、自分は冷静で自分自身をちゃんとコントロールしていると彼女は感じていた。それというのも事が急展開し始めたので、躊躇する暇がなく、うまく行くかもしれないという期待が高まるにつれ、彼女は戦闘的な気分へと駆り立てられていたからだ。最初は気にも留めなかった事柄も、彼女を元気づけるべく作用した。
このフォルチュナという私的な捜索人はド・シャルース伯爵に雇われていたわけで、もう既に彼女を知っている筈であった。というのは、何カ月かの捜索の後ついに孤児院で彼女を見つけたのは彼だったからだ。この男は彼女自身よりも彼女の身の上についてよく知っているであろうから、もしその気になれば彼女の母親の名前を教えてくれることも可能であろう。その母親は無慈悲にも彼女を捨て、伯爵はその女のことを酷く恐れていたのだったが……。
人間の心というものは極端な状況にも慣れることができるもので、予想を越えるもの、とてもありそうに思えない事でも、やがてごく当たり前のこととして受け入れるようになるのは経験的に実証されている。
それでもなお、ドードラン夫人に案内され『相続人探し人』のフォルチュナ氏の書斎に入って行くときのマルグリット嬢は心臓が激しく鼓動を打ち、顔色が蒼ざめて行くのを感じた。室内に入り、素早い一瞥を投げかけることで、彼女はその場の様子と居合わせた人物たちの位置関係を理解した。その部屋の裕福そうな設えは彼女を驚かせた。むさくるしい陋屋を予想していたのだ。フォルチュナ氏のどちらかと言えば気品のある、世慣れた態度に彼女は面食らった。狡猾で凡庸で粗野な人間に会うことになると思っていたからである。むしろ暖炉の前に立ち、シャツ姿で草臥れたズボンを穿いて、平静を装いつつ帽子をこねくり回しているヴィクトール・シュパンの方に不安を覚えた。1.27
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2024-01-22 10:26:50 | 地獄の生活
それで説明は十分だと判断したのか、彼はフロランに向かって言った。
「着替えを手伝ってくれ。明日は早い時間に出発しなきゃならんのだ……」
この命令はシュパンの耳にもちゃんと入ったので、彼は翌朝七時にはド・コラルト邸の門の前に張りついて見張りを開始していた。そしてその日は一日中コラルト氏の後をつけた。まずド・ヴァロルセイ邸、それから事業関係の事務所、次にウィルキー氏宅、午後にはトリゴー男爵夫人のもとへ、そして夕方にはマダム・ダルジュレの館へと……。そして使用人たちに混ざり、館の前に次々と横付けされる馬車のドアを甲斐甲斐しく開けに行くという仕事を手伝いながら、母親と息子の間でたった今繰り広げられたばかりの恐ろしい諍いについて小耳に挟んだのだった。
やがてウィルキー氏が乱れた服装で出て来た。その後ド・コラルト子爵も出て来たのでシュパンは尾行を再開したのだが、ド・コラルト氏はまずド・ヴァロルセイ侯爵のもとに立ち寄ってから再びウィルキー氏を訪れ、そこに殆ど夜が明けるまで留まっていた。
そのような具合だったので、その翌日、火曜日の二時頃にシュパンがフォルチュナ氏のもとに出頭した時、彼はド・コラルト氏が操ろうとしている陰謀の糸をすべて掌握したと思っていた。
『相続人探しのプロ』たるフォルチュナ氏は、自分の部下が有能なことは分かっていた。が、これほどとは思っていなかったので、シュパンが詳細かつ明晰な報告をするのを聞いて、秘かな羨望を感じずにはいられなかった。
「私がやったとしても、お前ほどの幸運には恵まれなかっただろうな」と彼は報告を聞き終わったとき言った。しかし、それがどういう理由でなのか、いかにしてなのか、に言及する暇を与えられなかった。彼が口を開いて話し始めようとしたそのとき、ドードラン夫人が現れ、お待ちかねの若い御婦人が到着なさいましたと告げたのである。
「お通ししてくれ!」とフォルチュナ氏はさっと立ち上がって言った。「こちらに!」
フォンデージ家を抜け出し、フォルチュナ氏との面談に駆けつけるのに、マルグリット嬢は嘘を吐く必要はなく、口実を考えるまでもなかった。朝から『将軍』は自分の馬と馬車に試乗するため家を出ており、昼食はクラブで取るから、と言い置いていった。昼食後フォンデージ夫人は仕立て屋と室内装飾業者に用があると言い、夕食前までに帰宅することはないだろうと言い残し、同様にそそくさと出て行った。マダム・レオンはと言えば、昼頃、裕福な彼女の親戚からどうしても来てくれと要請されていたことを突如思い出した……。そして急いで支度をして出て行った。ジョドン医師のもとをまず訪れ、その後ド・ヴァロルセイ侯爵邸に行くつもりなのであろう……。召使い達の方でも、数時間は監視の目から逃れられると察知し、訪問客が呼び鈴を鳴らすかもしれないことなど意に介さず、てんでに好きなことをやりにどこかへ行ってしまった。1.22
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2-X-11

