エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-IV-6

2022-10-31 10:04:17 | 地獄の生活

彼の表現を借りれば、その女性はメッチャ綺麗でかなり背が高く、金髪だった。その美しい髪の白っぽい輝きと量の多さは驚くばかりだったという。彼以外の人間だったら、このような惨めな子供時代の思い出には苦々しい思いを抱いたであろうが、彼はタフな精神の持ち主だったので、笑い飛ばした。

「貧乏の極みだったのさ、諸君!」 この話をする段になると彼はこう言ったものだ。「極貧だよ」

しかしこの悲惨さは長くは続かなかった。その後すぐ彼は大変立派なアパルトマンに住むことになり救われたからだ。毎日、ムッシュ・ジャックと呼ばれているまだかなり若い男---彼はまだこの名前を覚えていた---がやって来て彼にお菓子や玩具を持ってきてくれた。その頃彼は四歳ぐらいだったようだ。この安楽な暮らしに入って一カ月経つか経たないかというある朝、見知らぬ男が訪ねて来て母親、あるいは母と名乗っていた女と長い間話をしていた。彼らが何の話をしていたか彼は全く分からなかったものの、何か怖い気持ちだったことを覚えている。やがて起きた出来事が彼の本能的な不安を裏付けることになった。その話し合いが終わると、彼の母は彼を膝の上に抱き上げ、迸るような愛情を込めて接吻し始めた。彼女は咽び泣きながら、抑えた声で繰り返し彼に言い聞かせた。

 「ウィルキー、私の可愛い坊や、可哀想な子! もうお前にキスすることは二度と出来ないのよ……二度と! ああでも、こうするしかないのよ……神様、どうか私に勇気をお与えくださいまし!」

彼女が言ったのはこの通りの言葉で、そのことに彼は確信があった。彼女の絶望に満ちた別れの声は今も彼の耳に残っていた。それは本当の別れだった。その見知らぬ男は、彼が泣き叫んで必死にもがくのをものともせず、彼を連れていった。しかし彼が泣いて母親を求めたのも最初のうちだけだった。やがて少しずつ彼は母を忘れていった……。

その男は寄宿学校の主であった。彼はそこで不自由なく過ごした。きちんと世話をされ、他の生徒たちより大事にされていた。とりわけ何であれ厳しく躾けられることのないよう配慮がなされていたので、彼のそこでの日々の大半はテラスの上で遊ぶか、そこら中をぶらぶらして過ごすかであった。しかしこの素敵な生活も永遠には続かなかった。

彼の計算では十歳になった頃のことだったが、十月の末頃のある日曜日、黒い服をきちっと身に着けた厳めしい顔つきの男がやって来た。赤毛の長い頬髯をし、白いネクタイを締め、パターソンという名前のその男は、彼に更なる教育を受けさせるため高等学校に入学させるよう彼の親族に言われて来たのだと告げた。10.31

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2-IV-5

2022-10-29 09:42:42 | 地獄の生活

こういったことをド・コラルト氏は彼に約束していたのだったが、最後まではっきり言ったわけではない。だからといって何なのだ。友達の言葉を疑うなんてあり得ない。ド・コラルト子爵は彼のお手本であっただけでなく、彼にとっては預言者であった。彼ら二人の話すのを聞けば、子供のころからずっと一緒に育ってきたか、少なくとも長年の付き合いであるように見えた。が、実際はそうではなかった。彼らはほんの七、八カ月前に、見かけ上は偶然に知り合ったのだった。しかしその偶然というのはド・コラルト氏がお膳立てしたものであったことを付け加えねばならない。マダム・ダルジュレがエルダー通りを散歩するのには密かな理由があると嗅ぎつけた子爵は、それを確かめたいと思った。彼はウィルキー氏を観察し、彼が夜をどこで過ごすかを突き止め、自分もそこに出向き、三度目に会った際非常に巧みなやり方で彼に金を貸すという親切な行為に出た。その時点で征服は達せられたのである。『ナントの火消し』の出資者たるウィルキーをうっとりさせ魅惑するのに必要なものをド・コラルト氏はすべて持っていた。まず貴族の称号、それと自惚れた物腰、ずうずうしいまでの落ち着き、相当な資産家であることを窺わせる外見、そして多くの名士たちと交友関係があること、である。子爵はそういった自分の利点をよく分かっていて、それらを利用した。ウィルキーとはある程度の距離を保ちながら信頼を得てゆき、たちまちウィルキーが自分でも知らなかったようなことまで調べ上げた。実のところウィルキー氏は自分の生い立ちや過去のことをあまり知らなかったので、彼の自分語りは短いものだった:

