エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-IX-16

2023-10-27 16:08:10 | 地獄の生活
それを上手く聞き出そうと、仕事の後二人が勧めてくれるワインを味わいながらシュパンは策を練り、機会を窺っていた。そのとき中庭に一台の馬車が乗り入れる音が聞こえてきた。
「あれはきっと旦那様だぜ」と窓に駆け寄りながら下男が叫んだ。
シュパンも同じように窓辺に飛んで行くと、非常にエレガントな青い箱馬車が高価な馬に引かれているのが見えた。しかし、子爵の姿は見えない。ド・コラルト氏は既に馬車から降り階段を二段抜きで駆け上がっていた。その直後、アパルトマンに入るや彼の苛立った大声が聞こえた。
「フロラン! どういうことだ? ドアが全部開けっ放しになっているじゃないか!」
フロランとは赤いチョッキの下男のことだった。彼は軽く肩をすくめた。主人の考えそうなことは知り尽くしているので何も怖れるものはない、という召使の余裕だった。で、彼はこの上なく落ち着いた口調で答えた。
「ドアが開いておりますのは、男爵夫人様からのお花が届いたばかりだからでございます……日曜日に……とは風変わりなお考えですね……それで」と彼はシュパンを指さしながら言った。「運ぶ手伝いをしてくれたこの若者とムリネ爺さんにワインを一杯振る舞っていたのでございます」
シュパンは見破られることを怖れ、震えながら出来る限り身を縮め、顔を隠すようにしていた。しかしド・コラルト氏は彼の方を見もしなかった。いつも微笑を湛えている彼の綺麗な顔は引き攣り、美しい金髪は左右の調和が乱れていた。明らかに何か良からぬことが彼の身に降りかかったようである。
「私はまた出かける」と彼は下男に言った。「だがその前に手紙を二通書かなくてはならん。お前はすぐそれらを届けるんだ、いいな」
こう言い残して彼はサロンへと入っていった。ドアが閉まるか閉まらないうちにフロランは罵りの言葉を吐いた。
「悪魔に地獄へさらわれてしまえ!……たく、クソ仕事だ! こんな時間に使いに出される。もう五時じゃないか。俺は五時半に約束があるってのに!」
突然シュパンの頭に一つの希望が閃いた。彼は指で下男の腕をとんとんと突き、いかにも人を惹きつけるような口調で言った。
「俺なら、なんも予定はないんで。ここのワインはとっても美味しかったんで、ほんの足代だけ出してくださりゃ、お宅の仕事を代わって引き受けてもいいっすよ」
シュパンの見かけはあまり人の信用を得られるようなものではなかったためであろう、下男から出てきた反応は次のようなものだった。
「うん、まぁ、断るってわけじゃないんだが……わかるだろ、簡単にゃ決められないんだ」10.27
コメント

2-IX-15

2023-10-22 11:44:53 | 地獄の生活
下男はまた、子爵の青い天鵞絨の部屋着、毛皮の裏地の付いたスリッパ、果ては就寝時に身に着ける絹の飾り紐の付いたシャツまで見せてくれた。
しかしシュパンが息をのみ、呆気にとられたのは化粧室だった。巨大な大理石の化粧台を見たとき、彼は口をポカンと開けて立ち尽くしてしまった。そこには三つの流しがあり、あらゆる種類のタオル、箱、壺、ガラス瓶、皿が並んでいた。またブラシは、柔毛、剛毛、顎鬚用、手用、マッサージ用、口髭のためのオイル塗布用、眉毛用、などがダース単位で揃えてあった。身だしなみ用の奇妙な道具類がこのように勢ぞろいしているのを、彼は今までに見たことがなかった。銀製のものも鋼鉄製もあったが、ピンセット、ナイフ、小刀、ハサミ、研磨器、ヤスリ、柳葉刀、等である。
「まるで足治療医か歯医者みたいっすね」と彼は下男に言った。「お宅のご主人はこういうの全部、毎日使われるんすか?」
「もちろんさ……しかも二回使うことが多いかな……身だしなみのためにね」
シュパンはしかめっ面を抑えることが出来なかった。そして皮肉な驚きを込めて言った。
「ひえ! さぞかし綺麗な肌になるっしょね!」
召使たちはどっと笑い声を上げた。それから門番の方が下男に示し合わせるような視線を向けてから、半分声を潜めて言った。
「男前でいることが、ここの旦那の仕事なのさ」
おお、重要な言葉が漏らされたではないか!
このまるで偶像の神殿のように優美さと洗練を追求した住居が柔らかで官能的な贅沢さを備えているのが何故なのか、シュパンは自分の予感が当たっていたことを確信した。
花台を取り替えている間、すなわち門からアパルトマンの間を十回ほども往復する間、シュパンは門番と下男の間で交わされる会話をこっそり聞き、言葉の断片から奇妙な事実が次第に明らかになっていった。ある植物をどこに置いたら良いかという議論が持ち上がると、常に下男の方が断固たる口調で、男爵夫人はこちらの場所に置いた方がお好きであるとか、このように配置するのがお好みである、などと言って結論を下し、男爵夫人から与えられた指示に従わねばならない、とも言っていた。
このようなやり取りを聞いていたシュパンは、どうやらこれらの植物が男爵夫人なる人物から送られてきたものであり、彼女はこのアパルトマンに何らかの権利を持っているのだと結論付けた。しかし、その男爵夫人とは一体誰なのだろう?10.22
コメント

