エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XII-22

2024-10-31 12:09:05 | 地獄の生活
「そんなことはどうでも良いことです! 正直申して、私が貴方の立場なら、速やかに訴えを起こしますよ」
「そんなことをして何になる? 今も言ったように私にははっきり分かっていることだ……ただ、ちょっとその、言い忘れていた大事な点がある……。この売買は条件付きだったのだ。しかも秘密を守るということで……。侯爵は猶予期間内に私に代金を返却すれば、彼の馬を取り戻せるという権利を留保していた。その期限というのがほんの一昨日のことだ。それで馬が正式に私のものになったというわけだ……」
「えっ! どうして最初からそれを言わなかったのですか!」と男爵は叫んだ。
これでド・ヴァロルセイ侯爵の不可解な詐欺の様相が掴めてきた。侯爵は破産が目前に迫っていると見て、とにもかくにも時間を稼ぎたかったのだ。それで彼は使い込みをした会計係と同じような行動を取った。最初に使い込んだときには、自分にこう言う。『この金はちゃんと返しておこう。そうしたら誰にもばれない』と。やがて期日が訪れるが、彼の懐具合は盗みを働いた日よりも好転はしていない。そうこうするうちに収拾のつかない事態に呑み込まれてしまう。
「それで、どうなさるおつもりですか、大公?」とパスカルが話を元に戻した。
「ああ、それを考えておるんだ……侯爵に、彼の馬が出走した記録を載せている新聞を全て提出してくれと要求しておいた。訴訟ということになったらそれが役に立ってくれるだろう……。じゃが、本当に訴えを起こすべきかどうか? これがただの金の問題ならば、笑って済ますこともできる。わしは、このようなはした金にどうこう言うような男ではない……。じゃが、彼はわしをコケにした。言語道断なやり方で! それがわしには腹に据えかねるんじゃ。更に、こんな風に易々と騙されたことを公に認めれば、どこに行っても物笑いの種にされる。それにあの男は危険な人物だ。彼の仲間たちが彼の肩を持てば、わしは一体どうなる? 外国人のわしは? わしはパリにいられなくなるだろう。ああ、この忌々しい事件からわしを解放してくれる者がいたら、喜んで一万フランぐらい出すのじゃが……」
困惑と憤激のあまり、彼はいつもは決して脱がないトルコ帽を毟り取ってテーブルに叩きつけ、車引きも顔負けの悪態を吐いた。が、すぐに我に返り、無頓着さを装うことにしたものの、あまりうまくは行かなかった。
「ふん、もうたくさんだ!」と彼は言った。「このことについては、今日はこれぐらいにしておこう。私はゲームをしに来たのだから、ゲームをやりましょう、男爵。でないと、貴重な時間を無駄にすることになりますぞ、いつもお宅が言っておられるように」
パスカルとしても、これ以上聞くことはなかった。彼は男爵と握手をし、今晩また会うことを約束して出て行った。10.31
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2-XII-21

2024-10-27 08:17:16 | 地獄の生活
競走馬市場というのは、あらゆる種類の詐欺師が暗躍する場であるということは誰しも認めているところである。金に対する鋭い執着心がギャンブル熱やライバルの鼻を明かしてやりたいという見栄と結びつき、あの手この手の術策を生むのである。しかし、このド・ヴァロルセイ侯爵の手口ほど大胆で恥知らずなものは聞いたことがなかった。
 「それで貴方は、大公、何もお気づきにならなかったのですか?」とパスカルは尋ねた。その声にはありありと信じられないという響きがあった。
 「そんなことに私が精通しているとでも思っているのかね?」
 「貴方のお付きの者たちは?」
 「ああ、それは話が別じゃ……私の厩舎の責任者が侯爵に買収されていたとしても、私は驚かんよ」
 「では、どのようにして騙されたとお分かりになったのです?」