思い出す限り最初の記憶は海であった。ごく幼い頃に長い長い航海をしたということには確信があった。彼は自分はアメリカで生まれたと思っていた。彼の名前がそれを裏付けるものだった。フランス語は彼が赤ん坊の頃たどたどしく口にした最初の言語でないことは確かだった。それというのも記憶の底にまだいくつか英語表現が残っており、思い出すことが出来た。中でも父親を表す言葉は慣れ親しんだものとして二十年経った今も、完璧な発音で言うことが出来た。この言葉は教えられたものに違いなかったが、彼がそう呼んだ相手の男の記憶はなかった。彼がはっきり覚えている最初の感覚は空腹であった。それと疲労、寒さ。ある寒い冬の夜、凍るような雨の中を一晩中一人の女に手を引かれパリの通りを歩いていたときの記憶は強烈であった。半分裸足で泥の中を歩き、疲れで泣きながら食べ物をねだっていた自分の姿が目に見えるようだ。するとその女性が手を差し伸べ、彼を抱き上げてくれ、もうこれ以上我慢できないというところまで来ると、また彼を下に降ろしたのだった。この女性はおそらく彼の母親だったのであろうが、その姿は曖昧なまま彼の記憶に留まった。10.29

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2-IV-4

2022-10-27 13:54:24 | 地獄の生活

残念なことに、これは長続きのしない幸福であった。他の共同所有者たちが到着し、今度は彼らが騎手と共に巡回を始める番になり、手持無沙汰になったウィルキー氏は馬場を離れた。彼は巧みに馬車の列を潜り抜け一台の馬車を捕まえることが出来た。そこには昨夜彼と夜食を共にしてくれた二人の女性が乗っており、常にも増して真っ黄色の髪を見せびらかしていた。そこでも彼は自分に注目を集める方法をちゃんと見出していた。これぞ粋というところを見せてやるのだ!馬車の荷物置きにシャンペンを詰め込んでおいたのは伊達ではなかった……。そして頃合いを見計らって馬車の座席から身を乗り出すと大声で叫んだ。

「さぁ来た来た来た来た!ナントの火消し、ブラーヴォー! 火消しに百ルイだー!」

ところが残念、哀れなナントの火消しはコースの半分も行かないうちに力尽きて倒れてしまった。その夜、ウィルキー氏はその敗北の模様をふんだんに専門用語を用いて語ったので聞いている者に戦慄を与えるほどだった。

「我が友たちよ、聞いてくれ。なんたる厄運に襲われたことか! ナントの火消し、かの並ぶものなきスティープル・チェース、障害物レースの名馬が芝生のバンケットを通過した後、ブロークン・ダウンの憂き目に遭ったのだ。しかも優勝を浚ったのは? ムスタファだ。アウトサイダーだよ。パフォーマンスの実績もない馬だ。リングでは誰もが大騒ぎだったさ。俺はもう気が狂うかと思ったよ!」

しかしこの敗北に彼はさほど打撃を受けていないようだった。彼の友人であるド・コラルト子爵から聞いていたあの相続の話が目前に迫ってきていたからだ。まるで大きな金色の雲のようなものが彼を包み込み、圧し潰そうとしているかのようだった。ド・コラルト氏が秘密を打ち明けてくれるのは翌日ということになっていた。あと二十四時間待てばいいだけだ。

「明日だよな?」 と彼は喜びと待ち切れなさでうずうずしながら何度も自分に言い聞かせていた。「明日だ!」 今夜は緋色(富と権力の象徴)の雲の下で眠るのだ。自分の夢がすべて実現し、現実となった理想を胸に抱きしめることができるのだという思いで彼は有頂天になった。どんな理想、どんな夢かというと……。

彼が思い描いていたのは、一頭の三分の一しか所有するのではない本当の厩舎だった。彼の気まぐれを満足させるにはいくら金があっても足りないくらいだった。素晴らしい馬車で道行く人々の目を眩ませ、特に上流階級の友人たちを驚かせる。一番腕の良い仕立て屋を雇い、彼のための度肝を抜くような仕立ての服を作らせる。劇場の特別ボックス席で有名どころの女性たちを侍らせ、自分の姿を見せびらかす。パリ中が彼に注目する。彼の催すパーティが新聞に載る。どこへ行っても騒ぎになる。スキャンダルも。彼は粋と言われる。この上なく粋、息も止まるほど粋と……。10.27

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2-IV-3

2022-10-24 09:12:18 | 地獄の生活

実はド・ヴァロルセイ侯爵は彼にそんなことは言っていない。というのはウィルキー氏とは殆ど面識がなかったからだ。しかし、そんなことは構うものか、かの侯爵を友達呼ばわりすることは気分が良いものだ。『あの愛すべき侯爵』と言う時の彼は得々としていた。