2-IX-14

2023-10-18 11:03:31 | 地獄の生活
「ここだ、さぁ入って!」
ド・コラルト氏が、フォブール・サンドニに住む自分より良い暮らしをしているであろうとは思っていたシュパンであったが、この控えの間の豪華さは予想を遥かに上回るものだった。天井から吊るされた照灯器具は目を見張るようなものだったし、数脚の長椅子はフォルチュナ氏のソファと同じくらい立派なものだった。
「この悪党は小銭を掠め取るような悪事じゃ満足しないんだな……」とシュパンは思った。「スケールが違うってわけか……だが、こんな暮らしもそう長くは続かないぞ!」
仕事はすべての部屋の花の鉢を庭師が運んできた鉢と取り替えることだった。それからバルコニーの半分を占める非常にお洒落な小さな温室にも、そして絹の布を木枠に張りめぐらした綺麗な小部屋が喫煙室として使われていたが、そこにも運び込んだ。結局のところ、門番と下男はシュパンを監督し、あれこれと指示を出すだけで自分たちは作業をしなかったので、彼はすべての部屋に立ち入ることが出来た。貴重な装飾品で溢れかえったサロン、年代物のオーク材造りの食堂、まるで玉座のように壇に乗せられ一段高くなっているベッドの置いてあるキルティングだらけの寝室、贅沢な革装丁の本で埋め尽くされた大書棚のある書斎風の部屋、そういった部屋部屋をシュパンはうっとりと眺めた。すべてが美しく、豪華で素晴らしいものばかりだった。シュパンは讃嘆したが、羨ましいとも思わなかった。もし自分が正直なやり方でひと財産を手にすることがあったとしても、自分のアパルトマンはこれとは全く違ったものになるであろうと思っていた。自分ならばもっと素朴で、もっと男性的な物を置きたいと願うだろう。天鵞絨やサテン、絨毯や壁掛け、鏡やふわふわした詰め物はもっと少な目に……。しかし、このように感じていたからといって、部屋に入る度に新たに驚きの声を上げることを妨げはしなかった。彼は感嘆の気持ちをあどけなく表現する術を心得ていたので、下男はまるで自分が所有者ででもあるかのように一種の虚栄心をもって彼にあらゆる物を詳しく見せびらかした。
子爵が毎朝一時間もピストル射撃の練習をするとき用いる的を彼はシュパンに見せた。子爵はピストルが一流の腕前だったので、二十歩離れたところから十発中八発を瓶の細長い首に命中させることが出来るというのだ。また子爵が決闘に使う剣の数々も得意げに見せてくれた。彼はピストルと同じぐらいの剣の達人で、パリの武術の名人の一人から毎日一時間の稽古をつけて貰っているとのことであった。彼の決闘は従って常に上首尾に終わっているという。10.18