「全くの偶然からじゃ。私が雇い入れようと思っている騎手は、私が買ったと思っていた馬のうちの一頭に過去に何度か乗ったことのある男でな……当然の成り行きとして、私はその男に馬を見せたいと思った……ところがその男、馬小屋の前に立つか立たないうちに、こう叫んだのじゃ。『こ、この馬……なんてこった……大公、騙されましたね』と。それですぐに他の馬も調べてみたところ、化けの皮がはがれたというわけじゃ……」
男爵はパスカルよりもカミ・ベイの性格をよく知っていたので、この話を頭から信用することは出来なかった。というのは、唸るほど金を持っているこのトルコ人が、金に対する軽蔑を見せるのは単なるポーズに過ぎなかったからだ……。彼が財布の紐を緩めるのは虚栄心がくすぐられるときだけだった。確かにジェニー・ファンシー(当時評判の高級娼婦としてガボリオの他の作品によく登場する)に千ルイもする首飾りを贈ることは平気でしてのけたが、それは翌日のフィガロ紙やル・ゴロワ(1868年創刊の大衆紙)に彼の気前の良さを語る記事が載るからであった。貧しさに喘ぐ一家の母親に人知れず百スーを与える、というようなことは彼のスタイルではないであろう。
もう一つ彼が見せびらかしたくて堪らないのは、ヨーロッパ中で彼ほど金を騙し取られた人間はいない、という評判だった。しかし、実際彼が途方もないぼられ方をされたとしても、それはわざとやっているわけではなかった。彼にはアラブ人特有の用心深さと吝嗇がちゃんと備わっていたからである。もし彼が二十フラン金貨を二スーで買わないかと持ち掛けられたとしても、やはり法外だ、と叫んだであろう。
「はっきり申しまして、大公」と男爵はきっぱりと言った。「そのお話は、私の耳には貴方のお国で出回っているようなほら話のように聞こえます……。私はよく知っていますが、ヴァロルセイは頭のおかしな男ではありません。二十四時間以内にばれてしまうようなそんなお粗末な不正を行えば、彼の名誉が傷つきます。そんな危険を彼が犯すなどと、考えられますか?」
「他の人間に対してなら、彼ももっと慎重になったかもしれんが、相手が私なら! カミ・ベイから金を騙し取っても危険な目に遭うことはない、とは誰もが知っていることではないか!」10.27
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2-XII-20

2024-10-20 10:16:36 | 地獄の生活
彼に話す気がないことは明らかだった。男爵は肩をすくめたが、パスカルは果敢に一歩前に踏み出した。
「それでは、大公、貴方がどうしても言えないというその名前を私の口から申しましょう……」
「え?」
「但し、男爵と私がたった今致しました誓約は、今この瞬間から無効になるという点をはっきり申しておきます」
「ああ、もちろん」
「では申します。貴方に不正を働いた相手というのはド・ヴァロルセイ侯爵です」
皇帝の密使が処刑の紐を携えて現れたとしても、カミ・ベイがこれほど怖れを見せることはなかったであろう。彼はぽっちゃりとした小さな脚でぴょんと立ち上がると、目を泳がせ、絶望的な身振りで両手を動かした。
「シッ、声が大きい!」彼は震えあがった声で言った。「大きな声を出しなさるな」
というわけで、彼は否定しようとさえしなかった。事実は確定したと考えてよさそうだった。
しかしパスカルは、それだけでは満足しなかった。
「主要人物が分かった今は」と彼は続けた。「大公、どのような経緯でそう為ったか、お話頂けるでしょうね……」
哀れなカミ・ベイは追い詰められた。彼は房の長い赤いトルコ帽の下で冷や汗を滝のように流していた。
「あ~あ、仕方がない!」彼は悲し気に答えた。「ごくごく単純なことですよ……私は競走馬というのを持ちたかった。ところが、です。私はこのスポーツにおいては全くの素人にすぎず、馬とロバの区別もつかない……。それなのに人は朝から晩まで私に言う。『大公、あなたみたいな方なら競走馬をお持ちにならなければ』 新聞を広げれば『彼のような人物なら競走馬を所有して然るべき』というようなことが必ず書いてある。そんなわけでとうとう私もこう思った。そうだ、彼らの言うとおり、私のような男は競走馬を持たなければ、と。それ以来私は馬を探し始めた。あらゆる筋から馬を買い漁っているとき、ある日ド・ヴァロルセイ侯爵が私に言ったのだ。