しかし彼の言葉には誰も耳を貸さなかった。そのことを忌々しく思った彼は矛先を『彼の騎手』に向け、彼に合図をして場外へと連れ出した。この騎手というのは役立たずの怠け者で、大酒飲みで無気力なので、どこの厩舎からも追い出された男であった。自分を雇っている若い主人たちを馬鹿にしきっており、臆面も際限もなく彼らから金をふんだくっていた。年俸八千フランという非常に高い俸給を要求する以外に、馬丁、調教師、騎手の三役をこなさなければならないからという口実のもと、毎月穀物屋、獣医、蹄鉄工、馬具師などからの高額の請求書を提出した。更に、『ナントの火消し』の飼料の燕麦を定期的に売りさばき酒代に充てていたので、この可哀想な馬は空腹で立っているのもやっとというほど衰弱していたが、馬が痩せているのは周到なトレーニングの所為だと彼は説明し、雇い主たちはそれを信じた。この男はまた『ナントの火消し』がレースで優勝するという偽りの約束を彼らに信じさせ、彼らはこの哀れな馬に金を賭け、損をした。実際のところ、レースに出場せねばならないという義務さえなければ、この騎手ほど幸福な男はこの世にいなかったであろう……。まず第一に彼はこのような馬に乗って障害物を飛び越えるのは非常に危険であると判断したが、それは尤もなことであった。次に三人の馬の所有者たちを代わる代わる引き連れて馬場を闊歩しなければならなかったのだが、これは極めて煩わしいことであった。しかしそれを拒否することも出来なかった。この悪賢い男は、雇い主たちが何よりしたがっているのは馬を見せびらかすことなのだとよく心得ていたからだ。競技場のトラックを、緑と黒の袖の付いたオレンジ色のカザックを着込んだ騎手と共に観覧席の前を気取って練り歩くことは、他では得られない虚栄心を満足させる瞬間だった。自分たちには大いなる敬意が払われていると彼らは確信し、自分たちは羨望の的であると考え自惚れではち切れそうになるのだった。三人のうちの誰かが騎手を独り占めしすぎるという非難の応酬がもとで一度など決闘騒ぎにまで発展したこともあった……。

その日一番先に到着したウィルキー氏は当然のこととして『ナントの火消し』虐めに取り掛かった。これほど都合良く事が運んだことはかつてなかった。その日の天気は申し分なく、観覧席は人の重みでギシギシ音を立てるほどだった。二万人の見物人がコースの端から端までぎっしり詰めかけていた。

ウィルキー氏の姿はどこにでも見られた。彼の騎手を後ろに従え、大袈裟な身振りをしながら甲高い声であれこれ命令していた。行く先々で『あの紳士は馬の持ち主だよ』という声を聞くのは何たる喜びであったことか!そしてどこかの町人が絹のカザックやブーツの折り返しを見たときの感嘆の声を耳にするのは最高の瞬間だった。10.24

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2-IV-2

2022-10-20 10:10:46 | 地獄の生活

しかし侯爵に有利な動かしがたい状況もあった。彼の財産である。少なくとも人々の頭にある彼は大変な財産家であった。

「あれほどの金持ちが」彼を擁護する人々は言った。「盗みに等しいような行為をするだろうか? 今非難されているようなことは、一般大衆から金を巻き上げて自分の懐に収めるのと同じではないか。カードでインチキをするよりもっと酷いことだ! あり得ない。ヴァロルセイはそのような惨めな中傷を受けるような人間ではない。彼は完璧な紳士だ」

「完璧な紳士、ねぇ」と懐疑的な人々は応酬した。「その言葉はクロワズノワやH公爵やP男爵にも当て嵌められていた。しかし彼らは皆ヴァロルセイと同じペテンの罪を犯したと認められたではないか」

「破廉恥な中傷だ……もし彼がインチキをしようと考えたならもっと巧妙に疑いを掛けられぬよう立ち回った筈だ。せめてドミンゴを二位に着かせただろう、わざわざ三位にするのでなく」

「彼に後ろ暗いところがないのなら、何も恐れるものはない筈だ。何も今日自分の馬を引き上げなくたっていいし、厩舎そのものを売りに出さなくても良い筈だ」

「競馬から手を引くのは結婚するからさ。知らなかったのか!」

「いやいや、そんなことは理由にならないだろう……」

これまでド・ヴァロルセイ氏が巧みに隠してきた破産を、もし彼らが知ったらどんなことになっていたであろうか……。ともあれ、中傷であろうとなかろうと、これはこれまで傷つけられることなどなかった輝かしいその名前が被った最初の泥であった。

賭け事好きな人々が皆そうであるように、『馬場の常連たち』も疑り深く恨みがましい人間たちであった。自分が損をするということになると彼らはカモにされた怒りから何から何まで疑ってかかる。賭け事というものが人をどこまで引き摺り込むか、自分の胸に聞いてみれば分かるであろう……。このドミンゴ事件は、外れ券を掴まされたすべての人々をヴァロルセイに対して結束させた。彼らはちょっとした武装集団のようなものを作り、今のところは無力だがいつかその機会が到来すれば華々しく復讐に打って出ようと待ち構えていた。

当然予想されるごとく、ウィルキー氏はド・ヴァロルセイ氏に与していた。彼らの共通の友人であるド・コラルト氏からド・ヴァロルセイについての誉め言葉をさんざん聞かされていたからだ。しかしそうでなくても彼は同じように行動したことだろう。ただ次のように叫ぶ楽しみを味わいたいがためだ。

「あの侯爵を非難するなんて! そんなことはしちゃいけない! ほんの昨日僕は彼の口から聞いたばかりなんだから。『ねぇ君、ドミンゴが負けたことで私は二万ルイも損をしたんだ』とね!」

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