2024-01-16 13:30:20 | 地獄の生活
このような考えで頭が一杯だったので、帰り道は行きよりずっと短く感じ、ダンジュー・サントノレ通りのド・コラルト邸まで来たときも危うく通り過ぎるところだった。門番のムリネ氏のもとに出頭せねばならなかったわけだが、彼は出来る限り興奮が目に顕れないようにし、役者が隈取りをするようにこの上なく無邪気な表情を作って入っていった。ところが、驚いたことに門番小屋にいたのはムリネ氏とその妻だけではなかった。フロランもそこに居て、彼らとともにコーヒーを飲んでいたのだ。それだけではない、下男のフロランは主人から拝借したエレガントな装いを脱ぎ、赤いチョッキ姿に戻っていた。彼はひどく不機嫌そうであったが、それも至極尤もなことであった。
ド・コラルト邸から男爵邸はほんの目と鼻の先であったが、不運が見舞ったのである。男爵夫人は小間使いの女中の手から手紙を受け取ると、話したいことがあるからすぐにフロランの後を追いかけるよう女中に命じたというのだ。そして、あろうことか一時間以上も待たされたので、奇麗どころとの食事の約束を果たせず終わってしまい、その憤懣を仲の良い門番夫妻のところで夕食を共にしながらぶちまけていたというわけだ。
「返事は貰ってきたかい?」と彼はシュパンに尋ねた。
「はい、ここに」
マダム・ポールからの手紙をエプロンの胸ポケットに滑り込ませると、フロランは取り決めどおり手数料の三十スーを数えた。そこへ聞き慣れた叫び声から外から聞こえて来た。
「門を、開けてくれ!」
ド・コラルト氏の青い箱型馬車であった。子爵は馬車が車寄せの下に着くと身軽に飛び降り、召使いの姿を認めると、待ちきれないという様子で近づき、尋ねた。
「使いは済ませたか?」
「はい、仰せどおりに」
「男爵夫人には会えたか?」
「はい、私を二時間もお待たせになり、子爵様にはご心配に及びませぬとお伝えするよう言いつかりました。明日には確かにご要望にお応えできるからと……」
ド・コラルト氏はほっと安堵した様子だった。
「それから……タバコ屋の方は?」と彼は続けて尋ねた。
「お返事を頂いて参りました。これです……」
熱に浮かされたような手つきで、子爵は手紙を受けとり、開封し、ざっと目を走らせた。が、すぐに狂ったように、衆人の目が自分に注がれていることも忘れ、怒りを爆発させた。その手紙をくしゃくしゃと握り潰し、更にびりびりと引き裂き、車夫も顔負けの罵り言葉を吐いた。それから突然、自分が軽はずみな行動を取ってしまったことに気づくと自制心を取り戻し、無理やり笑い声を上げた。取り繕った不自然な笑いだったが、こう言い添えた。
「ああ、全く、女ってやつは、どうしようもないな。女の気まぐれに振り回されるのは堪ったもんじゃない!」1.16