彼の持ち馬のうち数頭を譲っても良い、と。それらはよく名前の知られた馬で、彼の言うところによると、買値の十倍以上の儲けをもたらしてくれた、と。私はその申し出を受け、彼の厩舎を一緒に見に行く約束をし、実際に行ってみて、その場で七頭の馬を買うことを即決した。それらは彼の持つ馬の中でも最上のもので、将来性も十分にある、と彼は誓った。それで私はその価格を支払った。それは間違いない……。ところが、ここでまんまと罠に引っかかったというわけだ。引き渡されたのは私が買った馬ではなかった。本当に私の買った馬たち、粒選りの名馬たち、はよそに売られていた。どうやらイギリスの誰かのもとに偽の名前をつけて。そして私はと言えば、大金をはたいて手に入れたのは身体つきや毛色は似ているものの、どうしようもない駄馬だったのだ……」
 パスカルとトリゴー男爵は、呆気にとられた視線を交わした。10.20
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2-XII-19

2024-10-15 11:04:57 | 地獄の生活
件のトルコ人は憤懣やるかたないという顔付きで待っていた。彼が勝ち運に乗っていたところを、召使が男爵を呼びに来たのだった。こうした中断の所為でツキが逃げていくのではないかと彼は恐れていた。
「おぬし悪魔にでも執りつかれたか!」と彼は習い覚えた下品な口調で叫んだ。彼の金を崇拝する取り巻き達によって『この上なくシック』と褒めそやされている言葉遣いである。「ゲームをしている途中で席を外すなどとは、食事の途中で邪魔をする以上にしてはならぬことだ」
「まぁまぁ、大公」と男爵は穏やかに言った。「ご機嫌を直してください。その代わり、二時間ではなく三時間お相手をいたしますから。ただ、貴方に一つお願いがあります」
カミ・ベイはさっとポケットに手を入れた。その動きがあまりに機械的でかつ自然なものだったので、男爵もパスカルも思わず吹き出してしまった。カミ・ベイ自身も彼らが何を笑っているのかを理解し、大きな声で笑い出した。
「習慣とは恐ろしいものだ!」と彼は言った。「パリに来てからというものわしは……。まぁしかし、どういうことか、お話を聞きましょう」
男爵は座り、重々しい口調で言い始めた。
「こういうことです。ほんの一時間も経たない前、貴方は私たちに言われましたね。馬を買ったら、とんでもない目に遭わされたと」
「まるで追い剥ぎにでも遇ったようなもんじゃ」
「その相手というのは誰か、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
カミ・ベイの赤い頬が少し青白くなった。
「ふむ、それは、その、ちょっとデリケートな問題ですな」と彼は今までとは違う声音で言った。「いや……追い剥ぎと言いましたが、その男は手強い剣の名手でもあるようでして、私が名前を明かせばどのような目に遭わされるか……。私に決闘を申し込んで来ることもあり得ますからな……。彼が怖いと言っておるのではない。断じてそうではないが、私は争わぬことを信条としておりましてな……。私のように何百万という年利収入のある人間は決闘の危険などに身を曝すことは出来ぬことでして……」
「しかし、大公、フランスでは詐欺師に剣で決闘をさせるという名誉を与えたりはしませんよ」
「私の執事も同じことを言っておる。彼もフランス人でして。じゃが、そんなことはどうでもよい!それに、こちらとしても十分な根拠があるわけでもなく……これといった証拠はまだ掴んでおらぬ状態で……」
カミ・ベイが恐怖におののいていることは疑いの余地がなく、彼にとって何より大事なのは自分の身の安全なのだった。
「それでは、こうするのはどうでしょう」 男爵は食い下がった。「ともかくも相手の名前を教えてくれませんか。……ここにいるのは---彼はパスカルを指した---私の大事な友人の一人です。彼のことは私同様に信用してくださって結構です。我々の名誉にかけてお約束いたします。貴方に聞かせていただいた秘密は、貴方から特別の許可がない限り、誰にも口外いたしません」
