エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XII-1

2024-06-28 06:58:19 | 地獄の生活
XII

 トリゴー男爵は喜んでパスカルの指示に従うこと、そしてどんな提案も何の異議も唱えず受け入れる、という好意を示してくれた。それを疑うなどは全く子供っぽいことであった。彼と男爵は共通の利害を持っていることを思い出せばそれでよかったのだ。彼らは共通の敵に対し同じような憎悪を抱いていたし、同じように復讐の思いに取り付かれていたからだ。それに、男爵と会って話をしてから起きた数々の出来事も男爵の性格を疑わせるようなものは何もなかった。
あれ以来彼が遭遇した場面というのはマダム・ダルジュレとその破廉恥な息子ウィルキー氏の間に起きたおぞましい諍いであり、そのとき彼はコラルト子爵の悪辣さを知ったのだった。
しかし不幸というものは、人を臆病にそして疑い深くするものだ。パスカルの警戒心はヴィル・レヴェック通りにある男爵邸に到着して初めて霧消した。応対に出た召使たちの態度で自分が男爵にどれほど高く評価されているかがよく分かったからである。使用人たちにどのように迎えられるかで、その家の主人が自分のことをどう思っているかが分からぬ者はよほどの迂闊者と言えよう。
パスカルが召使に名刺を渡すと、相手は恭しく挨拶をし、「どうかこちらにお越しくださいませ」と言った。「主人は只今仕事中でございますが、貴方様がいらした際には構わぬからすぐにお通しせよと申し付かっております」
パスカルは何も言わず、彼の後について行った。トリゴー邸の様子は以前に見たときと同じように彼を驚かせた。なにもかもが贅沢で光り輝いており、王侯貴族のような気前の良さ、無頓着さが感じられた。使用人たちは、まさに軍隊というほど大勢であったが、きびきびと、しかし急がぬ様子で行ったり来たりしていた。
中庭では千ルイの値が付くであろうような馬が二頭、男爵夫人のものであろう小型の箱馬車に繋がれ、前足で地面を蹴っていた。玄関では朝取り替えられる花々が芳香を放っていた。
ただ、最初の訪問時にはパスカルはこの邸の一階部分しか見ていなかったが、今回は二階へと案内されていった。男爵の書斎のある場所である。
彼は金メッキの手摺のついた大理石の階段をゆっくりと上っていった。素晴らしく豪華な絨毯、フレスコ画、高価な彫像などを感嘆しながら眺めていると、頭上で絹の衣擦れの音が大きく聞こえてきた。かろうじて脇に身をよける暇しかなかったが、一人の女性が急いで通り過ぎていった。頭をつんと持ち上げたままで、彼の方を見ようともしなかった。
彼女は四十歳を過ぎているようには見えず、まだ大変美しかった。髪は光り輝く金髪で、首筋の上で途方もなく大きな髷の形に纏め上げられていた。その衣装はと言えば、カットは奇抜で大胆そのもの、辻馬車の馬も棒立ちになるほど派手で、彼女のタイプの美貌にとてもよく似合ったものであった。
「男爵夫人でございます」と召使はパスカルの耳元で囁いた。
言われなくても分かっていた……。以前たった一度だけ、それも時間にしてほんの一秒ほど彼女を見かけたことがあったが、それは生涯忘れ得ないような状況でのことであった……。彼女を最初に見たとき彼が強く感じた恐ろしい印象が何故なのか、今までは分からなかったのだが、彼女のことを知った今は説明がついた。マルグリット嬢はこの女性に生き写しだった。髪の毛の色を除いて……。6.27
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2-XI-15

2024-06-21 18:31:49 | 地獄の生活
そうは言っても、マルグリット嬢がどうなったのか、様子を知ることは大事なことであった。パスカルは一心に考え、突然叫んだ。
「ヴァントラッソン夫人ですよ! 彼女がいる。彼女を利用しましょう。何か口実を見つけて彼女をド・シャルース邸にお使いに遣るのは、そう大して難しいことではないでしょう。彼女は召使たちとお喋りをする筈です。僕たちは後で彼女に話をさせるんです。そしたらあそこで何が起こっているか、手に取るようにわかりますよ」
パスカルの頭に閃いた解決法は勇気の必要なものであった。ほんの昨日なら、とても取り上げようとは思わなかったであろう……。
しかし心に希望を持つ者にとって勇気ある決断は難しくはない。彼はだんだん、言わば一時間ごとに成功の可能性が膨らんで行くのを感じ、最初はとても乗り越えられないと思われた障壁もなぎ倒せるように思えていた。
母親に反対されることすらも、最初はとてつもない不幸に思えたのに、今は彼を悩ませなくなっていた。というのも、この厳格なブルジョワ女性である母が、偽手紙である証拠を挙げることでマルグリットの公正さを示してくれたではないか。すなわち彼女がパスカルを見捨てたという疑いを一掃してくれたのだ。こうなれば、何を気に病むことがあろうか。
しかしこの夜彼はよく眠れなかったし、次の日も一日中家から出ず、固く口を閉ざしていた。彼はド・ヴァロルセイ侯爵に対する攻撃の計画を練っていたのである。
あの十万フランを好きに使っていい、と言ってくれたトリゴー男爵のおかげで、彼はかなり有利な立場にあった。重要なのは、この大金を利用していかに侯爵の信頼を得、彼を降伏させるように持って行くかである。
パスカルの熟考は無駄にはならなかった。いよいよ敵のもとに赴くという日の朝、彼は母に言った。
「考えは固まりました。男爵が僕の思うように行動させてくれるなら、ヴァロルセイはもうこっちのものです!」6.21