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2-X-10

2024-01-09 16:20:49 | 地獄の生活
あのパスカル・フェライユール、極悪非道な悪党たちの被害者となった彼を救い出すために大きな働きをすることが出来れば、自分がかつて犯した犯罪の償いにある程度までなるのではなかろうか! それにしても、この状況は彼の理解力を越えるものであった。どのようにしてああいう悪党がパリという大都会に忽然と姿を現し、いくら自ら幅を利かせるような行動を取ったにせよ、彼が何者なのか、どこから来たのか誰も知らないままに人々に受け入れられるようになったとは? ド・コラルト子爵のようなならず者がパスカル・フェライユールの名誉を傷つけるようなことが、そもそも出来たのは何故なのか?
全く、なんということか!正直に生きている人間の名誉などというものは、どこかの陰謀家に目障りな奴と思われた途端、木っ端みじんにされてしまうというわけか!してみれば人生とはかくも出来の悪いゲームであり、勇気と信義と実直の一生よりもたった五分の下劣な茶番をより重しと判断する歪んだ秤なのか……!このような実例から浮かび上がる世相とは次のようなものだ。大半の善良な人々は悪人を前にしたとき毅然とした態度を取るのでなく、円滑な人間関係を保つためという口実のもと、あらゆる譲歩に身を任せるが、それは危険を伴う怠惰と同義なのだ……。
このような思いに耽っていたシュパンだったが、自分が持参している返信の封を開けて中を見てみたいという気持ちには全くならなかった。マダム・ポールの幼い息子からもっと正確な情報を引き出すことを自らに禁じたのと同じ感情が彼の中に渦巻いていた……。自分の洞察力だけを頼って真実に到達すること!彼の若いプライドを刺激したのはまさにこの一点であった。結局のところ、正当な弁護のための行為ということで正当化され許されることは可能かもしれないが、それでもやはり遺憾であり危険な行為に頼る必要などあるだろうか? この手紙の封印を破ることがどうしても必要か? マダム・ポールとあのムションとかいう諺の好きな忠告者の間で交わされた言葉で、彼が今携えているのは最後通牒であることは疑問の余地のないほど確かなことではないか? このド・コラルト子爵宛ての手紙には、指定された猶予期間の後に彼にとって致命的な汚名となる罰を受けてもらうことになると記されてあるのではないか?
この点においてシュパンは確固たる自信を持っていたので、彼の思いは既にパスカルとマルグリット嬢に及び、彼らのためにこのことをどう利用すればいいか、一生懸命考え始めていた。見棄てられた妻であるフラヴィの嫉妬心とトリゴー男爵夫人の傷ついた自尊心を対決させること、ド・コラルトの不名誉な過去を曝し、彼をやっつけること、それらは事の性質上当然の成り行きとシュパンには思われた。しかし、どのような策を用いて世間をアッと驚かせ顰蹙を買うような、また同時にパスカルの輝かしい名誉回復に繋がるような結末に持って行くか、これは劇作家の頭を悩ませるような難問であった。作品の主題は決まっているが、それをあれやこれや頭の中でいじくり回して可能な筋書きをひねり出そうとする劇作家のように、シュパンも頭を絞っていた。1.9
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2-X-9

2024-01-01 16:52:38 | 地獄の生活
「わたしには決心がつきませんわ」と彼女はムション氏に言っていた。彼の腹黒そうな横顔が暗がりの中に浮かんでいた。「本当に、どうしても……。だって、この手紙を出してしまえば、あの人が戻ってくるという希望を永遠に失ってしまうことになりますもの……何が起ころうとも、あの人は私を決して許さないでしょう」
「そうなったら」と老紳士は答えた。「今までよりもっと悪くなると言うのかね? さぁさぁ、考えてごらん、手袋をしたネコが鼠を捕まえられた試しはないんだ(時には手を汚すことも必要だ、という意味の諺)……」
「あの人は私を憎むでしょう」
「いやいや、犬を懐かせるにはまず打つことだ……それに、葡萄酒を汲んできたのなら飲まなければ(一旦始めたことは最後までやらねばならない、という意味の諺)……」
この奇妙な論法で彼女は納得した。シュパンに手紙を手渡し、ポケットから二十スーの硬貨を取出すと彼の方に差し出した。
「これは手間賃です」
シュパンは反射的にすばやく手を延ばしたが、それよりもっと素早い動作で手を引っ込めて言った。
「いや、それは収めてください。手間賃はもう貰ってありますから」
そして出て行った。シュパンの母親、彼の言葉を借りれば心の清らかなおっ母さん、がこれを見たら、息子の欲得を離れた行為を誇りに思い、大いに喜んだであろう。つい今朝も、彼はフォルチュナ氏からの日当十フランの仕事を断ったばかりだった。そして夜はマダム・ポールからの二十スーを断ったというわけだ。このことは何でもないように見えるかもしれないが、実際には途方もないことであった。このパリという文明の地の最下層に押し込められ、日々のパンを得るためには数多くの半端仕事を当てにして生きねばならない、教育のない貧しい青年にとっては実に大きな意味を持つ行為であった。
フランドル通りへの道を引き返しながら彼は口の中でもぐもぐ呟いていた。
「腹一杯食べることもままならない気の毒なあの人から二十スー貰うなんて、そんなこと出来るもんか! 人間ならばそんなことはしない!」
特筆すべきは、過去のいかなる場合においても、今彼が経験しているような心からの満足感がお金から得られたことはなかったということである。自分がかつて悪事のために用いてきた能力やエネルギーを今は善のために注いでいることを思い、彼は自分が大きくなったように感じた。1.1

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