コメント

2-IX-13

2023-10-13 10:54:40 | 地獄の生活
「ああ、もちろん、何か厄介なことで来たわけじゃありませんよ」と彼は答えた。「つまりこういうことでして。マドレーヌのパサージュ(マドレーヌ寺院のある広場から始まるガラス屋根のアーケード)を歩いていると凄い綺麗なご婦人が俺を呼び止めてこう言ったんです。『ド・コラルトさんはダンジュー通りに住んでいらっしゃるってことだけど、私は番地を知らないの。まさか一軒一軒尋ねて歩くわけに行かないから、お願い、もしあなたが彼の住所をここまで知らせにきてくれたら百スーあげるわ!』 そんなわけで百スー頂き、ってわけなんですよ」
パリっ子ならではの豊富な経験を活かし、シュパンは今の場面にぴったりな言い訳を選んだので、聞いていた二人はどっと笑い出した。
「聞いたかい、ムリネ爺さん!」と赤いチョッキの召使が叫んだ。「爺さんの住所を知るために百スー出すような凄く綺麗なご婦人なんているかね?」
「そりゃいねぇな。けど、お前のためにこんな花を送ってくる女だっていやしねぇ……こんな珍しい花だぞ!」
シュパンは敬礼して立ち去ろうとしたが、門番が引き留めた。
「お前さん、手間賃を稼ぐのが上手そうだな」と彼はシュパンに言った。「こういうのはどうだい、ここにある花の鉢を全部三階まで運んでくれたら俺たちの手間が省けるんだがな。ワイン一杯でどうだい?」
シュパンにとってこれほど歓迎すべき提案があったろうか……? 自分の思惑がこのように上手く行ったことに気を良くしていたとは言え、まさかド・コラルト氏の家の中にまで入れるとは夢にも思っていなかったのだ。
赤いチョッキの召使が子爵の世話をする下男であろうということは、訳なく推察できた。従って花の鉢を運んで行く先は子爵の部屋であろうことも……。
しかしシュパンは喜びを押し隠した。喜んで飛びつくのは不自然に見えるであろう……。
「ワイン一杯、ねぇ」と彼は不満そうな口調で答えた。「二杯、と言ってくれたら……」
「よし!そんなら、一瓶まるごとってことにしてやるよ、小僧!」と、費用を他人の懐に委ねられる者の気前の良さで、愛想よくにこにこしながら下男が言った。
「よしきた!」とシュパンは叫んだ。「乗った!」
 少年時代、花売りをして稼いでいたとき身に着けた巧みさで複数の鉢を抱え上げながら、彼は付け加えた。
「どこへ持ってくか、案内をしてくださいよ」
下男と門番が階段を先に上っていった。当然のこととして自分たちは何も運ばず、三階まで来るとドアの一つを開けて言った。10.13
コメント

2-IX-12

2023-10-11 15:46:49 | 地獄の生活
お前が死ぬまで後悔し続けるような罪から、今回免れられたのは神様の御加護だよ。お前の雇い主は今のところ善良な気持ちを持っているけれど、お前にそのマダム・ダルジュレの後をつけるよう命令したときは邪な気持ちだったんだ。気の毒なご婦人じゃないか! 息子さんのため、ご自分を犠牲になさってたんだよ。息子さんの目に触れないよう隠れておられたのに、お前はその方を裏切るようなまねをした! お気の毒に……どんな苦しみをお耐えになければならなかったか。それを思うとわたしは堪らないよ! 今のあの方の境遇、しかも自分の息子から軽蔑されるなんて! わたしは何の身分もない女だけれど、わたしなら恥ずかしくて死んでしまうよ……」
シュパンは窓ガラスを震わせるような大きな音を立てて洟をかんだ。気持ちが高ぶって涙が出そうになるとき、彼はいつもこうやって気持ちを抑えるのだ。
「おっ母さんは心のまっすぐな母親だから、そんな風に言うけど」とついに彼は叫んだ。「おっ母さんが立派な貴婦人でパリ一の金持ちだったとしても、俺は今のおっ母さんの方をずっと自慢に思うよ。だっておっ母さんほど心が綺麗で徳のある人は他にいないからさ……。だからもし俺が誰かを陥れるような悪さに片足を突っ込んだとしたら、もう片方の足を切って貰っていいさ。でも、今回だけは……」
「今回だけは行っていいよ、トト、わたしは何も心配していないから……」
彼は心も軽く、出ていった。そしてすぐに頭の中は託された任務だけになった。彼が着替えをしたのは単なる気まぐれではない。前夜、ブレバンの店で彼はつい軽はずみな行動を取ってしまったので、彼の顔はド・コラルト子爵の記憶にしっかりと刻み付けられた筈であった。調査を開始するに当たっては、出来る限り自分が嗅ぎ回っていることを知られないようにするのが肝要なのだ……。
とは言え、ダンジュー・サントノレ通りに到着するや、彼は果敢に調査を始めた。最初のうちはなかなかうまく行かなかった。すべての家でド・コラルト子爵を知らないか、と尋ねたのだが、答えはすべて否であった。
既にこの通りの半分に当たってみた後、大層綺麗な家の一軒の前まで来ると、花の鉢を一杯積んだ馬車が停まっていた。庭師が用いる車高の低くて平らな馬車だった。一人の老人が、シュパンにはこの家の門番に見えたのだが、赤いチョッキ姿の召使の一人と一緒に花の鉢を下ろし、馬車の通れる正門の下に一列に並べていた。馬車は空になると走り去っていった。すぐにシュパンは進み出て、老人の方に話しかけた。
「ド・コラルト子爵のお宅は?」と彼は尋ねた。
「それはここだが……あの方に何の用かね?」
この質問を予期していたシュパンは答えを用意していた。10.11
コメント