「まことか?」
「名誉にかけて誓います」 と男爵とパスカルは異口同音に答えた。
カミ・ベイは自分の周囲を不安げに二度見回した後、ついに決意を固めたかのように見えた。だが、そうではなかった!彼は考え込み、決然として言った。
「やめておきます! 私には揺るがぬ確信があるわけではない。上流社会の最も高い地位にあり、人望もあり、大変な金持ちでもあるその方が、こんなことでからかわれたりすれば平然と聞き流すわけがない。私はそんな危険を冒すわけには行きません……」10.15
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2-XII-18

2024-10-10 11:56:28 | 地獄の生活
しかし危険が切迫したものであればあるほど、彼は自信を深めた。人が運命を味方につけているかどうかを知るのは、こうしたちょっとした偶然ではないだろうか。それが人生において決定的な役割を果たすのだ。
それに彼は自分がある人物を演じきったことに満足していた。その役柄は生来廉直な気質の彼にとってひどく嫌悪を催すものであったのに。彼は堂々と嘘を吐く能力が自分にあることに自分でもちょっと驚き、自分の大胆さに当惑を覚えずにいられなかった。
それにしても、そこから得られた報酬は大きかった! 彼はまんまとド・ヴァロルセイ侯爵の首の周りに縄を巻き付けてきた。そのことに疑いの余地はなかった。やがてその縄を絞り、侯爵を絞め殺すことになるのだ……。
だが、マダム・レオンの訪問が彼を不安にさせた。
「何用で彼女はド・ヴァロルセイに会いに来たんだろう? しかも医者と一緒に?」と彼は考え始めた。「そのジョドンとかいう医師は何者だろう? どんな良からぬ役回りが彼に割り当てられているのか?」
出来事の経過を辿って行くと必然的に虫の知らせのような予感が生まれるものだ。この予感が、マルグリット嬢と彼の周囲に張り巡らされた腹黒い陰謀においてこの医者が何らかの役割を過去に演じたか、あるいはこれから演じることになるかのどちらかであろう、とパスカルに告げた。
しかし、この謎を解こうとしたり、そこから最も起こり得そうな結論を引き出そうとしている暇はなかった。時間はあっという間に経ち、侯爵邸に戻る前に彼にはどうしても知りたいことがあった。侯爵が自分の馬を売却した際、購入者がかくも厳格な馬の履歴を要求したその背景にある疑いとは一体どのようなものなのか、ということである。
トリゴー男爵を通じてならすぐカミ・ベイに連絡が着くであろう。従って、彼が急いだのは男爵邸であった。
今朝の主人の手厚いもてなし様を見た後なので、召使たちがパスカルを丁重に扱ったのは当然のことであった。彼が訪問の目的を説明しようとするまでもなく、男爵の下男が自分の仕事を中断してやって来て、彼を一階の小さなサロンに案内しながら言った。
「主人は今取り込み中でございますが、あなた様でしたらお知らせしなければ叱られます。今知らせに行って参りますので、しばらくお待ちください……」
すぐに男爵が姿を現した。階段を二十段急いで降りてきたのですっかり息を切らしている。
「ああ、上手くいったのですね!」パスカルの顔を見るなり、彼は叫んだ。
「すべて思い通りに運びました、男爵。ただ、今朝お会いした外国の方とお話しする必要が生じたのです」
「カミ・ベイのことですか?」
「はい」
それから彼は少ない言葉数で状況を的確に説明した。
「確かに、運は我々の味方をしているようだ」と男爵は考え込む態度になった。「カミならまだここに居ますよ……」
「まさか、そんなことがあり得るとは!」
「本当のことですよ。あのトルコ人めを厄介払いするのは並大抵のことじゃありませんからね。勝手にずかずかと昼食のテーブルに着いて、ゲームを二時間する約束までさせられましたよ。カードを手に持った彼と二人きりになってどうしようもなくなったところへ、貴方が来られたというわけです。さぁいらっしゃい。彼を問い質そうではありませんか」10.10
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