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2-XI-14

2024-06-14 06:48:53 | 地獄の生活
これまで全く矛盾していると思えた状況に、今や納得が行ったのだった。ほんの少し前まで、彼はまだこう思っていた。マルグリットの父であるド・シャルース伯爵が死の間際に、パスカルを絶望に陥れるような誓いを彼女に立てさせた、という手紙をマルグリットが彼に書いてきた。ところがド・ヴァロルセイ侯爵が言うには、ド・シャルース伯爵の死はあまりに突然訪れたので、マルグリットを認知することも、その莫大な財産を彼女に遺すと言い残すことも出来なかった、と。この矛盾は一体どういうことか。
どちらかが間違っていると言わねばならぬ……。どちらが? ……手紙の方だという可能性は非常に高い。偽手紙は、マダム・レオンの手になるものであるとしか考えられない。この点での確信は絶対で揺るぎのないものであった。そして動かぬ証拠を手に入れたとまでは言えないにしても、この『必携手紙文例集』が意味するところは明らかであろう。
これであのマダム・レオンが庭木戸のところで何故あれほど取り乱していたのか、パスカルにもはっきりと合点が行った。姿を見られるのではないか、誰かが探しに来るのではないかという不安で彼女は震えあがっていたのだ。マルグリット嬢が不意に姿を現し、すべてが露見するかもしれない、と……。
「私の考えでは」とフェライユール夫人が意見を述べた。「あの気の毒なマルグリット嬢に知らせてあげることが賢明なやり方ではないかしら。彼女の小間使いがヴァロルセイ侯爵のスパイであるということを」
パスカルは同意しようと口を開いたが、考え直した。
「彼らはマルグリットにぴったり張り着いて監視しているに違いありません」と彼は答えた。「もし僕が彼女に会おうとしたり、手紙で連絡を取ろうとすることすら、すぐに感づかれるでしょう。そしたらその瞬間に、今僕が持っている戦いを勝利に導いてくれる有利なカードを手放すことになってしまいます……」
「それじゃお前は、彼女をあらゆる種類の危険に曝しておくことを選ぶと言うの?」
「そうです……彼女が危険に曝されていることは疑いの余地のないところですが……マルグリットは同年代の娘より遥かに多くの経験をしてきています。彼女はマダム・レオンの正体を見抜いているのではないでしょうか。そうだとしても僕は全く驚きませんね」6.14
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2-XI-13

2024-06-07 06:23:02 | 地獄の生活
 「ええ、それに」と彼女は語調を強めて言った。「この手紙が誰かの文章を丸写ししたものであるだけに、これらの間違いは一層注目すべきものになるわね……」
 「えっ!」
 「まさにそのまま、引き写しよ。昨日の夜私はまたこれを取り出して読み返していたとき、これと同じものをどこかで読んだことがある気がしたの。それがどこだったか、どんな状況でだったか何時間もずっと思い出そうとしたけれど駄目だった。ところが今朝になってふと思い出したの。職場の女工員達がそれをよく使っていたのよ。私はそれを読んでよく笑ったものだわ……。それで買い物に出かけた際、本屋に立ち寄ってその本を買ってきたのよ。ほら、そこの暖炉の隅に置いてあるわ。取ってきて」
 パスカルは言われた通りにし、その本を見て驚いた。タイトルはこのようになっていた。
 『必携 手紙文例集 
一般的事例を洩れなく収録 
男性、女性を問わず
日常のあらゆる場面に使える』
「私が印をつけておいたページを見てごらんなさい」 とフェライユール夫人は息子に言った。
パスカルはそのページを開き、読んだ。
『文例198 死を目前にした父親に説得され、恋人と別れ、別の相手と結婚することを誓った若い女性の手紙:
拝啓、私の父である〇〇に死の床から懇願され、私にはそれに背く勇気がありませんでした……云々』
その後に続くのは、綴りの間違いを除いて、この『必携手紙文例集』に載っている愚かしい文章がそっくりそのまま載っていた。これでもう疑いの余地はなかった。パスカルは目から鱗が落ちる思いだった。彼とマルグリット嬢の間に溝を拵えるため二重に仕組まれたこの卑劣な策略を、今や明確かつ論理的に見定めることが出来たのだ。彼の名誉が踏みにじられたのは、マルグリット嬢が彼に愛想を尽かし、彼を拒否することを期待してのことだった。この企みが上手く行かなかったと見て、敵はパスカルが自分の潔白を訴えようとした場合に備え、この偽りの絶交の手紙を考え出したに違いない。
というわけで、彼の愛情はほんの短い間弱らされたとは言え、どのような妥当な推論に乱されることもなく、見かけに騙されることもなかったのだ……。彼が母にこう言ったのは正しかった。
「僕がこんなに打ちのめされているときマルグリットが僕を見捨てるなんてあり得ません。僕に釈明の機会も与えず僕を非難する者たちの方を彼女が信じるなんて、僕には到底信じられません。僕に不利な証拠が挙げられているかもしれません。状況は悪いかもしれませんが、僕は挫けません……」6.7
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